触れられない距離

神崎

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ドーナツ

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 夕食を作るのはいつも沙夜の役割だが、それを手伝うのはそれぞれになる。今日は純が手伝っているが、純はほとんど料理をしていなかったので沙夜はその手つきを見ながら包丁は握らせられないと今は魚の切り身をフライにするようにパン粉を付けてもらっていた。
 その間沙夜はサラダを作っている。キュウリとトマトとアボガドを切り、塩、レモンの絞り汁、オリーブオイルで味を付けていた。コンロではゆで卵を作るように、鍋の中で卵が湯がかれている。魚のフライにはいつもソースを使っていたのだが、子供の為にタルタルソースを作るのだ。
「沙夜さんさ。今日、演奏したのって録音してたらしいじゃん。リーがさ。」
「えぇ。頼んでいたの。」
 翔が録音をしたいと思っていたのだが、治がそれを止めた。治は沙夜のことを思って録音を止めたのだが、沙夜自身がその演奏を気にしていたのだろう。演奏を終えたとき、リーがその音源を沙夜に手渡していた。
「それって会社に送ったりするの?」
「しないわ。ただのお遊びじゃ無い。」
「まぁ……そうだよね。」
 お遊びにしては精度が高かった。沙夜は仕事のストレスなんかをこうやって晴らしていたのだろう。
「あとであぁすれば良かった。こうすれば良かったって、またどこかのスタジオへ行ったときにでも参考になればなと思ったのよ。」
「次?」
「したくないの?」
 沙夜はそう言って作り終わったサラダを皿に盛った。そして卵が湯がけて、それを取り出す。
「したいよ。沙夜さんと演奏をしたいとは思うけどさ。思うんだけど……。」
「……。」
「自分のあらが見えるようでさ。」
 一馬とリーくらいだっただろうか。沙夜の演奏についていけていたのは。あとのメンツは付いて行くのに必死だった。遥人も歌に余裕が無いのは見てわかったし、翔も三つの音色だけでどうやって表現したいのかと思っていたのだ。
「良かったじゃ無い。あらが見えて。」
「でもさ……。」
「私だって指が今日は全然動いていなかったわ。やっぱり定期的にでもピアノを弾かないとね。」
「そう?俺にはそう見えなかったけど。」
 むしろ余裕があるように見えた。確かに演奏は楽しかったが、そのぶん必死だったと思う。
「それよりも楽しい気持ちの方が勝っていたのかしらね。人に聴かせるんじゃ無いって思った途端にたかが外れてしまって。」
「沙夜さんでも思うんだ。そんなこと。」
 その時二階から一馬が降りてきた。翔と二人で料理をしているときには少しやきもきする気持ちがあるが、純だったり治だったりすると安心する。一馬はその間、響子にメッセージを送っていたのだ。
 響子はやはり少し不安定になっているようだ。今日はこれから久しぶりに病院へ行ってから仕事へ向かうらしい。朝があまり早い店ではないので、朝一の病院へ行けば開店には間に合うのだ。それに付き添うのはオーナーのようだ。真二郎は店の仕込みがある。響子のかわりは別の従業員が出来ないことも無いが、真二郎の代わりは居ないのだから。
 やはりその原因は沙夜との写真だろう。真二郎からも言われたが、こちらから帰ってくるときにはまっすぐに家に帰って欲しいと言うことだ。沙夜と一緒に居るような時間は無いかもしれない。
「一馬。お前、良く沙夜さんの演奏についていけれたよな。」
 純がそう言うと一馬は先程までのもやっとした気持ちを払拭させるように、二人に言った。
「今日の演奏か。そうだな。前に何度か沙夜と一緒に演奏をしていたし。」
「それだけじゃ無いわ。」
 沙夜はそう言って打ち上げた卵の殻を剥くように純に言うと、フライパンを取り出して油を入れる。そして温まるまで一馬の方を見た。
「やっぱり一馬は凄いと思うわ。それだけベースに向き合っていた結果だと思うんだけどリーとも遜色なく演奏出来ていたし、昔、外国のプロデューサーに声をかけられたのもわからないでも無いわ。」
「おだてても何も出ないが。」
「ははっ。」
 沙夜はそう言って少し笑う。その表情は上機嫌のように思えた。おそらくピアノが弾けたことで沙夜は少し気持ちが上がっているのだろう。こういう時に沙夜を抱くと、沙夜もいつも以上に乱れてくれるのだがこの間二人になったばかりだ。しょっちゅう出ることでは無いだろう。大体ここの国にいればセックスは出来ないと思っていたのに、セックス出来ただけでも嬉しく思えた。
「洗濯物が良く乾いているな。ここの土地は洗濯物だけはすぐ乾いて助かる。」
 翔と遥人がそう言って二階から洗濯物を持ってやってきた。洗濯物は二階にある屋内の物干しスペースに干されているのだ。ここの土地は外で洗濯物を干すとすぐに取られてしまうので、外に干す習慣が無いのだ。それに天気の悪いときもある程度だったら気温で乾いてしまうらしい。
「一馬さ。マイケルのベースってどう思った?」
 純はそう聞くと、一馬は少し首をかしげて言う。
「あいつは個人プレーが好きなんだろうな。」
「ソロって事?ベースだとあまり見ないけどな。」
 すると沙夜は首を横に振った。
「あまりバンド活動はしていないのかしらね。私にもそういう風に聞こえた。あなたが個性を出さないように気をつけているのに、結構耳に付いたから。でも悪くない音ではあったと思うけど。」
「悪くは無い。スタジオミュージシャンならどこでも使って貰えるくらいの腕はあるようだ。ただ、あの個人プレーだと煙たがられるのは目に見えている。」
「そう……。」
「だからベースは諦めて良いって言葉が出ていたんだな。でももったいないと思うけど。」
 純はそう言って卵をまな板に置く。その卵の白身を沙夜が刻み、あらかじめ刻んで置いたタマネギに塩を加えて少しレンジで辛みを抜いたモノとあわせる。
「夏目さんは合わせやすかったの?」
 すると純は肩をすくませて言う。
「俺、一杯一杯だったし。なんせリー・ブラウンと合わせてるんだ。緊張しない奴なんかいるか。なぁ。二人もそうだっただろ?」
 洗濯物をより分けている遥人と翔はその話がわかったのだろう。苦笑いをしていた。二人ともが自分の演奏に一杯一杯だったのだ。
「としたら……少し回数を重ねないといけないわね。」
 沙夜はそう言うと、翔が驚いて沙夜の方を見る。
「え?今日みたいな事が何度かするの?」
「……。」
 すると沙夜は一馬の方をちらっと見る。そして四人に言う。
「あったら良いと思うわ。みんなで音楽を作って、形になるのは本当に楽しい。」
「沙夜。だったらさ……。」
 翔はタオルを手にしたまま沙夜に言う。
「何?包丁を持っているのよ。それ以上近づかないで。」
 その言葉に翔は苦笑いをする。だがずっと思っていたことを言うチャンスだ。
「今度のアルバムのボーナストラックの曲を沙夜との演奏を入れないか。」
「え?今日演奏したモノを入れようって言うの?あんな演奏を入れ込めるわけ無いじゃ無い。」
「だから、ボーナストラックなんだ。限定で。アコースティックバージョンを入れるって言っていたのを差し替えてさ。」
「無理。」
 翔の言葉を一蹴すると、沙夜は刻み終わった白身を純に託す。
「マヨネーズと塩こしょうを入れて、良くかき混ぜて。君を潰すようにするの。それが混ざったら乾燥したパセリを入れて。」
「う……うん。」
 はっきりと沙夜が言うのを純も驚いたように見ていた。先程まで和気藹々とまた演奏をしたいと言っていたのに、録音してそれを発売しようとするのは嫌がるのだ。いや。違う。それを嫌がっているのでは無い。
「沙夜。誰が評価しようとどうでも良いんじゃ無いのか。」
 一馬はそう言うと、沙夜は首を横に振る。
「批判はもう沢山。遊びで演奏をするなら良いと思うし、あなたたちの気分が変わるならそれで良いと思う。喜んで協力もするし、私も何より演奏がまた出来るのが楽しい。だけど表に出るのはまた話が違うわ。」
 ここはまた沙夜が強情になるポイントなのだ。呆れたように一馬は沙夜の方を見る。だが翔は諦めきれなかった。沙夜の音が間違いでは無い。合う、合わないという音楽は誰でもあると思うが、沙夜の音楽を誰よりも誇りに思う。だから表に出したいという翔の気持ちは、沙夜には通用しないのだろうか。
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