触れられない距離

神崎

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炊き込みご飯

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 外国へ行く前日。沙夜はその準備に余念が無い。時差に会わせて向こうのコーディネーターと打ち合わせをしたり、スタジオのチェックから宿泊施設の管理人にも連絡を取る。
 音楽だけでは無く生活面でも面倒を見てくれて、あちらの料理も気になるだろうがこちらの料理も恋しくなるだろうと、味噌や醤油まで用意してくれていたようだ。
 ずいぶん優遇されて否と思いながら、沙夜はコーディネーターとの打ち合わせを終える。明日の夜に現地へ飛び立ち、向こうに着くのは夜になるのだ。
 そういえば治は時差に弱かった。前に外国へ行ったときも時差ぼけが酷かったし、アイマスクなどは買っているのだろうか。そう思って治に連絡をしようとしたときだった。
 沙夜のデスクに置いてある電話が鳴る。それはデスク一つ一つに添えられているモノで、あまり沙夜はデスクに居ることは無いので携帯電話に連絡をしてもらうようになっているが、珍しくこの電話が鳴ったと思って沙夜はそれを手にする。
「はい。泉です。」
 受付嬢からの連絡だった。「二藍」の担当に会いたいという人がロビーに来ていると言うらしい。
「わかりました。今向かえますのでそのままお待ちください。」
 そう言うと電話の受話器を置く。すると隣にいた植村朔太郎が声をかけた。
「お客さん?」
「アポも無しに呼ばれるのは珍しいんですけどね。」
 そういう人物は何人か居る。弁護士の沢村功太郎だったり、望月旭がそうだったりするのだ。だが望月旭の場合は、高梨という担当がしっかりしていて沙夜に事前に連絡をすることもあるのだが、思いついたときに来ることもあるのでいきなり来ることもある。
 そう思いながら沙夜はバッグを持って、そのままオフィスを出て行った。その後ろ姿を見送った朔太郎は、沙夜のデスクとは反対側の席を見る。そこには妻が居たのだが、妻はこの間から産休に入った。里帰り出産をするというので家に帰ればまた一人の生活だが、次々に子供のためのモノが部屋に運ばれるのを見て少しずつ自分も実感してきたようだ。
 しかしベビーベッドというのは結構大きい。やはり今の家では無く引っ越しをするべきだったかと思っていたが、妻がそれを反対したのだ。これからもっとお金がかかることが多くなるので、無駄なお金は使いたくないと言っている。確かに体から入ったような妻だったが、その辺がしっかりしていて朔太郎は何度も助かっているのだ。

 一階に降りてきた沙夜は、受付の方を見る。すると受付嬢は沙夜を見てはっとした表情になった。そして沙夜はそこへ足を運ぶと、受付嬢が向こうにあるソファーへ促す。来客用のソファーはとても座り心地が良くて、軽い打ち合わせなんかはここですることもあるのだ。
 そのソファーに座っていたのは、大きなキャリーケースを置いている中年の女性だった。その人に見覚えが無い。沙夜はそう思いながらその女性に近づいた。
「お待たせいたしました。「二藍」の担当をしている泉と申します。」
 すると女性はその声に立ち上がって、沙夜に向かい合った。気が強そうな感じに見える。だがどこか疲れているようにも見えた。目の下に僅かだがクマが見える。
「「二藍」は芸能事務所に入っていないから、ここが窓口になっていると聞いたんだけど。」
「はい。その通りです。」
「花岡一馬さんに会うことは出来るかしら。」
 一馬の名前に沙夜はいぶかしげに女性を見た。
 今、メディアの話題の中心は、洋菓子店のオーナーの元婚約者を自殺に見せかけて殺した事が中心になっている。直接手を下していないが、オーナーの兄はその殺人罪の教唆と言うことで新たな罪が露わになったのだ。
 一馬はその兄と面識がある。なのでどんな人物だったのかなどをメディアは探ろうとしているのだ。だが一馬自身はそこまで面識があるわけでは無い。表向きには洋菓子店で客同士として顔を合わせただけというスタンスを取っているのだ。
 なので今、一馬の周りや一馬の奥さんの周りは落ち着いていると言えるだろう。
「失礼ですが、花岡とはどのような関係でしょうか。」
 沙夜はそう聞くと、女性はため息を付いて言った。
「一馬さんはうちの娘婿になるの。」
「娘婿……。」
 と言うことは、この女性は一馬の奥さんである響子の母親なのだろう。響子が一番会いたくない人物だと言っていた。この女性から逃げるように翔の家に海斗と共に身を寄せているのだ。
 納得できるような気の強そうな女性だと沙夜も思う。そもそも明らかに年下ではあるが初めて顔を会わせる人にこんな言葉遣いは無いと思うし、モノを頼む態度では無い。
「もう一人の娘に教えてもらったあのアパートの家にもずっと帰っていないようだし、オーナーにも今は会うことは出来ないし、一馬さんとも連絡が付かないのよ。」
「はぁ……。それは会いたくないからでしょうね。」
 真っ直ぐに言いすぎたか。沙夜はそう思いながらその母親の方を見る。すると母親は明らかにいぶかしげな顔をした。生意気だと思ったからだろう。
「あたしは母親なのに?こういう時にこそ身内が守ってあげなくてどうするの?」
「身内は花岡さんのご兄弟もいらっしゃいますし、従業員の方も家族同然にお付き合いをされているみたいです。花岡は家に帰れないことも多いので、そういうつてを利用しているようですが。」
「あの子とは血の繋がりがあるのよ。他人に囲まれているよりも、血の繋がりがある親の元に居た方が良いに決まってる。」
「血の繋がりを主張しても無駄ですよ。」
「何ですって?」
 いらついている。言葉の端々が強くなっているからだ。
「今まで奥様が実家に寄りつかなかったのが良い証拠だと思いますが。」
「離れているからでしょう。まぁ……その心配は無くなるけれどね。」
「は?」
「引っ越しをするつもりだから。夫の母親が亡くなって、もうあの土地に未練は無いし。」
「……。」
「その時には響子も一緒に住めば良いわ。一馬さんはあまり家に居ないようだし、今からはあたし達を頼りにして欲しいから。もう一人の娘は婚約を破棄してもらって、五人で暮らしていけば良いわ。そう思わない?」
「地獄ですね。」
「え?」
 初対面でここまで言うと思っていなかったが、沙夜はため息を付いて言う。
「花岡と奥様の稼ぎでも当てにしているんですか?」
「そんなこと……。」
 図星だったのだろう。最初からこの母親は生活に余裕があるように思えなかったからだ。
「花岡から聞きましたけど、海斗君の髪を無理矢理切ろうとしたそうですね。犯罪と言われても仕方ないですよ。」
「三歳児が散髪を嫌がるのなんか当たり前じゃ無い。あなた、子供は居るの?」
「居ませんけどね。」
 すると母親は得意げに言う。
「子供を産んだことも無いのに、偉そうなことを言わないで。うちにはうちの事情があるのよ。良いから一馬さんに会わせなさい。」
 どこかで自分の我慢している堪忍袋の緒が切れた気がする。一馬の義理の母だし、おそらく無理をしてでもこちらに来て響子を探し回っていたとするなら、その労力は同情の余地がある。しかし我慢にも限界があった。
「それがモノを頼む態度なんですか?奥様を始め、花岡もあなたを避けていた理由がわかりますね。」
「な……。」
「私だったら母親に強制され自分の意思を曲げられそうな時、どんなに満たされた環境でも子供は逃げ出すと思いますけどね。」
 その言葉に母親はぐっと拳を握る。その言葉を言われたのは二度目だったからだ。
「良いじゃ無いか。響子がこういう事が好きならさせておきなさい。子供は子供の意思があるんだから、親はそれをバックアップさせるだけで良い。」
 そう言ってあの医療器具のような道具を使ってコーヒーを淹れていた。それは自分の父親だった。また可愛がられるのは響子であり、自分のその立場を失わせているのも響子だと母親は思っていたのだ。
「私には子供は居ませんけど、そういう立場の人も見て来ましたから。」
 今はきっとその人は新しいバンドの音を聴いているはずだ。そしてダメ出しをずっとしている。美味くそのバンドの意思を汲んでいるのだろうか。奏太もまた「二藍」に出会って少しずつ変わっていると思う。それを信じたいと思った。
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