触れられない距離

神崎

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パエリア

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 今頃沙夜は飛行機で外国へ行っているはずだ。十時間近くかかるフライトで、きっと眠りについたり、映画を観たり、思い思いに過ごすはずだ。沙菜はそう思いながらシャワーを浴び終わって楽屋に戻ってきた。
 AVの撮影というのは普通の撮影スタジオだったりする。普通の映画でも汚れたりすることはあるので、シャワー室が併設されていることが多い。女性用のシャワー室は割と小綺麗にしてあってコスメなんかも揃っているが、男優のシャワー室はあまり充実していないとは聞いている。
 それは金銭でも同じ事で、男優は女優に比べて圧倒的に数が少ない割に払われる金額も大きく差がある。それでも生活をしていかないといけないので何本も掛け持ちは当たり前なのだ。先程まで絡んでいた男優も終わったらシャワーをさっさと浴びて次の現場へ行くらしく、いそいそと現場をあとにしていたから。
 女優はイベントに参加するのは自分の名前を売るためだが、男優の場合はほとんど金銭的な理由だろう。イベントに出れば、男優として一本出演したくらいの金銭が懐に入る。人によってはグッズを自腹で発売したりしている人だっているのだ。見た目よりも苦しい世界で、楽をして稼げる仕事では無い。沙菜が憧れていた男優も、そういう世界にいたのだ。
 置いている雑誌に目を移した。映画の雑誌で、今度その男優が主演をする映画が公開される。男優を引退して一般の俳優になったが、最初はヒールの役だったイメージが強くて、しばらく嫌味な男や悪役をすることが多かったのに、この映画では妻に寄り添う良い夫の役になるらしい。これでまたイメージが変わるのだろうか。
 沙菜はそう思いながら着替えを済ませる。そして携帯電話を手にしてメッセージをチェックした。そこには一件のメッセージが入っている。その相手に沙菜は苦笑いをした。
 しばらく雲隠れをしているようで、メッセージを送られることは無かったのにまた復活したのかと呆れているのだ。だがメッセージを返すことは無い。そう思ってそのメッセージを無視して、携帯電話をバッグに入れる。
 ゴミなんかをまとめて楽屋を見渡す。あとはスタッフが掃除をするだろう。
「お疲れ様でした。」
 楽屋を出て、スタッフに挨拶をする。すると男性スタッフが沙菜に声をかけた。
「日和ちゃん。差し入れありがとうね。」
「いいえ。まだ編集作業があるんですよね。頑張ってください。」
 女優によっては精神的に不安定だったり、プライドが凄く高くてスタッフにも声をかけない人もいるらしいが、沙菜はそう言うことはしたくない。
 お世話になるスタッフなのだ。だから弁当を用意してくれるというのは当たり前だと思わない。むしろこちらが差し入れするくらいの気持ちが無いといけない。今日だってちょっとしたドリンク剤を差し入れたのだ。そういう心遣いが沙菜をまた使おうとスタッフや監督が思うところなのだろう。
 そしてそういった心遣いを教えてくれたのは沙夜だった。沙夜は当然、こんな現場は知らないがどんな現場でも心遣いが次の仕事を呼んでくれる。そう教えてくれたのだ。
 そして沙夜がそう言ったことに気が付いたのは、幼い頃にモデルをしていたからだろう。ずっと続けていられるモデルは、スタッフにもカメラマンにも気を遣うことが出来る人なのだと、沙夜はわかっていた。そして沙夜はその事は「二藍」にも活用している。きっとそれは外国へ行っても変わらないのだ。
 スタジオの外に出ると、周りはもう暗かった。秋も深まったこの時期は、日が暮れるのが早い。今日は家に帰れば響子と海斗が居る。そして芹も帰ってきているはずだ。四人で食事を囲むのだろう。そう思っていたときだった。
「日和ちゃん。」
 本名では無く、芸名で呼ばれるときには大抵良いことでは無い。そう感じていても無視は出来ない。「日和」のイメージが悪くなるからだ。
「誰……あ……。」
 そこには慎吾の姿があった。メッセージが届いていてそれを無視していたのだが、こんな近くにいると思っても見ないことで、沙菜は少し驚く。
「この近くのスタジオだって聞いていたから。」
「どこから?まさかストーカーってわけじゃ無いわよね?」
「まさか。俺だってこの近くだったんだ。」
 翔の弟である慎吾は益々翔に似ていると思った。出会ったときには髪が長かったのだが、今は短く切られていてそれが少し翔に似ているように思える。
「兄さんはどこの国へいったの?」
「あなたこそお兄さんなんだから直接翔に聞けば良いじゃ無い?仲が悪いの?」
「悪いね。君の所みたいにべったりしていないよ。」
 きっと沙夜のことをいわれているのだ。そう思って沙菜はため息を付く。
「姉さんとはべったりしているつもりは無いんだけどね。」
「一緒に暮らしているんだろう。」
「そうだけど。」
「俺は兄と暮らすなんてもう嫌だね。あの家に近づくのも嫌だ。」
 ずいぶん嫌っているな。そう思っていたが深く聞けば嫌な面も見えるだろう。そう思って黙っていた。
「そう。いい家だと思うけど。住みやすいわ。」
 思った以上に沙菜が食いついてこない。翔のことを出せば食いつくと思っていたのに、当てが外れた。そう思って慎吾は心の中で舌打ちをする。
「悪いけど、もう帰りたいの。今日は撮影で疲れていてね。」
「……ちょっと待って。あのさ……一つ聞きたいことがあるんだけど。」
「何?」
「天草紫乃という女を知ってる?」
「天草……。」
 天草と言えば芹の名字だ。そして紫乃というのはいつか芹と食事に行ったときにあった女性のことだろう。芹の義理の姉だと言っていた。つまり芹の兄である裕太の嫁。しかしあまり上等な人では無い。あんな人がAVの業界にやってきたら、引っかき回すだけ引っかき回してしまうだろう。
「その人が何なの?」
「「二藍」を嗅ぎ回っている。前はベースの……。」
「花岡さん?」
「あぁ。その人のことを嗅ぎ回っていたようだけど、今は違う人をターゲットにしているらしい。」
「誰に狙いを定めているの?」
 やはり姉には弱いのだ。慎吾は心の中で笑いを抑えきれない。
「それが知りたかったら着いてくる?ホテルでも。」
 その言葉に沙菜は首を横に振る。
「だったら良いわ。今は「二藍」は外国へ行っているし。」
「外国だから危ないとは考えないのか。」
 さらわれても外国で起きたことなのだと、相手にされないことも多い。特に、沙夜達が行っている場所は治安が良くないところでもある。どうしてそんなところのスタジオを指定したのかわからないが、あちらにはあちらの事情があるだろう。
「……悪いけれど、姉さん達は確かに危ないところはあるかもしれないけれど、お互いをフォロー出来ているわ。誰に何があっても誰かが守るし、守られる。そんな仲なのよ。「二藍」は。」
 その言葉に慎吾は首を横に振った。そして少し笑う。
「少なくとも兄さんはそんな人じゃ無い。」
「翔は?」
「汚い男。人に罪を被せるだけ被しておいて。」
 ぎゅっと拳を握る。それが演技に見えなかった。思わず何があったのと聞きたくなったが、思えばこの男は役者なのだ。これくらいの演技はお手の物だろう。
「そう……何があったかはあとで聞いておく。じゃあ、お疲れ様。」
 沙菜はそう言って慎吾から離れていった。関心が無さそうなその後ろ姿を見て、慎吾は思わず口を尖らせた。
「くそ。」
 明らかに翔に惚れていたように見えたのに、翔のことを出しても「二藍」のことを出しても動じなくなった。それではまずいのだ。慎吾はそう思いながら、携帯電話を取り出す。そしてコールをした。
「もしもし……。駄目でしたね。何を言っても動じない。別に男が出来たんじゃ無いんですか。」
 すると電話の相手の紫乃は慎吾にヒステリックな口調で責め立てる。その言葉に、慎吾は呆れたように通話を終わらせた。
 そして言われたことを思い出す。
「紫乃にはあまり関わらない方が良いかもしれない。」
 場合によっては人妻だろうと何だろうとセックスをすることはある。だが紫乃だけは止められていたのだ。その理由はまだわからない。
 だが自分にはこれしか無かった。携帯電話の画面がぼやける。もう時間が無いことを誰よりも自分がわかっていた。
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