触れられない距離

神崎

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じゃがいものグラタン

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 風呂場へ行くとまだお湯は浴槽の半分くらいしか溜まっていない。それを見て翔は一度自分の部屋に戻り下着なんかを用意する。しかし色んな事をしていても落ち着かない。テーブルの上にある資料を手にしてみたり、テレビを付けたりするが気もそぞろだった。
 芹が沙菜のことを告げるのか。それとも沙夜が一馬のことを告げるのかわからない。どちらも人道に反している。姉妹に手を出した芹と、既婚者に手を出した沙夜。沙夜の方が世にばれるとリスクが高くなるだろう。だがそれは翔も同じ事だった。
 携帯電話を手にして、メッセージを読み返す。響子からのメッセージがあり、響子はやっと仕事が終わったようだ。響子は仕事が始まるのが遅いが終わるのも遅い。休みの日くらいしか保育園へ海斗を迎えに行けないし、土日は関係なく仕事をしている。だからこそ一馬の実家にいつも世話になっているのだ。一馬も土日に必ず休めるわけでは無いのは治も同じで、治の方はどちらも休めないというのはあまり無いがその時には奥さんの妹のところに預けているらしい。もっとも治の奥さんは一日がっつりと働いているわけではないので、数時間ほどなのだが。
 もし一馬と響子が別れることになったら、海斗はどうするのだろう。一馬の方に引き取られても響子の所に引き取られてもまだ海斗は手がかかる年齢だ。まだそれには時間がかかると言えるだろう。
 しかしいくら考えても芹が帰ってくるまではまだ何も見えない。ぐだぐだ考えていても仕方が無いのだ。そう思って翔は気分を晴らすように、台所へ行くと冷蔵庫を開けた。そこにはさっき片付けをしていたときに沙夜がパッと作ったモノなのだろう。タッパーに入っていたにんじんのシリシリが入っている。にんじんを細切りにした炒め物という感じだ。にんじんが持っている甘さと、ツナ代わりのベーコンと卵炒めて、少し甘辛く味を付けている。沙夜はいつもここに居たとき自分が帰って来れなくても食べれるようにと、こういう常備菜を作っていた。それが沙夜の優しさなのだ。その優しさを独り占めしたくて好きになり、そしてその優しさに甘えていたのかもしれない。芹はそれを忘れたのだろうか。
 そう思いながら、翔は一旦冷蔵庫を閉めると押し入れの中から箱で買っている缶ビールを数本取りだして、冷蔵庫の中に入れる。こんな日は少し酒を飲みたいと思ったからだ。そしてつまみににんじんシリシリを食べれば良いと思う。その時だった。
「ただいま。」
 芹の声がして思わず振り返った。するとリビングに入ってきた芹はニットの帽子を脱いで不機嫌そうにそれをソファーに投げる。
「お帰り。早かったな。」
 この時間では駅までも往復していないはずだ。何も話をしなくてもこんな時間に帰ってこれるわけが無い。
「邪魔が入ったんだ。」
「邪魔?」
「あいつなんなんだ。最近すげぇテレビなんかやネットでも見るけど、沙夜に馴れ馴れしすぎ。」
「テレビ?」
「帰国したバレエダンサー。」
「あぁ。鳴神さんかな。」
「鳴神?あぁ、鳴神順大だっけ。沙夜と一馬に世話になっているって言っていたけど、それにしてはなぁ……。」
 芹が機嫌が悪かったのは鳴神順大に会ったからなのだろうか。そして沙夜の話では順大は割とはっきりした性格なのだという。それが芹に合わなかったのだろう。
「何か言われた?」
「うーん……。言ってることは正論なんだよ。でもあの態度がさぁ。」
「とりあえず風呂でも入るか?外は寒かっただろう?たまには一番風呂に入ったら?温まったら冷静になれるだろうし。」
「頭を冷やすって事か?わかったよ。お、ビール冷やそうとしてるのか?」
「風呂上がりにな。」
「腹が出るぞ。お前。ジム行ってる?」
「しばらく行けないな。」
 遥人の父親の件があるのだ。しばらくは派手に動かない方が良いかも知れないと言われたばかりだし、ジムも少し休むことになるだろう。その間でも少し自分で出来ることをしなければ、三十代になって二十代のような食生活をしていたら本当に腹が出ると思うから。

 駅まではそこまで離れているわけでは無い。片道でも十分くらいだ。その間に住宅街もあればコンビニもコインランドリーもある。住宅街にあるこの辺は、夜になってもそういう所の明かりがあって、人通りは昼間ほどでは無いがある方だろう。沙夜と芹が歩いていても、向かいからやってきた残業帰りのサラリーマンらしい人が通り過ぎていく。
「正月は辰雄さんの所へ行ったのよね。」
 沙夜はバッグに入っている塩の小袋を思いだして、話題を振った。すると芹は頷いて言う。
「昭人はでかくなったよ。小学生って行っても違和感ないし、明菜はもう少しで首が据わりそうだ。」
「近所の茂さんって人とも仲が良いのね。」
「うん。沙夜はあの人とは話が合うかもな。あまり会ったこと無いんだろ?」
「そうね。漁師をされているっていうからどうしてもそんなにがっつりと時間が合うわけでは無いし。」
 そもそも沙夜は時間があまりないのだ。これからツアーに入るとここに居ることも少なくなるだろう。「二藍」にとっては遥人の父親のこともあるので、この土地にいないというのは都合が良いだろうが、その分派手な動きは出来ない。
「あのさ。沙夜。」
「何?」
 足を止めた。ついに沙菜のことを口にするのだろうか。そう思って沙夜は少し覚悟を決めようとしていた。芹が沙菜のことを言うのだったら、自分だって一馬のことを言わないといけない。自分だけ隠すような卑怯な真似はしたくなかったから。
「お前の実家ってそこまで離れてないよな?」
「えぇ。電車では乗り継がないと行けないけれどね。」
 まさかこんな時に実家へ行きたいなんて言うことを口にするのだろうか。全てを隠して、または誤魔化して一緒になっても見えるのは別れだなのだと思うのに。
「あのさ……。」
「芹。その前に……。」
 その時だった。先にあるコンビニから一人の男が出てきて、沙夜を見つける。そして二人に近づいてきた。
「沙夜。」
 名前を呼ばれて沙夜は振り返る。そこには、鳴神順大の姿があった。
「順大さん。」
「呼び捨てで良い。一馬だってそうしているだろう。もう友達の感覚で俺は接していたのだが。」
「友達?」
「そっちの方が楽だ。」
 いきなり沙夜に声をかけてきた男は、背が高く細身で若干くせ毛の黒髪がアンニュイな雰囲気を出していた。ダウンのコートとジーンズをはいているが、何を着ても様になっているのは姿勢が良いからだろう。
「この町に何か用事があったのか。」
「えぇ。「二藍」のメンバーがこの町に住んでいてね。私はそこに前に住んでいたの。妹と一緒に同居していて。」
「ルームシェアか。俺も一時はそうしたこともあるな。寮とは違って自由が割と利いていたが、その分不便さもあった。」
「気が合う人では無ければ難しいわ。「二藍」のメンバーだから上手くいったのよ。」
「なるほど。で……そっちは?」
 姿勢が悪く猫背。その上来ているモノも何年着ているのかわからないジャンパーとニットの帽子。芹は順大から見るとうさんくさい男でしか無かった。
「ルームシェアを彼も一緒にしていたの。駅まで送ってくれているわ。」
「そうか。俺も駅まで行くから一緒に行くか。」
「え……でも……。」
 今から芹に告げようとしていることがあるのだ。その場に順大が居てもらっては困る。修羅場になるかもしれないのだから。
「あんたは見たことがあるよ。外国から帰ってきたばかりのバレエダンサーだろ?」
「そうだ。」
「あっちはレディーファーストなのか。」
「そうでも無い。それが浸透しているのはヨーロッパ圏だろう。あの国は個人主義だった。」
「だったら個人を大事にしてくれよ。俺は沙夜と話があるんだ。」
「……話?」
 それを聞いてやっと順大はわかった。この男が沙夜の恋人なのだろうと。だがどう見てもうさんくさい。猫背で更に見上げられると、K街でよく見かけた勝手に因縁を付けて金を巻き上げそうなチンピラに見える。しかし一馬も見た目ではヤクザだ。沙夜はこういう感じの男が好きなのだろうが、沙夜がそれで幸せなら良い。しかしどう考えても沙夜はこの男と居ても幸せそうに見えないのだ。
「恋人なんだろう?」
「えぇ。まぁ……。」
 まだ恋人だ。沙夜はそう思って否定しなかった。すると順大は少し頷いて言う。
「恋人であれば理解してくれているだろう。沙夜の仕事のことを。」
「仕事?」
「俺はバレエダンサーで向こうにずっと居たし、こっちに帰ってきたときにも報道されていたのを知っている。だがそれを知らない女から飽きるほど声をかけられてな。」
「声……って事はナンパでもされたって事か。」
「あちらでは声をかけてくるのは売春婦くらいだったのにな。」
 それは困る。順大がこちらに帰ってきて、女性を口説きまくっているなんて記事が出たら、CMの話も無くなりそうだと思うから。
「わかったわ。駅までで良いんでしょう?帰るのはK街?」
「そうだ。」
「沙夜……。」
 芹はそれを止めようとした。だが順大が芹から沙夜を引き離す。そのために沙夜の肩に手を置いた。まるで恋人にするように肩を抱く。
「おい。あんた。」
「なんだ。レディーファーストでは無いが、俺は女を車道側を歩かせることはしない方でな。」
「……。」
 そんなところを見られていたのだ。悔しそうに芹は拳を握ると、沙夜は振り返って芹に言う。
「芹。また連絡をするわ。連絡なら取っても良いと言われているし。」
「あぁ……わかった。」
 悔しいが、順大の言うとおりだ。女の扱いに全く慣れていないのがバレバレで、そして順大はそれに慣れている。体よく沙夜は利用された感じがあるが、それが沙夜の仕事なのだ。納得しているつもりだったのに、あの男が言うと腹が立つ。そう思いながら二人が駅へ向かう背中を見ていた。
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