触れられない距離

神崎

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ドーナツ

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 アルバムに収録する曲は大分収録が終わり、あとはインストの曲を残すだけになった。この曲は色んな音が混ざっている。ロック調であるがクラシックの要素が入っているのは、沙夜と翔が主に口を出したのだ。
 あらかじめオーケストラで使われる弦楽器や管楽器は収録を負えている。それを重ねてそれぞれが鳴らす音を収録しているようだった。沙夜はそれを見ながら、口を出したい衝動を抑えている。リーはどちらかというとロックに精通していて、クラシックの部分はあまりわからないのだろう。しかしリーもまた音楽には変わらないと、マイク越しに声を上げている。
「……この曲はライブでするのか。」
 演奏が気になっているような沙夜に、マイケルは声をかけた。大方の打ち合わせは終わっているのだ。気になるようであれば聴いても構わないと思っているのだろう。
「ツアーでは中に入れない予定になっているけれど、ツアーの最後に入れようかと思って。」
「大きなホールなんだろう。ここは。」
 マイケルが指さしたのは、アルバムを発売したあとのツアーの予定の書かれている紙だった。地方を回り、ツアーの締めは大きな会場を予約している。問い合わせがチラチラと来ているそうだが、まだ具体的に発表をしているわけでは無い。
「この曲が上手く響いてくれると良いんだけど。」
 きっと気持ちいい音になるだろう。その場にいた人が音の世界にトリップ出来るような感覚。沙夜はその中にいつも身を委ねていたのだ。音楽は演奏しただけ返ってくる。心地良い感覚だった。
 その時スタジオのドアが開いた。そしてやってきたのは、ソフィアと沙夜がウェディングドレスを着たときに通訳をした東南アジアの女性。アンという女性で、ソフィアにとっては無くてはならない立場の人らしい。
「リー。」
 リーは演奏を止めると、ソフィアの話を聞いていた。沙夜からあのウェディングドレスの件を聞いて、あの場にいたスタッフに話を聞いていたのだろう。その結果が出たのだ。
「……。」
 マイケルはそれが聞こえたのだろう。ため息を付いた。
「わかったの?」
 沙夜はそう聞くと、マイケルは沙夜の方を向いて言う。
「お前と一馬は直接ソフィアから聞いた方が良い。だからアンが一緒に来たんだろう。このまま休憩かな。」
 マイケルの言うとおり、演奏は中断され休憩に入る。演奏ブースから五人が出て来て思い思いに汗を拭ったり、水を飲んだりしていた。翔は演奏が気になるのか楽譜を手にしようとしている。だがそれに沙夜が声を上げた。
「翔。休憩は休憩をしてくれないかしら。前に三倉さんからも言われていたでしょう?」
 前に三倉奈々子からそんなことを翔に告げていたのだ。休憩の時には音楽を忘れるようにと。休憩なのだからなるべく音楽とは違うことをして、気分を変えるとまた新しいことが産まれるかもしれないという奈々子の気持ちもあるのだ。
「みんな、これ食べて欲しいね。あたしの地元のお菓子よ。」
 アンはそう言って皿にある小麦粉を練ってあげたようなお菓子を差しだした。ドーナツのようにも見えるが、シロップがかかっていて大分甘そうだ。
「美味そうですね。」
 治はそう言ってそのお菓子に手を伸ばす。五人にとっても懐かしいモノだった。
「これ、昔食べたことがあるよな。」
「あぁ。PVの撮影だっけ。ここへ言ったときに食べたよな。アンの手作り?」
 遥人はそう聞くとアンは頷いた。
「これ、祝い菓子よ。結婚式とかで披露されるね。揚げ砂糖って言うか。そっちの言葉で。」
「ふーん。黒糖も入っているかな。ビーガンの人でも食べれそうだ。」
 一馬もそれを一つ口にして、ソフィアの方を見る。するとソフィアは沙夜に何か告げているようだ。沙夜はそこまでこちらの言葉に堪能では無い。なのでおそらくソフィアはわかりやすい言葉で今回のことを告げているのだ。二人の間には笑顔は無い。アンがこの菓子を持ってきたことで、少しでも気を和らげているのだろうか。
「……。」
 一馬の奥さんである響子は、誰が沙夜と一馬の写真を送ってきたのかと言うことは頑として口を割らないらしい。だがそれは安易に想像が出来るようだ。沙夜の表情がドンドンと暗くなる。そして助けを求めるように一馬の方を見た。すると一馬はその歌詞を一つ食べ終わると、ペットボトルの水を手にして沙夜達の方へ向かう。
「沙夜。」
「……少し外で話せるかしら。一馬にも関係ない話では無いし。」
「そうだな。」
 ソフィアはそのつもりだった。だからアンに声をかけて、一馬と沙夜をスタジオの外へ連れ出す。その様子を見て、翔はため息を付いた。
「わかったのかな。写真を撮った人って。」
 純がそう聞くと、遥人は頷いた。
「だろうな。見せてもらった写真って、明らかに携帯電話なんかで撮ったような写真じゃ無かった。ここのスタッフだって事は明らかだし、ソフィアの所もそう言うヤツって多いんじゃ無いのか。ファッション業界って、こっちよりも露骨だろうしさ。」
「……それもそうだね。」
 翔は少し後悔していた。自分の勝手な嫉妬心から、芹と響子に沙夜と一馬の写真を送ろうとしていたのだから。結局純に説得されて芹だけに送ったのだが、少し考えてみればソフィアはショーの為にあのドレスを二人に着てもらっただけなのだ。そしてそのドレスはまだ未発表の状態で誰も見ていない。
 芹を疑う為にしたこととはいえ、軽率だったのだ。未発表のモノを表に出されたとなれば、自分だって憤慨する。それをわかっていたはずなのに。
 翔は携帯電話を取り出すと、芹にメッセージを送った。今の時間なら向こうは夜中なのだ。いつもだったらメッセージが確認出来る夜中や早朝にメッセージを送っているが、今はいち早く弁解がしたかった。

 外では誰が聞いているかわからない。サロンではスタッフが作業をしている。なのでソフィアが二人を案内したのは、二階以降のリーとソフィア一家の自室だった。
 本当だったら二人でもここへ呼ぶのは気が引ける。ジョシュアの件があったからだ。だが二人だから。本当だったらソフィアだって二人をここに呼ぶことは無かったのに、ソフィアの我が儘でこんなことになってしまったという罪悪感が二人を自室へ呼んだのだ。
 リビングには甘い匂いがする。おそらくアンが作っていたお菓子はここで作られていたのだろう。アンはここへ来ることをソフィアにとがめられたことは無い。アンはそれだけソフィアの信頼を得ているのだ。
「お茶をとりあえず飲むね。地元で取れた紅茶の葉よ。」
 そう言われてアンは自分の家のようにお茶を淹れてくれている。それを二人の前に置くと、沙夜はその紅茶に口を付けた。
「美味しい。」
 するとソフィアの顔が少し緩んだ気がする。そして一馬もその紅茶に口を付けた。
「確かに美味い。俺はコーヒーの方が好きなんだが、この紅茶は茶葉が違うようだ。」
「あたしの兄夫婦が茶畑をしているね。ヨーロッパの方へ輸出されていると聞いたよ。」
「ヨーロッパの方は紅茶の文化だ。そこで取引されるとなると結構なお茶なんだろうな。」
「そうね。」
 沙夜はそう思いながらその紅茶の味をまた見る。あの洋菓子店で出している紅茶とはまた違うが、これはこれで美味しい。音楽の好みがあるように、紅茶やコーヒーも美味しさの質が違うのだから。
 アンが席に着くと、ソフィアは手を組んで沙夜達に言う。それをアンが訳して二人に伝える。
「まずは謝りたいね。ソフィアは沙夜を見たときから、この体型はモデルに使えると思ってずっとドレスを着て欲しいと思っていたのだけれど、それが「二藍」にも迷惑をかけてしまったようだと。」
 アンの言葉に沙夜は首を横に振った。
「どこから漏れて、まだ表に出ていない画像です。」
「その前に手は打っているのか。」
 一馬はそう聞くと沙夜は頷いた。
「部長には昨日のうちに連絡をしておいたわ。響子さんの元へこの画像が送られたと言うことは、何枚か同じような画像を響子さんに画像を送った主は持っていると考える。もしそのような画像が出るようであれば、しかるべき対応を取らせると。」
「……ただ、お前も俺も軽率だったな。」
「それは部長にも言われた。いくら頼まれたからといっても断ることは出来るだろうと。」
 ただ沙夜も一馬も浮かれていたのかもしれない。疑似とはいっても結婚式を挙げたような錯覚になったのだから。
「結局ドレスは使えなくなったね。それがソフィアにとって一番痛い事よ。何ヶ月も前からデザインをしたり、布や縫製、飾りも全て無駄になった。」
 ソフィアはそれが一番申し訳ないと思っている。名前が出るのはデザインをしたソフィアなのだが、ソフィアだけではドレス一着も作れない。アンを初めとしたパタンナーや布を卸してくれるメーカーとの公証人。ドレスを飾る為のジュエリーデザイナーも全てがソフィアをバックアップしているのだ。それが一瞬でお蔵入りになる。
「……ソフィア……。」
 心配そうに沙夜が声をかける。しかしソフィアは首を横に振って少し笑った。
「……。」
「ソフィアは前向きね。駄目になったら駄目になったドレスよりも素晴らしいドレスを作り出せるチャンスが出来たと言っているよ。」
 その言葉に沙夜ははっと気が付いたように一馬を見る。そうだった。沙夜もまたそういう考えを持っていたのだった。
「そうだったな。」
 一馬も少し笑うと、ソフィアに言う。
「期待している。」
「……。」
「……。」
 するとアンは呆れたようにソフィアに言った。
「何を言ったんだ。」
「新しいデザインが出来たら、また二人に来て欲しいねと言っているよ。今度は、信頼を置ける人に撮ってもらって、そのデータも厳重に管理をするとね。」
 その言葉に沙夜と一馬は苦笑いを浮かべた。
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