触れられない距離

神崎

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ドーナツ

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 こちらの国でも水川有佐の評判は良くなかったのは知っている。だから向こうの国で「二藍」のコーディネーターをしたいと聞いたときには、少し戸惑ったのを覚えている。だがそれを西藤裕太はそこまで反対は出来ない。有佐は裕太にとっては立場的には上司になるのだし、それを理由に断る事も出来たのだがそれを強引に進めてくればもう何も言う事は出来なかったので、そのまま進めたのが徒になったのだろう。
 裕太はため息を付いて、その報告が書かれたメッセージを読んでいた。有佐は「二藍」に関われないように移動になる。新しいバンドを開発したいという希望に添ったように発展途上国への移動になるのだろうが、おそらくそこで続く事はない。つまり左遷のようなモノで、この会社を自然に去る事を促しているのだ。
 それでも有佐はもしかしたらこの会社に留まるかもしれない。年齢的に再就職は厳しいだろうし、音楽しか見てこなかった女性だ。今更新しい事を手に付けるとは思えない。
 そう思いながら買ってきたコーヒーに口を付けたときだった。
「部長。お客様ですよ。」
 部下からそう言われて、裕太はオフィスの入り口を見る。そこには背の高いひょろっとしたスーツ姿の若い男がこちらを見ている。爽やかな男だ。この男が入ってきただけで、オフィスの女性達はひそひそと何か話をしている。だが裕太には馴染みの顔だった。そう思って席を立つと、男の側へ向かう。
「藤枝君。わざわざここまできてくれてありがとう。」
「いいえ。外回りへ言ったついでだったので、良かったです。」
「そう……忙しそうだね。ちょっと待ってくれるかな。メッセージを返したら、隣の会議室を開けるから。そこで待っててもらって良いかな。コーヒーでも飲むかい?」
「あー……いいえ。大丈夫です。」
 外回りへ行っていたら、どこでもお茶やコーヒーが出てくる。それだけでお腹がたぷたぷになりそうだと藤枝靖は思っていたのだ。そう思ってそこと言われた来客用のソファに腰掛ける。
 このオフィスの棚には数多くのCDや資料が陳列されていて、その隙間にポスターが張っている。その中には「二藍」のポスターもあった。叔母はあまり音楽を聴かない方だが、このバンドの曲だけはお気に入りのようで外国のハードロックに混ざって良く聴いていた。それに合わせて息子も絵本を読みながらその曲を流していた。近所に住む叔母の友人の子供なんかも交ざる事があり、おもちゃのピアノやギターでバンドの真似事をしているのを何度も見た。小さな子供でも影響が強いバンドなのだろう。
 最近は局長も変わってきた。なじみ深いようなハードロックの曲もあれば、コアすぎるような曲調もあったり、逆に軽いポップな感じもある。しかしどれもすっと体の中に馴染むような感じで、評判は悪くない。それにその曲に合わせた歌詞も評判が良いのだ。
 靖はバッグの中にある本をちらっと見る。その本は「渡摩季」の二冊目の詩集。増刷は繰り返されて、益々未練がましい女性のイメージが付いている感じがした。だがこれを書いているのは、うさんくさいような感じがする天草芹という男。それを表に出さないために、歌詞を依頼されたときには芹自身がここへ来る事は無く靖が足を運んでいるのだ。担当作家として当然の仕事だと思う。だが人気があるだけにその仕事量は普通の作家よりも多い。まだキャリアも浅い靖には手探りの部分もまだあるのだ。その度に相談する人もいるが、それだけを頼りには出来ない。だから石森愛という人はとても頼りになるのだろう。
「お待たせ。行こうか。」
 裕太はそういって靖に近づいてきた。そして靖も立ち上がると、オフィスの外に出て行く。
「あの人、結構見る顔よね。若そうだけど、何なの?」
「渡先生の担当だって言ってたけどね。」
「へぇ……。渡先生の新しい恋人かなぁ。」
「だとしたら相当包容力があるよね。良いなぁ……。若いのにそんな事が出来る人って。」
 ため息を付きながらオフィスにいる女性達はその後ろ姿を見ていた。うぶそうな靖と、女性関係が派手だという噂の裕太では釣り合いが会わないと思っているのだろう。そんな事で二人が会っているわけでは無いのに。

「すいません。いつもだったら泉さんにチェックしてもらうんですけど。」
 そう言って靖は持ってきた封筒を裕太に手渡した。その中身を裕太はチェックする。そこには渡摩季の歌詞が書いてあった。普段ならメッセージにファイルを載せて送るのだが、そのアドレスは沙夜の所にしか届かない。なのでプリントアウトをしたモノを、こうやってまとめて裕太に手渡しているのだ。
「構わないよ。チェックだけなら俺も出来るし。ん……こっちはアイドル向けのモノで、こっちはアニメの曲だったかな。」
「えぇ。そうです。」
「チェックしてこっちは部門に送っておくよ。」
「お願いします。」
 すると裕太は少し笑って靖に言う。
「郵送でも良かったんだけどね。わざわざここへ来たのは何か話があったんだろう?」
 そう言われて靖は少し戸惑った。やはり百戦錬磨で、経験値が高い裕太だ。何もかも見透かされているように思える。それは自分の叔父でも言える事だった。この柔らかそうな物腰なのに、人に有無をいわせない感じはよく似ているように思えた。
「叔父に相談もしたんです。でも……放っておけば良いと言われただけで。」
「叔父って……そっちの会社の上役の人じゃなかったかな。文系の統括をしている……。」
「はい。」
 裕太はこの男の叔父に一度会った事がある。石森愛に紹介されたのだ。柔らかそうな物腰なのに、目の奥があまり笑っていないように思えた。そんな男が一番信用出来ないと思える。だが自分の好きな作家の旦那だと言うし、表面上の付き合いだけだったら何でも良いかと割り切っていた。
「何かあった?」
「渡先生なんですけど……最近少し作風が変わったというか。」
「いつも通りだと思うけど。」
 そう言って裕太はもらった封筒を開く。そして頼んでいた歌詞を見ると、相変わらず未練がましい女性の歌詞があった。
「俺、その歌詞を読んだときに感じたのは、後悔している事があるのかと思ったんです。」
「後悔?」
「あの……こういう時じゃないと聞けないと思ったんですけど。渡先生は恋人と別れたんですか。」
「恋人?あの男に恋人なんか……。」
 そう言われて、靖ははっと気が付いた。裕太は芹と沙夜の関係を知らなかったのかと。だとしたら自分は余計な事を言ってしまったと思ったのだ。
「すいません。余計な事を……。」
 焦って素直に謝ると、裕太は少し笑って言う。
「知らなかったけど、やはりそうだったんだね。」
「知らなかった?」
「渡先生を紹介してくれたのは泉さん。いつだったか三人で食事へ行った事がある。その時には恋人だとは言っていなかったけどね。二人を見ててそうなのかもしれないとは思っていたよ。」
「あの……俺……。」
「言わないよ。そんな事。泉さんは恋人が居る事は公言しているけれど、それが誰なのかは誰も知らない。「二藍」の担当は形だけでは望月君という男もしているけれど、望月君もその相手を知らないはずだ。」
「はぁ……そうだったんですか。」
 沙夜に確かめて相談するべきだった。そう思って後悔する。しかし、そんな事を沙夜本人に聞けるわけがない。
「で、その渡先生と泉さんが別れたのかって事だっけ。」
「えぇ……。」
「多分別れては無いと思うよ。ただ、複雑な事になっているようだ。」
「複雑?」
「天草紫乃という人を知っているだろう?」
「別の会社ですけど、出版社で文芸を担当している人ですよね。書評が売れていると聞きました。」
「あぁ。渡先生は天草紫乃を嫌っていてね。」
「知ってます。なんか……対談をしたいと天草さんがずいぶんこちらに言って来た事があって。」
 最後は脅しのような事を言われた。それを助けてくれたのは沙夜だったのだ。
「渡先生と紫乃がたまたま街で出くわしたときがあってね。その時に横にいたのは泉さんではなく、泉さんの妹さんだった。たまたま泉さんが出張へ行っていてね。その時に一緒に食事をした帰りだそうだ。」
「……妹って……日和さんですよね。」
「会った事が?」
「前に何度か……。」
 家で会ったとは言えないだろう。そう思って自然に会ったということにしておこうと思った。だが裕太にはわかっている。どこで靖が沙菜と会ったのか。
「だから紫乃はおそらく渡先生の恋人はAV女優だと思っているはずだ。」
「……マジですか。」
 そんな誤解をさせていて良いのだろうか。事情があるとは聞いていたが、沙夜はそれで良いのかはわからない。そう思って靖はため息を付いた。すると裕太が笑いながら言う。
「歌詞の作風が変わったのだったら、それが原因なのかもしれないな。」
「うーん……。」
 さすがにプライベートの事だ。ここまで突っ込んで良いのかというのは悩むところだと思う。その時だった。
「さすがにそれは本人のプライベートの事だ。音楽も確かに精神状態で、ガラッと音が変わる事もあるけれど、文章にする人は更に露骨にわかるだろうね。誤解をさせたのには事情があるとは言っても、泉さんは複雑だろう。しかしそれはさすがに本人の問題だ。藤枝君。」
「はい?」
「君は渡先生の担当だし、これからどう売っていくのかは渡先生と二人三脚でやっていかないといけない。もしこれからどう売るのかというのを、渡先生とよく話し合えなければ、担当は変わった方が良いと思うよ。」
「そうですよね……。」
「泉さんのように深く付き合いすぎるのもどうかとは思うけれど、それで互いが納得しているのだったら俺はそれで構わないと思う。後は本人達に任せているから。」
 裕太はそう言って話を終わらせた。だが裕太自身も少し納得していないところがあった。最近、沙夜は「二藍」のことに首を突っ込みすぎだ。五人と関係があると噂されて否定出来るのも難しくなってきたのだから。
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