触れられない距離

神崎

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焼きプリン

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 食事を終えると有佐は別の仕事のあとにスタジオへ来ると言っていた。沙夜も食事を終えると、少し雑務をこなしたあとに外へ出ようとした。その時オフィスに奏太が戻ってくる。
「お疲れ。今からスタジオか?」
「えぇ。どう?そちらのレコーディングは。」
「良いと思うよ。真面目な奴らで良かった。」
 一時は少しギクシャクしていたようだが、奏太も引くところを覚えたのだろう。演奏をしているのはバンドのメンバーで奏太では無いと言うことがわかったから。作り出す音楽は、バンドのメンバーが納得すれば良いということに気が付いたのだ。
「今日、みんな集まるのか?」
「橋倉さん以外ね。」
「それで曲を聴きたいってんだから、水川さんも相変わらず我が儘だよな。」
 我が儘は何となくわかるが、自己本位の我が儘では無い。せっかくコーディネーターとして外国を案内するのだ。しかも自分の国から。恥をかきたくないと思っているのだろう。
「昔から知っているのね。」
「向こうに居たときにな。世話になったよ。」
 その世話の礼くらいの気持ちで寝たのだが、思ったよりも気に入られたらしい。おそらく有佐は素直な反応をしているのだと思う。普通だったら恥ずかしいという感情があって顔を赤くするのかもしれないが、有佐はそれを恥だと思わない。素直に感じたことを表現しているだけなのだ。
「そうね。色々とお世話になったんでしょうね。」
 沙夜はそういうと、奏太は慌てたようにいう。
「言っとくけど、水川さんとはそんな関係じゃ無くて。」
「セフレでしょ?向こうにいたときの。」
「あー……まぁ、世話になったからさ。あの人のおかげでこっちの国に帰れたようなモノだし。」
 だからといって寝るというのは違う気がするが、そんな世界の人達なのだろう。沙菜だってそうだ。だからそれに対して自分が思っている正論を振りかざしても仕方ない。それにもういちいち奏太の女関係を突っ込みたくも無かった。
「良いじゃ無い。まだお互い独身同士なんだし。あぁ、水川さんは向こうで恋人が居ると言っていたけれど。」
「そっか。だから……。」
 そう言いかけて口をつぐんだ。これ以上性に奔放だと沙夜に思われたくなかった。だがこの間有佐と寝てしまったのは事実で、前に寝たときよりも若干大人しくなっていたのはそのせいだろう。
「そっちはどうなんだよ。」
 誤魔化したくて沙夜にそう聞いた。一馬とのことだとわかっていて、止めたいと思うのにやはり聞いてしまうのは自分が馬鹿だからだろうか。
「どうでも良いでしょう。もう行くわ。」
 自分のことは言いたくなかった。だが今度芹と出掛けるのは、自分にとって少し不安でもある。一馬と寝る度に自分が変わっているような気がする。それに芹は気が付いてしまうのだろうか。
「あぁ、そういえばいつもなんかお菓子とか弁当とか用意しているだろ?今日は何か作ってきたのか。」
「えぇ。」
「俺の分は?」
「スタジオにいる人だけによ。あなたには無いわ。」
「冷たいヤツ。」
「恋人でも作れば良いでしょう。料理が上手な人。あなただったらすぐに作れるんじゃ無いのかしら。合コンとかで。」
「今は全然行ってねぇよ。」
 ただ入れ込んで欲しいという女ばかりだ。だからホテルへ行く間もなく、居酒屋のトイレでセックスをしたのを妹の沙菜に見られたのはまずかった。それが奏太の品位を下げる結果になったのだから。
 沙夜がオフィスを出て行く。だがいつものバッグだけで行く姿に、いつもの保冷バッグなんかは持っていないようだ。差し入れを持っていない姿に少し違和感を持ちながら、奏太はその後ろ姿を見ていた。

 会社を出て、裏手にある公園へ向かう。昼時には休憩をしているサラリーマンやOLなんかが弁当を食べたり仮眠をしているようなところだが、もうその時間は過ぎていて人の姿はまばらだった。その中に芹の姿がある。保冷バッグといつものバッグを持っていて、ジーパンとシャツ、それにフードの付いた上着を着ている。
「芹。」
 声をかけると、芹は持っていた携帯電話を降ろして沙夜の方を見た。
「お疲れ。」
「ありがとう。わざわざ持ってきてくれて。」
「良いよ。俺もこっちに用事があったから。」
 詩集が発売されるのはあと二,三日後。予約が結構入っていて、予約だけで重版されるらしい。だが今日の打ち合わせは「草壁」のライターとしての本の打ち合わせだった。こちらも知る人ぞ知るという感じで、予約が入っているらしい。だが「渡摩季」としての詩集の方が、まだ売れるような感覚だ。
 保冷バッグを沙夜に手渡すと、沙夜はその中身を確認する。治は来れないはずなので、人数分だけを用意した。治が居たら少し余分を用意するのだが、他はそんなにガツガツしていないからだろう。
「海斗が凄い美味しいって絶賛してたよ。」
「あぁ。もう来ているの?」
「うん。親子揃ってさ。今は家に居て、俺が帰ったら商店街の方へ買い物に行くよ。夕飯は用意してくれるって。」
「そう……。」
 いつもどんなに忙しくても食事は用意していた。それがあの家に居る価値だと思ったから。だがその役割も一馬の奥さんや海斗で奪われた気がする。それが少しやるせない。
 二人には事情があって家に居てもらう。それはわかっていて、それを納得した上のことだ。
「寂しそうな顔をするなよ。」
「え?してた?」
 そう言って顔に触れる。すると芹は少し笑って沙夜に言った。
「あの奥さんさ、居るのは一時的なモノだろう。それに普段はK街の雑踏の中に家がある。それに比べると、うちは住宅街の中で夜だって静かなモノだ。海斗はあの静かな中で寝られるかって言うと微妙だと言ってた。どっちにしても長くあの家には居ないと思うけど。」
「そうね。」
 沙夜の気持ちを芹はいつも汲み取ってくれる。それが嬉しかった。
「大した料理は出来ないけれどって言ってた。煮たり、焼いたりするくらいしか出来ないって。」
「十分じゃ無い。」
「だよなぁ。でもお前は少しあの奥さんに頼れば良いよ。無理に朝早く起きて食事や弁当を用意しなくても良いし、頼れるところは頼って良いと思うけど。」
「えぇ。そうね。」
「でも……あれだ。」
「どうしたの?」
「一馬さんのことは少し気にしていたな。外国へ行くまではホテル暮らしをするって言ってたけど、食事なんかはどうするのかって。」
「それも含めて聞いてみるわ。これから練習なの。」
「そうだったな。」
 奥さんは一馬がホテル暮らしをするなんて事は思っていない。奥さんも一馬がスタジオを持っていることは知っていて、そこに寝泊まりすることはわかっている。だが奥さんはそのスタジオへ足を運ぶことは無い。
 きっと奥さんは、そのスタジオで何をしているのかもう気が付いているのだ。それなのに沙夜には自然に振る舞っている。友人のように話をすることもあるのだ。
 どうしてそんなことが出来るのかわからない。もし逆の立場で、芹が他にセックスをするだけの相手が居るとしたら、沙夜は怒りにまかせて別れを告げるかもしれない。それだけ一馬がどれだけ沙夜とセックスをしていても本心からでは無く、奥さんでは吐露出来ない感情を沙夜にぶつけているのだと納得しているのだろうか。それとも自分には一馬には言えない感情が、真二郎やオーナーにぶつけることが出来るのでそれで良いと思っているのだろうか。
 どちらにしても二人は夫婦であるのに、隙間や溝があるような気がした。沙夜はそう思いながら、芹と別れる。その隙間は芹と自分にもあるような気がした。
 一馬と体を重ねる度に、どうにかなりそうな自分の感情と裏腹に、体は益々乱れていく。
 もうこんな関係を辞めようと思う感情と辞めたくないと思う感情が入り乱れ、自分の体がバラバラになりそうだと思った。
 スタジオへ向かうその途中、携帯電話が鳴り沙夜はそのメッセージに目を落とす。その相手は一馬の奥さんだった。そのメッセージに沙夜はため息を付く。
「夕食を作ったら一馬のところに持って行って欲しい。」
 それは一馬と沙夜の関係を認めてしまったと捉えてしまう。それに甘えて良いのだろうか。感情のままに抱かれて、それで良いのだろうか。迷いながらも沙夜の気持ちも体もまだ一馬を求めていた。
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