触れられない距離

神崎

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パニーニ

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 クラシック部門のオフィスは、ハードロック部門よりも下の階にある。エレベーターを使ってそこへ行き、エレベーターホールへやってきたとき少し思いだしたことある。先程奏太と話をしていたからだろうか。ここへ最初にやってきたとき、沙夜に絡んできた男がいたはずだ。「二藍」の担当になれなかったクラシック部門の男。背が高く、プライドも高そうな男だったが、あの男はどうなっただろうか。そう思いながらクラシック部門へ足を向ける。
 順大はオフィスの脇にある会議室にいるはずだ。出来上がったソフトをPRするために、ソフトに着いてくるポストカードにサインをしているのだ。もちろんそういうモノは、おそらく何かの企画で特別に用意するようなモノだろう。「二藍」の場合は、そういうサイン入りのCDやソフトというモノはテレビやラジオ、雑誌などの他にも最近はインターネット番組なんかのプレゼントにもなるのだ。これも宣伝のためでもあるので、数多くのソフトにサインをしているのを見ると大変だとは思うが手助けは出来ないと、沙夜は出来る限りのフォローをしている。
 順大はあまり気が長いタイプでは無さそうだが、無事にやっているのだろうか。そう思いながらその会議室のドアをノックしようとしたときだった。
「何を考えているんだ!君は!」
 怒鳴り声が聞こえて、沙夜は思わず手を引っ込めた。これは修羅場になっている。そう思って沙夜はその部屋に入るのをためらった。だが入らなければ仕事にならない。どうしたモノかと思っていたときだった。
「あ、泉さん。」
 クラシック部門にいたときの先輩に当たる女性が、たまたま通りかかった。沙夜とは違いずいぶん派手な容姿をしているが、ヒールの高さは低い。見た目もそうだが動きやすさを選ぶとこういうパンプスになるのだ。
「どうも。お疲れ様です。西脇さん。」
「鳴神順大がそこに居るけど、どうかしたの?」
「その鳴神さんに用事があってきたんですけど、なんか……怒鳴り声が聞こえて。」
「あぁ。多分東山さんでしょ?」
「東山?」
 やっと思いだした。今は奏太が「二藍」の担当の一端を担ってくれているが、本来は奏太では無くこの男が担当になるはずだったのだ。だが沙夜が入院をしている間に「二藍」が先にこの東山という男に会い、五人は揃いも揃ってこの男が担当をするのを拒絶したのだ。
 そしてそのあと、奏太が担当になったがそのあとはどうなったのかはわからない。
「顔は良いから女性からは受けが良いのよね。でも仕事を舐めているところがあって最近はちょっとね。」
「はぁ……。」
 沙夜は当初、この女性に付いていた。だから真面目に仕事を覚えたのかも知れない。姿はともかくとして、ヒールの高さから見ると真面目な女性なのだから。
 ヒールが高いと録音をするのに音が邪魔になるというのが、その女性が高いヒールを履かない理由だった。
「気にする必要ないと思うけど、あたし様子を見ようか?」
「あ、いいえ。大丈夫です。入りますから。」
 そう言ってドアを開けようとしたときだった。そのドアがひとりでに開く。そして出てきたのは東山だった。前は王子様のような感じだったのに、今の東山はどこか目に光が無くすさんでいるように思えた。スーツを着ているが、その下に来ているワイシャツもアイロンが掛かっていないように皺が目立つ。
「……泉……。」
 ぽつりと沙夜を見て名前を呼ぶ。だがその向こうにいる西脇の姿を見て、東山は沙夜を一瞥するだけで行ってしまった。そしてその会議室の中には、クラシック部門の部長、そして鳴神順大の姿がある。順大は細身のジーパンと紺色のセーターを着ていた。厚手ではあるがそれ一枚で過ごせるというのは、おそらく寒さに強いのだろう。なんせ今日は外は風が強く、気温がグンと下がっているように思えたから。
「西脇さん。丁度良かった。ポストカードの余りをオフィスから持ってきてもらって良い?」
「良いですけど、何かありましたか。」
「東山君が余計なことをしてくれたよ。あ、泉さん。鳴神さんに用事があるんだろう。でももう少し待ってもらえるかな。」
「はい。でしたら私は少し仕事を……。」
 すると順大が立ち上がり、沙夜の腕を掴んで言う。
「お前はここで手伝え。」
「私が何を手伝えますか。サインをするのはあなたでしょう。」
「数が多いからさっきのヤツが手伝ってくれたんだ。そしたらそこの部長がいきなり切れてきた。俺がそんなにサインなんかしても……。」
 なるほど。それで部長が切れて東山を追い出したのだ。沙夜はやっと納得して順大に言う。
「あなたのサインをあなたのファンは何よりも欲しいと思っているはずですよ。「二藍」だって部屋に閉じ込めて、サインを延々と書く作業をもう少ししたらするはずです。新しいアルバムが出ますからね。CDやソフトだけでは無くポスターにも書いたりしますから。」
「もういい加減疲れたんだ。手首がバキバキでな。」
「マッサージでもしましょうか。」
「そんなことも出来るのか。」
「見よう見まねですよ。」
 このクラシック部門の部長は沙夜が居たときと変わらない。沙夜がクラシック部門で指揮者や演奏家に助言をしていたのを、クレームとして受け取らなかったのは部長だけだった。西脇すら「もう少しオブラートに包んでやらないといけない」と言っていただけなのに。
 だがクラシック部門のほとんどの人が、沙夜を変人扱いした。そしてハードロック部門へ異動する事が決まって、周りの人達がほっとしていた中、部長は惜しいと最後まで引き留めようとしてくれていたから。
「泉さん。じゃあ、少し鳴神さんを手伝ってくれないか。ポストカードにサインをしてもらって、広げてもらえば良い。乾いたら重ねていって。」
「はい。」
 その辺は「二藍」がしていることと変わらないんだな。そう思いながら大量のポストカードを見ていた。おそらく順大は少しアイドルのような立ち位置にいるのかも知れない。だが一馬と同じ歳だと言っていた。アイドルにしては少し歳を取っている気がするが、若々しい順大はそんなことは関係ないのだろう。
 西脇と部長が会議室から出て行き、沙夜は立ち上がってストレッチをしている順大に声をかけた。
「一馬もこういうことをしているのか。」
「していますね。あまり得意では無いみたいですが、五人のサインが無ければ意味も無いですし。」
 それに一馬のサインは結構シンプルだった。さらさらと書いていくのを見て遥人は羨ましそうに見ていたのだから。
「誰が書いても同じじゃ無いのか。サインなんて。似ているモノを書けばわからないのに。」
「そう思いますか。では、あなたが尊敬するようなバレエダンサーからサインをもらったとして、それが代筆だったとしたらどうしますか。」
「……そりゃ……嫌だろうな。」
「そういう事です。あなたのサインが入っているからかうという人も居るんですよ。あまり軽く見ない方が良いです。ファンというのは割と付くのも早ければ、飽きるのも早いですから。」
「長続きをさせるのに、真摯な姿勢を保った方が良い。」
「その通りです。」
 順大は椅子に座ると、沙夜もその向かいの席に座った。そして順大の手を握るようにマッサージをしていく。
「気持ちいいな。慣れてるし。」
「「二藍」のギターを担当している夏目さんは、あまりこういう作業が苦手なようですぐに投げてしまいそうになるんです。ギターの弦を押さえている方がよっぽど楽だと。」
「そうなのかな。」
「私はギターはほとんどわかりませんがそうなんでしょうね。そういうときにこういう事をしますよ。」
 手のケアなんかは普段はあまりしない。水仕事で手が荒れてきたと思ったらハンドクリームを塗るくらいだ。だがどうやってこういうマッサージをするのかと、一度ハンドケアの店へ行ったことがある。その時のやり方を覚えていたのだ。
「あー……。そこ痛い。」
「辞めておきますか?」
「いや。痛い気持ちいいって感じ。」
 その言葉に思わず沙夜は笑う。やはり体は三十代なのだ。いくら若く見えてもこういう所が中年ぽいと思う。
「爪とか凄い短いな。」
「伸ばすの嫌いなんです。」
「一馬の爪も短かったな。」
 一馬の名前に少し沙夜は違和感を持った。だが同級生とかそんな関係なら、普通の会話なのだ。そう思って軽く受け流そう。
「ベースを弾くのに邪魔でしょう?」
「……爪が長いと傷つけることがある。そうなると性病になる可能性もあるらしい。」
 さすがにその言葉に沙夜は違和感を持った。やはりこの男は一馬との関係を疑っているのだ。そう思って沙夜は手を離す。
「終わりましたよ。さ、サインをしましょう。それから曲の打ち合わせをしたいですね。」
「一馬は来ないの?」
「今日はテレビ局へ行っているはずです。音楽番組の収録に、夏目さんと一緒に出るのだとか。」
「タレントやアナウンサーに言い寄られないかな。」
「既婚者を誰が誘うんですか。夏目さんは独身ですけど、その辺は節度を持っていますし。」
 隙は見せない。そう思いながら沙夜は席を立つと、ポストカードをまとめ始めた。割とマジックが乾くのは早いようだ。このメーカーのサインペンが良いな。そう思いながらそのメーカーを見ていた。その横顔を見て、順大は心の中で少し笑う。
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