触れられない距離

神崎

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白菜の重ね蒸し

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 食事もお酒も美味しいのに味気が無いように思えるのだろう。いつもは一馬があまり口数が少ないのを見通していつも積極的に喋ろうとしているのだが、その余裕が沙夜には無いように思える。酒ばかり飲んでいて食事に余り手を付けていない沙夜は迷っているのだ。本来なら音楽を認められた事は嬉しいことなのだろうに、どうしてもそれを素直に喜べないのは昔の批判を思い出すから。
 一馬も昔の書き込みをたまたま見て、気分が悪くなったのを覚えている。それを見つけたのは響子が勤める洋菓子店のオーナーだった。店の情報に敏感になっているからこそわかったことなのだろう。そして響子も同情しているように見えた。それは自分と被るから。あらぬ噂を立てられている者同士、通じるモノがあるのだ。それは絶倫と噂をたてられた一馬だって同じ事だが、そのレベルは全く違うと言えるだろう。
「お酒を追加して良いですか。」
 沙夜はそう言うと一馬は心配そうに沙夜を見る。
「良いよ。地酒が美味しいね。」
 そう言って裕太はまたタブレットを手にした。熱燗ならあまり時間がかからずにやってくるだろう。
「これ一本で辞めておけ。」
「え?」
「飲み過ぎだ。わからないでも無いが。」
「だったら違うモノにしようか?」
「……良いわ。確かに飲み過ぎているのかも知れない。あと一本にしておきます。」
「わかった。だったら二本ね。」
「え?」
「俺も飲みたいのがあるんだ。一緒に頼むよ。」
 一人一本という考えが無かった。一馬はその言葉に少し笑いそうになる。だが沙夜の表情は変わらない。裕太なりのジョークのつもりだったようだが、沙夜の心には全く響かないのだ。
「部長。事情はわかったんですけど、一馬がソロのベースの話を受けた場合、そのピアノを「夜」が弾くとして、何と説明しますか。」
 沙夜はそれが一番ネックだったのだろう。表に出てしまったのだ。まさか「夜」がそこに居たとはその酒造メーカーにも言えないだろう。
「先方には、バーでピアノを弾いていたのはうちの社員だと言うことは伝えるつもりだ。だけどCMに使う曲を弾くのは別の「夜」という人物にしてもらう。社員はそこまでしゃしゃり出るモノでは無いからと言ってね。」
「……誤魔化せますかね。」
「誤魔化せると考えるね。それ以上何か聞かれたら、会社にとっても企業秘密のような所があると言えるし。実際「夜」というのは会社の中でも限られた人しか知らない情報だ。」
 会社の上層部と経理をしている上層部。つまり沙夜の給与の面を見ている人達だ。沙夜は「夜」として「二藍」に関わって以来、社員としての給与と別に収入がある。それは「二藍」のアレンジに関わっていて「夜」としてのクレジットが載っているからだろう。なので経理をしている人間は事情はわかっているが、厳しくその情報を漏らさないようにしているのだ。
「「夜」のことを知っているのは「二藍」のメンツと、上層部、それから経理部の限られた人材。この人達は社員ですよね?」
 一馬はそう聞くと、裕太は頷いた。
「もちろん。派遣なんかの人達にはそんなことを伝えられない。契約が切れて違う会社に入ったときにその情報を漏らされても困るから。」
 そして沙夜はそれを思い出す。
「あとは向こうの国でリーとマイケルは知っていますね。それから望月さんと。」
「リー・ブラウンは漏らさないだろうね。あれだけ「夜」のフリークなんだ。もし漏らせば「夜」はまたさっと姿を消すと思えば、漏らす馬鹿はしないだろう。そのマイケルというのは誰?」
「コーディネーターです。その……。」
 沙夜はちらっと一馬の方を見る。すると一馬は頷いて裕太に言った。
「向こうの社員のようですが、これは可能性の話なんですが。」
「良いよ。何か疑うようなことがあるなら言ってもらって。」
「俺の腹違いの兄弟の可能性があります。」
 その言葉に裕太は驚いて一馬を見た。確かに一馬は出生があやふやなところがある。両親という人達は血の繋がりは無いと言っていたし、その本当の両親は本人も知らないと言っていた。だがそんなところで親に会ったというのだろうか。
「マイケルがそれを漏らしたら、マイケルは窮地に追い込まれることが考えられます。信頼と言うよりも、脅して脅される関係ですね。」
 マイケルと言うよりもマイケルの父親は表を歩けない状態になるかも知れない。一馬は思ったよりも名が売れているのだから。
「なるほどね……。それで信頼と言うよりも信用が出来ると言うことか。短期間ではそういった方法の方が良いかも知れないな。いきなりこちらでもそう言われて許可を出したけれど、そんな事情があったんだったら確かに言いにくいだろうね。」
 しかしそれは事後報告になるだろう。沙夜がずっと管理していれば良いのだが、そういうわけにはいかないのだ。
「そこまでして守るんだ。沙夜。それでも受けられないだろうか。」
 一馬はきっと乗り気だったのだろう。自分のソロだと言うことや、沙夜と居られる時間が増えるかも知れないという下心もあったのかもしれない。だが一番は、沙夜と一緒に演奏が出来る。それが嬉しかったのだ。
 だが沙夜はまだ迷っているように見える。その様子に裕太は奥の手を使うことにした。
「泉さん。今はまだウィークリーにいるんだよね?」
「えぇ。」
「翔君の家を出ている。翔君の家は三人しか居ないだろう?」
「そうですが。」
 するとドアをノックされる。店員が酒を二本と、焼きおにぎりを持ってきた。一馬はもうこれで〆にしようと思っていたのだろう。形の良いおにぎりは、おそらく手で握ったモノでは無い。型か何かにはめているモノだが、綺麗なモノだった。だがおそらく西川辰雄の所で食べた大根葉とじゃこのおにぎりに勝つモノは無いだろう。
 店員が出て行って、裕太はまた酒を自分で注いで口に入れる。
「渡先生が××出版の宮村に目を付けられたからだろう。俺がそれを聞いたんだ。」
「部長が?」
「丁度「Glow」の話が聞きたいと言われてね。それで「草壁」として話をしたときに聞いたんだ。面倒な人に捕まったなと思ってね。泉さんと離れた方が良いと言ったのも俺。」
「……。」
「でもその別居は解消出来る可能性があるよ。また渡先生や妹さんと暮らすことが出来る。早いうちにね。」
「どうやって?」
 一馬がそう聞くと、裕太は少し笑って沙夜のおちょこに酒を注いだ。
「……君が「夜」として一馬君と一緒に曲を出す。「夜」は会社的にも隠さないといけない存在なんだ。だが宮村はそういう隠そうとしているモノを暴こうとするのが仕事だと思っているところがある。」
「リーが……宮村さんのことを凄く嫌っていましたね。」
「好きな人は居ないと思うよ。遥人君だって嫌だと思っているはずだ。」
「それは何となく……。」
 おそらくメディアにとって「二藍」は嫌われている存在なのだろう。だからあらぬ噂を立てられている。特に一馬はその矢面に立ちやすい存在でもあった。その度に沙夜を初めとした裕太やその上のモノが目を光らせている。
「「夜」を隠そうとしている。そしてその担当は泉さんだ。そうなると一馬君では無く泉さんに宮村はターゲットを絞るだろう。泉さん越しから「夜」の正体を暴き出そうとね。しかし泉さんはうちの社員だ。そこに今までのような手を使おうとしたら、宮村はもうこのメディア関係にも立てなくなるだろうね。こちらが訴えを起こすから。」
「……つまり、沙夜に囮になって欲しいと?」
 一馬がそう聞くと、裕太は頷いた。
「囮になれば宮村はこの世界から追放されるだろう。そうなれば、泉さんは家に帰ることが出来る。」
「そんなに上手くいきますかね。」
「いかせる。というか……この世界自体が、宮村を嫌っているところがあるんだ。今はアーティストだ、俳優だというのは昔ほどオープンになっていない。著名人だからプライベートが無いというのは間違っているし、そういう人達だって隠したいところはあるんだ。それを見たいというのはファンの心理かも知れない。だが、もう世の中はそうなっていないんだ。」
「時代に乗り遅れている人と言うことですか。」
 沙夜はそう言うと、裕太は頷いた。
「間違いないね。」
 そういう人を沙夜は知っている。必死に芹を捕まえようとしている人。そして生業とする音楽ですら成果の上げれない人。そして息を吐くように人を騙す人。宮村の側にはそういう人が集まっているのだ。時代の先駆者と思っているのかも知れないが、その張りぼての立場を崩せるのかも知れない。
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