触れられない距離

神崎

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 話を聞くだけ聞いて、沙夜はからのタッパーやスープジャーを持つとそのままスタジオをあとにした。一馬は抱きたいと思っていたのかもしれないが、さすがに今日は抱かれる方も微妙な感情になる。沙夜はそう思いながら電車に乗っていた。
 それでも抱きしめられた感触を忘れられないし、キスをした舌の感触もまだ残っているようだ。それは自分が求めているからだろう。
 一馬は一人で乗り切る強さを求めていた。今まで一馬は裏切られることも多くあって、一人でいることが自然だったのにいつの間に仲間が出来た。そして沙夜が側にいる。それを頼ってしまっていたのかもしれない。奥さんにも同様に一人でいる強さを求めていたというのに。
 所詮人は一人では生きていけない。
 西川辰雄だってそうだ。一人で山の中に籠もり、自給自足の生活を目指していたのに、妻が出来て子供が生まれた。そしてもう一人の子供が今度生まれるだろう。一人では味わえなかった喜びだった。
 沙夜の隣にはきっと芹がいるのだろう。そして「二藍」がいる。「二藍」の担当を外れてもまた違うバンドを担当するのだ。それでもここまで親密になれるバンドはこれからは出てこない、
 そう思いながら沙夜は電車を降りる。そしてホームに降りて改札口を出るとトイレへ向かった。ワンピースからいつもの私服に着替えるのだ。変装の意味もあって、眼鏡もしていないから。
 そして個室を出ると、手を洗いそのままトイレを出て行く。すると清掃員が入っていった。夜では無いとトイレの掃除も出来ないのだ。
 そして駅を出ようとしたときだった。前からやってきた人に声をかけられる。
「マネージャーさん。」
 いくらマネージャーでは無いと言っても理解してくれない男は何人か居る。望月旭がその一人で、しかし旭はもうマネージャーでは無いことはわかっていて、それは呼び名くらいの感覚なのだろう。だがこの男は違う。
「天草さん。」
 天草裕太だった。ニットの帽子をかぶっている姿を見ると、本当に芹に似ていると思う。だが芹には無い嘘くさいような笑顔があり、それが沙夜を警戒させていた。
「こんな夜にどこかへ行っていたの?」
「えぇ。少し用事があって。」
「一馬が雲隠れしていると聞いたけれど、留まっているところへ行っていたの?」
「……留まっている?そうですか。世の中ではそういう風に捉えられているんですね。」
「家にも居ないと妻から聞いている。」
 文芸誌の担当だと行っていたのによく知っているな。沙夜はそう思ったが、ここで嫌味を言えば倍になって帰ってくるだろう。そう思って首を横に振った。
「そうでしたか。普通に仕事はしているようなので何も無いと思ってましたけどね。」
「普通に?」
「えぇ。仕事の報告もありますし、この間は久しぶりにみんなで新しいアルバムの曲を合わせましたから。」
 違う。普通では無いはずだ。あの奥さんが被害者になった事件の波はまだ収まっていない。首謀者は奥さんが勤めている洋菓子店のオーナーの親族。被害に遭った女子や、男子もいてその責任が問われているのだから。
「どこにいるのかわからないかな。」
「さぁ……。どこかのホテルか何かにいると思いますけど、正確な場所までは……。」
「そんなわけが無いんだ。あのベースを持ったままホテルなんかに留まっているわけが無い。別の女のところとかそういう話は聞いていないの?」
「花岡さんは家族思いで、奥さんが好きな方です。他に女が居るという話は聞いていませんね。」
「でも……。」
「あなたにはいらっしゃるんですね。奥様は気が強そうなタイプでしたし、心が安まるときが無いんじゃ無いんですか。」
「うちの妻は……。」
「花岡さんの奥様も気が強いタイプではありますけれど、またタイプは違いますね。花岡さんは良く奥様に合わせているように思えますけれど、あなたはそれがキツいんじゃ無いんですか。」
 すると裕太はぐっと言葉を飲んだ。芹と付き合っているのだ。あらかたのことは聞いているのだろう。そして紫乃のことは良く思っていないはずだ。
「それは誤解だ。うちの妻だって良いところは沢山ある。息子の面倒も見ながら、仕事だってフルタイムでしてくれている。俺の収入が不安定だから、良く支えてくれていると思っているよ。」
 結局お金しか見ていないのか。そういう捉え方しか出来ない。
「そうですか。」
「君が芹と結婚することは無いと思うけれどね。」
 その言葉に沙夜は裕太の方を見る。
「どうしてですか。」
「うちの母親には気に入られないだろうし、紫乃も気に入らないだろうね。女は仕事ばかりしてないで、家庭に入り旦那を支えながら子育てをするという考えが母親は強いようだ。」
 その話には違和感がある。先程と行っていることが違うからだ。
「しかし、奥様にお母様は何も言われないんですよね。フルタイムで仕事をしているのに。」
 すると裕太は少し笑って言う。本当は借金があるから。紫乃の収入が無ければ生活は出来ないのだ。それがわかっているから母親も何も言わないらしい。
「それだけうまくやっているんだ。君にはうまくやれないと思う。何でも一人でやってきたプライドだってあるのだろうから。」
 プライドの塊のような人から言われると思ってなかった。
「結婚にこだわっていませんから。」
 そう言うと裕太は少し笑って言う。
「あぁ。そうだったね。芹の結婚の相手は違う人かもしれないし。君は二番目でも良いと思っているの?」
 本妻にはなれず、愛人なんかになるのだろうと思われたのだ。呆れたように沙夜は裕太に言う。
「以前に芹と別れたのかと聞かれましたが、まだ続いています。愛人になるつもりはありませんし、私が言っているのは籍を入れなくても夫婦という形は取れるということですから、変な誤解を生むようなことを言わないでください。」
「籍を入れないで?そんな中途半端なことを両親が許すはずは無い。」
「あなた方にも許可を得ようとは思っていませんから。」
 その言葉にむっとしたように裕太は沙夜の腕に手を伸ばそうとした。こんなに自意識が高くて、生意気な女を許せるはずが無い。この女に手を出せばどうなるのかわかっている。だが黙らせたかった。紫乃のつてを使えばこの女は黙るはずだから。
「言って良いことと悪いことがある。ちょっとこちらへ来てもらおうか。」
「嫌です。もう帰りますから。」
「だったら家にまで付いて行こうか。」
 すると沙夜は首を横に振って、その腕を振り払おうとした。その時だった。
「何をしているんだ。」
 そういわれて裕太はその手を引く。そしてその声がした方を見る。そこには二人の男。一人は芹だった。
「芹。」
 沙夜は芹ともう一人の男の方へ足を進める。
「芹か……。それから……。」
 もう一人の男を見て、裕太は思わずのけぞった。こんな所にこの男がいると思っていなかったから。まずい。要らないことを言われたら全てが終わる。
「久しぶり。天草さん。」
「……あぁ……。」
「弟がお世話になっているみたいだ。どうかな?弟は。」
「あいつのおかげでまた「Harem」が盛り返してきて、感謝しているよ。」
「それは良かった。」
 その人を沙夜はあまり観たことが無かったが、遠目で見たことがある。洋菓子店のキッチンにいつもは居てあまりそこから出てくることは無いが、ひとたびキッチンからフロアに出てくると客がその男に注目の的だった。それくらい綺麗で尚且つむせかえるような色気がある人。それが遠藤真二郎だった。
「真二郎さんは芹と知り合い?」
 すると真二郎は芹の方を見て言う。
「食事へ行ったりすることもあったかな。」
「あぁ。」
 芹と真二郎はそこまで知り合いなのか。沙夜は少し驚いたように二人を見る。そして真二郎は、少し笑って裕太に言う。
「弟の目はどう?病院へちゃんと行っているの?行けないほど収入は低い時期は過ぎたと思うけれど。」
 医者という単語に、裕太は焦って真二郎に言う。
「真二郎さん。それはこの二人の前で言わないでくれ。」
「どうして?俺がそちらの事務所にサインをしたとき、弟の目の治療を約束してくれたと思っていたんだけど。」
 そう行って芹と沙夜の方を見る。すると沙夜は何の話なのかと、芹の方を見た。
「ちゃんとしているよ。だから……ここでそれを言わないでくれ。頼む。芹が何の仕事をしているのかわかっているなら。」
 すると真二郎は笑顔のまま裕太に告げる。
「悪いけれど、天草さん。あんたは全てが中途半端だ。人を脅すんだったら、もう少し隙が無いようにした方が良い。」
 その時、やっと沙夜はわかった。一馬が真二郎に何も言えない理由が。
 この人は、一馬の奥さんのため、そしてそれにまつわる人のためなら、自分の保身などを考えない人なのだ。だから一馬が真二郎には何も言えないのだろう。つっと汗が落ちる感触がした。
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