触れられない距離

神崎

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白菜の重ね蒸し

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 呆れるほど酒を飲んでいたのだと思う。ざるである一馬と沙夜。そして二人ほどでは無いがそこそこ飲める裕太で古参の店員らしい人が「西藤さん達で一升空きましたよ。」と言われるくらいだった。昔勤めていた顔で若干のサービスをしてくれたようだし、ここは会社の経費になるのだろう。しっかり裕太は領収書を切ってもらい、代行を呼んでもらっていた。車で来ているのだろう。
「部長は家は近かったですかね。」
「まぁ、遠くは無いね。一馬君は引っ越したんだっけ?」
「えぇ。」
「どう?新居は?」
「前と広さはあまり変わらないですね。ただ、新しい物件です。あの辺は住宅街ですし。近所の人も新婚さんみたいな人が多いようですね。」
「引っ越しも良かったけど、家を買ったりとかはしなかったのか。子供が居るとほら楽器なんかを興味から触ったりしたがるだろ?うちもそうだったし。」
 裕太の家には楽器を置いているだけの部屋があるという。そこに息子は入らないようにと言っていたのだが、やはり興味を持ってその部屋を開けてギターを眺めていたらしい。そこから息子はギターに興味を持って、裕太は息子にギターを教えているのだ。もう今なら簡単な曲くらいは弾けるようになっている。
「俺はあまり楽器自体を持っていないんです。こだわる人はこだわるみたいですけど。息子はあまり楽器に興味が無いようだし。」
「治君の息子達もそうだったようだ。だが外国へ連れて行って少しずつ興味を持っているらしい。君も仕事場なんかに息子を連れて行くと変わるかも知れないがね。」
「そうでしょうか。」
 海斗はまだ楽器よりもケーキなんかの方が興味があるらしい。キラキラした目で真二郎が持ってきた新製品を見ていたのだから。楽器を弾く奏者よりもパティシエになりそうだ。それが一馬の心に少し黒い影を落とす。
「楽器だけじゃ無いだろう。エフェクターとかそういったモノもあるんだろうに、そういうモノにはあまり興味が無さそうなのか。」
「……実は、部長。」
 一馬も覚悟を決めたようだ。楽器を入れている倉庫がある。そしてそこで簡単に録音が出来るようにしてあり、寝泊まりも出来るようにしているのだという。
「スタジオみたいな所?会社はそんなことを聞いていないみたいだけど。」
 ちらっと沙夜の方を見ると、沙夜も頷いて言う。
「一馬個人で借りているところだそうです。倉庫のような所ですね。」
「倉庫で録音は出来ないだろう。第一音が漏れるし。」
「それは心配ないです。元ラブホテルですから。」
「は?そんな所を?」
 驚いて裕太はそれを聞くと、一馬は頷いた。
「実は……ずっと妻や子供と離れて暮らしていたときにはそこに身を寄せていました。暮らすには少し不便なところですけど、防音は効いているしネットも繋がっていますから。」
「と言うことは、暮らすような所では無いけれど、スタジオとしての機能も備えられているところか。そういう人が多いところなのか。」
「えぇ。いつかテレビ番組で一緒になったピアニストはよく見かけます。」
「……。」
 会社を通さなくて良いのはあくまで一馬がフリーで活動しているからだろう。レコード会社は売るための販売元なのだから。翔は会社が面倒を見ているところがある。なので会社も把握していたのだが、一馬のスタジオのことは初めて裕太も聞いたようだ。
「そこへ泉さんが行くことはあるの?」
「食事を届けていましたから。」
「それだけ?」
「それ以外何があるんですか。」
 そう言われて裕太は少し戸惑った。先程の個室でもそうだが、沙夜と一馬は少し距離が近い気がする。一馬は愛妻家で子煩悩というイメージもあるのだ。それはその前に一馬に付いた悪いイメージを払拭させるようなモノだと思う。つまり、絶倫だというイメージだ。そして性に奔放だというのが結婚してやっと無くなったのに、また絶倫の噂をたてられたくなかった。
 悪いイメージはいつまでもついて回る。そして良いイメージというのはなかなか定着しにくい。その苦しさをわかっていれば、沙夜に手を出すような軽率なことはしないだろう。第一、沙夜には芹が居るのだ。芹があれだけ沙夜を大事にしているのだから、その気持ちを無碍にするとは思えない。
「別に疑ってはいないよ。ただ二人で演奏をするんだ。録音もそのスタジオでするかな。」
「音質によりますが、そのクライアントの求めるモノや曲をこちらで選定したモノをサンプルとして送ります。そのサンプル撮りくらいはそこでしても構わないと思いますが。」
 あのスタジオにはキーボードもあった。出来ないことは無いと思う。だが一馬のことだ。それが終わったらすぐに沙夜を求めてくるだろうが。
「正式な録音はこちらで用意して。なるべく知られていないところが良い。」
「わかりました。地方でも構わないと言うことで良いですか。」
「構わない。それに……もし、その曲の評価によっては一馬君はソロデビューをするかも知れないしね。」
「あー……それは……。」
 ベースだけのアルバムなど誰が買うだろう。一馬はそう思っていたのだ。自分は主役の器では無いのだから。
「自己評価が低いのは結構。あとはその曲次第だから。」
 吸っていた煙草を灰皿に落とした。その時代行の車がやってくる。軽自動車の中から中年の男性が二人が降りてきた。
「西藤さんですかね。」
「はい。」
「どこまで行きますか。」
「M区まで。じゃあ、二人は電車かな。」
「はい。ご馳走になりました。」
「良い曲に仕上げてくれよ。」
「わかりました。」
 そう言って裕太はその男性のうちの一人と駐車場の方へ向かう。それを見て沙夜と一馬はため息を付いた。
「悪かったな。変なことに巻き込んだようだ。」
「いいえ。一馬が気を利かせてくれたのだから。」
 それは口だけに聞こえた。だが沙夜はもう一馬を責める気は無いのだ。一馬は一馬なりにあの時考えて行動しただけで、思えばあの頃からずっとお互いに惹かれ合っていたのだから。
「沙夜。今日……寄っていかないか。」
「どこへ?」
「雰囲気を変えたいと思わないか。」
 つまりホテルに行きたいと思っているのだろう。外国から帰ってきて何度セックスをしているのだと思っているのか。
「……今日は帰った方が良いわ。」
「しかし……。」
 一馬はいきなり言われたことに、沙夜が不安定になっているのでは無いかと思っていたのだ。だから一馬なりに気を晴らしてやりたいと思っていたのだ。それと共に、沙夜が少し酔っているように見えてそれが少し色ぽく見える。男でこういう沙夜を見て我慢が出来る人は居ないだろう。つまり自分の性欲も考えて言ったことなのだ。
「私も少し考えたいことがあるの。」
「考える?」
「部長は宮村さんを陥れることで、翔の家に戻れる可能性があると言っていたわ。でもそれが私が望んでいるのかといわれると微妙なのよ。」
「え?お前は帰りたくないのか。」
 駅の方へ歩いて行っている。同じように帰ろうとしている人達も多いようで、サラリーマン達はそのままスナックなんかへ行くのだろう。だが沙夜達はもう駅の方へ向かっているのだ。
「四人で暮らしていたのは確かに楽だったわ。お互いがお互いのことをしていて、出来る範囲でお互いのことをしていたし。今は全て自分のことは自分でしないといけないから。それがまぁ……普通だったんだけどね。」
「……その生活に戻りたいとは思わないのか。」
「怖いから。」
 恐怖という言葉に一馬はやっと意味がわかったようだった。芹に顔を合わせるのが怖いと思っているのだろう。このまま何事も無くまた芹と暮らし、尚且つ恋人同士だと思われるのが怖かったのだ。
「俺には帰れと言っているのにな。」
 一馬はそう言うとため息を付いた。同じ立場である一馬が傷ついていないとでも思っているのか。そう沙夜は責められたような気がしていたのだ。
「今日は無理って事よ。私もこの格好だし。ホテルなんかへ行ったら、更に噂を立てられる。だから今日は帰ると言っているのよ。」
「そうだったな。」
 沙夜はいつもの格好なのだ。これでは確かに沙夜で無くても困るだろう。
「これからスタジオへ行くことも多くなる。その時に……。」
「わかった。今日は我慢しよう。」
 せっかく良い雰囲気だったのに、今日はお預けか。一馬は心の中でため息を付く。その時、ふともう閉まっているスーパーが目に付いた。まだ終電には早い時間だと思う。
「こういうスーパーはどこでもあるんだな。」
「こういう所の方が好きね。翔の住んでいるところでは商店街か大型のスーパーしか無いけれど、こういう所の方が安さはともかくキャベツを半分にしてくれなんて意ったらそうしてくれるから。」
「そうだったのか。一人暮らしをしていると一玉は難しいだろう。だから半分か。」
「えぇ。」
「スタジオへ来る前に食事をご馳走してくれないか。」
「わかったわ。辰雄さんの所へ行ったときの野菜がまだ残っているし。何か用意をしておくわ。そういえばあの野菜……。」
 そう言いながら二人は駅へ向かう。変装をしていない姿で合うのは久しぶりだった。だから手を繋ぎたくても繋げない。肩を抱こうと思っても抱けない。だが今度二人になれたときには激しく求め合うと思う。その希望を持って二人は駅へ向かっていった。
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