触れられない距離

神崎

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パニーニ

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 よく考えたら寒い冬空なのだ。良く晴れているとはいっても風は冷たい。なので翔はスタジオで食事をすることにした。それに外で話をしていると、また裕太に絡まれることもあるかもしれないと思うと、その辺も注意をしないといけない。
 翔が受け取ったパニーニには、トマトとチーズ、それにベーコンが挟まっている。割とこってりしたモノだろう。対して、沙夜の受け取ったパニーニはスモークサーモンとベビーリーフ、バジルのソースなどが入った野菜中心のモノだったがそれでもボリュームはたっぷりだ。
「美味しい。サーモンの塩が良く効いてるわ。」
「こっちもチーズの味がこってりしてる。高校生とか好きじゃ無いかな。こういう味。」
「翔は高校生みたいな味覚なのね。三十過ぎなのに。」
「沙夜もすぐ三十になるよ。」
 パニーニ自体もふわふわしていてとても美味しい。良い店に当たったと思った。そしてコーヒーに口を付ける。コーヒーはおそらく淹れ立てというわけでは無く作り置きしていたモノだ。それでも香りが高くて、良い豆を使っているのだろう。パニーニと良く合っていると思った。
「それにしてもこの近くで天草さんに会うなんてね。」
「瀬名さんって言ったかしら。」
「ギタリストの?」
「えぇ。そのお陰みたいな所があるわ。最近、雑誌でよく見るのよ。「Harem」は。」
 雑誌といっても音楽雑誌だけでは無い。ティーン向けのファッション雑誌や文芸誌に載ることもある。仕事を選んでいないのがわかるようだ。
「それでも瀬名君のバーターみたいな感じなのかな。」
「ちらっと見た感じ、「Harem」のリーダーは天草さんのはずなのに、ボーカルの人を差し置いて瀬名さんがセンターに載っているように見えるわ。そうなると本当にバーターなんだっていうのがわかるようでね。」
 それでも「Harem」を大事にしたいのか。それとも自分の保身のためにしているのかはわからない。
「子供さんが居ると何をしても稼がないといけないって思うんだろうね。俺も将来はそうなるかな。」
「翔はもし「二藍」を離れることになっても、生活に困ることは無いでしょうね。」
「え?」
「講師の仕事はやはり順調なんでしょう?」
「うん……。けどさ。進んでしたいとは思わない。」
「どうして?」
「講師をしていると、どうしても前の仕事場の人なんかも来ることがあるんだ。そうなると気まずい空気になるし。」
 そしてその元同僚という人が、ありもしないような噂を立てるかもしれない。メーカーにはきっと伝わっている。だが、講習をするのに翔がすると言うだけで人が集まるのだ。そしてその内容はわかりやすい。そうなると楽器も売れ行きが良くなり、翔がきっかけだと言えばそんな噂というのは聞いて聞かないふりをするのかもしれない。そうなってくると今度苦しいのは、その楽器の販売店かもしれないのだ。
「気にしないで。もし行きすぎたことを言われたりしたらすぐに言って来ても良いから。こちらで対処は出来るし……。」
「大丈夫だよ。それに……当たっているところもあるんだから。」
「当たってるって……体で契約を取ったとか?」
 そう言われて翔は少し笑った。その部分を言うのかと思って。
「それはしてない。大体そこまで自信があるわけじゃ無いし。一馬じゃあるまいしさ。」
「一馬?」
「響子さんにさ。色々聞いた。響子さんも悩んでいたから。」
「……。」
「二人目の子供が欲しいって一馬は必死だったんだ。でも海斗君を産むときだって難産だったし、産まれたら産まれたでワンオペ状態の育児。それでは二人目って言う気にはならないよ。」
「一馬も時間があるときには協力していたみたいだけど。」
「協力?違うよ。二人の子供なんだから、一馬は面倒を見て当然なんだ。けど、仕事、仕事で家に居ることも少ない。なのに二人目が欲しいって、のんきなことを言っていて気分が良いわけないよ。」
 ずいぶん響子の肩を持つな。そう思っていたが、思えば最近の子育てというのはそんな感じなのかもしれない。子育てに夫が協力するなんて言葉は禁句なのだ。
「わからないわね。うちは父親が全く子育てにはノータッチだったから。そんなモノかと思ったけど最近は違うのね。」
「夫がノータッチでいれるのは周りの協力があったからだよ。近所の人だったり、親族だったりね。でも響子さんの所は誰も居ないからさ。」
「真二郎さんが居るわ。」
 真二郎の名前に思わず翔はコーヒーを持つ手を止めた。
「でも真二郎さんは別に子供いるわけでも無いし、結婚をしているわけでは無い。ただの幼なじみだ。」
 すると沙夜はコーヒーを口にすると翔に言う。
「ただの幼なじみが一緒のベッドで寝るかしら。人の温もりが無いと寝られないという人なのはわかるわ。でもずっとそういうわけにはいかないでしょう。海斗君だってもう体も大きくなっている。ずっと一緒に寝るわけにはいかない。一馬だってずっと寄り添ってあげるわけにはいかないわ。そうなると頼れるモノは自分しか無いんじゃ無いのかしら。」
 結局自分の足で立ち上がるしか無い。沙夜はそう思っていたのだ。過去のしがらみは取れた。だったらあとは自分の力で立つしか無いのだから。
「沙夜さ。どうして欲しいの?響子さんの所に一馬が帰ってきて欲しいと思ってる?それとも別れて欲しいと思ってるの?」
「……。」
 すると沙夜は言葉に詰まる。全て翔の思惑通りに言葉を運ばされたと思ったからだ。一馬との関係を自白させようと翔は思っていたのだろう。
「良いよ。俺、芹には言わない。芹も隠したいことの一つや二つはあるんだろうし。俺も言いたくないことはあるから。」
 翔の言いたくないことと言うのは、今までの会話からわかる。響子の肩を持つ翔と、一馬の肩を持つ沙夜。誰が誰を想っているのかわかるから。
「ねぇ……。やっぱり翔……。さっきここに……。」
 食べ終わったパニーニを包んでいた紙を小さく折る。そして翔は立ち上がると、パソコンを起動させた。そして一つのファイルを開く。横にあるスピーカーも電源を入れると、そこからはピアノの曲が流れた。
 電子的なピアノの音かもしれない。だがその音は温かく、染み渡るように感じた。ゆっくりしたテンポで愛を語っているように感じる。
「これさ。響子さんに当てた曲。世に出すつもりは無いし、響子さんだけに知っておいて欲しかった。曲のファイルを音楽プレーヤーにいれてさ……。凄く嬉しそうだった。一馬だってこんなことをしないって。」
「……。」
「あいつはベースの曲なんか無いって言ってきっと作ろうともしなかったんだろう?でも沙夜はちゃんとその曲を作った。ちゃんと曲になっている。一馬と一緒に作るあげる気なんだろう?」
「そうだけど……。」
「そういう所なんだよ。やる前から無理って言って、作ろうとしない。実際出来ないことは無いのにさ。」
「……あのね。翔。何か誤解を……。」
「俺は誤解じゃ無い。勘違いで曲を作ったりしない。だから沙夜も正直に言って良い。俺は、芹に言うつもりは無いし沙夜のことも言うつもりは無いよ。」
 その言葉に沙夜はため息を付いて翔に言う。
「あなただけ仲間はずれにしていたみたいね。それは謝るわ。」
「無理は無いよ。沙夜はこういう事は初めてなんだろう?」
「そうね……。沙菜のことを見ていて、私はそんな馬鹿をしないと思っていたんだけど。案の定だったわ。」
「……。」
「沙菜は不倫をしていたことがあって、弁護士に……。」
「沢村さんだったか。」
「えぇ。あぁそうだったわね。あなたは沢村さんには会ったことがあったんだったわね。」
「俺だって不倫は二度としないと思ってた。俺が不倫をしていたのは中学生の頃で、もう二度としないって言ってたのにな。」
「中学生?」
「団地に住んでいたんだ。その時の裏のアパートに住んでいた女性。征子さんって言う人だった。」
 狭くて化粧と香水の匂いのする部屋だった。あの中で翔は全てを奪われたのだ。そして心まで奪われてしまうとは思ってなかった。
 父親から叩かれ、母親から泣かれ、そして弟である慎悟が負傷するまで気が付かなかったのは、きっと初恋だったからだろう。
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