触れられない距離

神崎

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ドーナツ

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 そろそろ練習を再開したい。沙夜はそう思っていたのだが、遥人が携帯電話を持ってスタジオを出てしまった。おそらく向こうの会社と話をしないといけないことあるのだろう。といっても遥人が連絡を取っているのはおそらく遥人のマネージャーだ。
 沙夜はそれを見て演奏ブースへ向かう。そしておかれているグランドピアノの鍵盤を見ていた。
「ピアノが懐かしいか。」
 一馬もそう言って演奏ブースに入って来る。すると沙夜は少し笑って言う。
「昔はこのピアノの前から離れたくなかったわ。最初は楽譜通りに弾けるように繰り返し練習して、そしてそれが弾けるようになったら自分でアレンジをして。高校生くらいだったかしら。自分で曲を作るようになったの。」
 譜面にしていなかった。だから二度と同じ曲は弾けなかったが、次第に録音するようになった。そしてそれをウェブ上に公開したのだ。
 ピアノが弾けるだけで嬉しかった。だがウェブ上に公開したのが、一番の間違いだったのだ。自分だけで満足出来れば良かったのに、いつの間にか人の声が聞こえてきたのだから。
「そうね。懐かしい。ずっと弾いていないのに指が覚えているみたい。」
 そう言って沙夜は鍵盤に触れる。そして遥人が弾く予定の曲のワンフレーズを奏でた。すると一馬はその音を聴いて、立てかけてある弦バスに近づくとそれを持った。
「もう一度弾いてくれないか。」
「え……。えぇ……。」
「このフレーズだけで良い。」
 すると沙夜はそのフレーズを簡単に弾いてみせる。するとそれに合わせて一馬も弦バスを弾いていった。
「ふふっ。もう少し跳ねさせるべきかしらね。そちらが伸ばしているんだし。」
「そうだな。それから……。」
 音が聞こえてリーは録音ブースから演奏ブースを見下ろす。すると沙夜がピアノを弾いているようだ。それに合わせて一馬がベースを弾いている。姿だけでも売れるように見えた。
 ソフィアがこの二人をモデルにしたいというのは、リーでも何となくわかる。背が高い沙夜と体が大きな一馬。並んでいても絵になるようだ。
「……。」
「え?誰が弾いているんだ。」
 マイケルも音に気が付いたのだろう。その演奏ブースを見る。
「……マジか。」
 マイケルは驚きしかなかった。それとは対照的にリーは冷静に二人を見ている。すると純がその二人に気が付いて演奏ブースに目をやった。
「沙夜さんが弾いていたのか。」
「ぐっとイメージが変わるようだ。なぁ。翔。」
 治がそう言うと、翔は頷いた。
「沙夜には楽譜は意味ないし。」
「わかる。自由だもんな。」
 純もそう言って演奏ブースを見下ろす。そしてその演奏に一馬はいつの間についていけるようになったのだろう。
 演奏が終わって沙夜はピアノから離れる。そして一馬に何か言うと、演奏ブースから出て来た。
「あら?まだ栗山さんが来ていなかったかしら。」
「まだ話をしているみたいだけど、それよりさ。沙夜。いつの間に一馬とあんな演奏が出来るようになったんだ。」
 翔がそう聞くと、沙夜は肩をすくませていった。
「いつの間にというよりも、あれだけ食事を運んでいたりしたら自然と好みの音楽なんかを聞くこともあるでしょう?私が一馬に寄せただけよ。それに、それより前に一度K街のライブハウスでセッションもしたし。」
 そんなことは聞いたことが無い。翔は文句を言おうとした。だがそれより前に純が声をかける。
「マジで?だったら沙夜さん。今度俺とセッションしてよ。」
「あー。だったら三人で。」
 治も便乗しようと思ったのだろう。そう言って声をかける。
「ここでそんな暇があると思ってるの?はい。栗山さんが来るまでに楽器の用意をしておいたら?それから若干演奏ブースは気温が高いわね。エアコンって下げられないかしら。音程が凄く上がっているわ。ピアノは自分で調律なんか出来ないし、エアコンで少し下げた方が良いかも。」
「そう感じた?だったらマイケル。」
 治がマイケルを呼ぶと、マイケルは唖然としていたようだがすぐに我を取り戻して五人に近づく。
「沙夜……お前、あんなに弾けるのか。」
「ピアノ?えぇ。一応大学も音楽の大学を出ているから。」
「それにしてもアレンジも……。」
「大学を出ていればあれくらい出来るんじゃ無いのかしら。ねぇ。翔。」
 すると翔は首を横に振って言う。
「俺は難しいかな。沙夜だから出来るんだよ。」
「そんなこと無いわ。あなたたちが「二藍」だもの。私よりも息が合っているのは当然じゃ無い。」
 その時だった。ふと沙夜は手を掴まれる。驚いてそちらを見ると、そこにはリーの姿があった。沙夜にはわからない言葉で話しかけている。多少はわかるといった沙夜は早口で英語をまくし上げられているリーの言葉がわからない。
「え……。マイケル。何を……。」
 マイケルに聞こうとしたときだった。リーが沙夜の体を抱きしめる。その様子に翔が声を上げようと手を出そうとした。しかしいち早く気が付いたのは、一馬の腕が沙夜に触れる。
「止めろ。」
 そう言って一馬はリーと沙夜を引き離す。するとリーは悪びれなく笑うと、マイケルに言った。
「悪かったと謝ってる。いきなりハグをするような文化では無いとはわかっていたんだがと。でも求めていた「夜」がここにいたとわかって、つい止められなかったと。」
「……私は……。」
 するとマイケルも首を横に振って言う。
「もう今更自分が「夜」では無いとは言えない。あんな演奏を聴いたあとなんだ。」
「ワンフレーズで?」
「ワンフレーズで十分だ。沙夜。「夜」なんだろう。」
 すると沙夜はぐっと言葉を詰まらせた。その時遥人が外から戻ってくる。
「どうしたんだ。」
「あー……。実は……。」
 治が先程までのことを告げると、遥人は呆れたように一馬を見る。おそらく沙夜にピアノを演奏させるように仕向けたのは一馬なのだ。そして沙夜もそれに乗ってしまった。音楽のことに関しては周りが見えない二人なのだから、後先のことを考えずに演奏してしまったのだろう。
「沙夜さん。」
 すると沙夜は首を横に振って言う。
「違うから。」
 その言葉にマイケルは呆れたようにリーにそれを伝えた。するとリーは沙夜の手を握ると、目を見て沙夜に告げる。沙夜にもわかりやすい言葉で。
「……え……。」
 リーはウェブ上で「夜」が誹謗中傷を受けていたのを知っている。あんなことを書かれたら誰でも嫌になるだろう。だがここには沙夜が「夜」だと知って誰が沙夜を「夜」だと世の中に知らしめる人がいるんだ。ここには「二藍」のメンツと、マイケルとリーしかいない。もうジョシュアはいないのだから、堂々と「夜」だと言っても構わないのだろうと。
 その言葉に沙夜は少し迷っていたようだ。すると一馬が首を横に振ってリーの手を沙夜から離す。
「マイケル。リーに伝えてくれないか。沙夜が自白するときは来ない。あんたがそうやって沙夜と寝ようとしているかもしれないのだからと。」
「寝ようと……?」
 するとリーは驚いたように一馬を見る。すると一馬はリーに直接言った。「佐久間芙美香」のマネージャーをベッドに誘っただろうと。
「マジで?」
 遥人がそう言うと、一馬は頷いた。
「空港へマネージャーが送ってくれた。その時にリーは女に手が早いので、沙夜は特に気をつけた方が良いと。」
 その言葉にリーは首を横に振る。確かに結婚する前までは女遊びをしたこともあったが、結婚してからはぱったりと止めた。それにライリーのこともある。女遊びをするような余裕は無いのだ。
「しかしあのマネージャーがそう言っていたのが嘘になるのか。」
 一馬に迷いが出て来たようだ。その時遥人が沙夜に言う。
「沙夜さん。俺はそのマネージャーの方が臭いと思うよ。」
「どうして?」
「俺の事務所も臭いと思うんだけどまぁ……それはまた今度で良いんだけどさ。佐久間さんは個人事務所だろう。レコード会社とは提携しているみたいだけど。」
「えぇ。確かそうだったはずだけど。」
「リーは佐久間さんとはそれ以降仕事を一緒にすることは無かった。俺も一馬の話を聞いていたし、リーが佐久間さんに声をかけても付いてこなかったからかと思っていたけど、今までリーと付き合っていてそうでは無いだろうと思うんだ。」
「その通りだ。佐久間という人はあまりたい度が良くない人だった。だからリーも佐久間さんの仕事は断っていたんだ。」
 マイケルはそう言うと、遥人は頷いて言う。
「佐久間さんは××出版の宮村雅也と懇意にしているらしい。」
「佐久間さんが?」
「佐久間さんと言うよりも、どちらかというとマネージャーかな。一馬。お前、佐久間さんに誘われなかったか。」
 すると一馬は首を横に振る。
「いや。俺は全く。」
「だろうな。佐久間さんはどっちかって言うと純みたいなタイプが好きだからさ。リーのスタッフに声をかけていたようだ。」
「俺?」
 純は驚いて遥人を見る。
「派手に遊んでいるのにその事は表に出てないだろ?その宮村って男と懇意にしているかららしい。」
 その名前に沙夜は驚いたように遥人を見た。知っているとは言っても少し知りすぎているような気がしたからだ。
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