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焼きプリン
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口は悪いが、仕事は出来る女だと思った。音楽に対しても知識は広くて、新しいアルバムも意見を出してきている。
「この曲ね。この部分はメロディをどうしてメジャーにしたのかしら。」
「それはですね。」
対して水川有佐も納得しているようだ。スーツをきっちり着た女で、ハードロックよりもクラシックを専門にしてそうだと思ったのに、よく勉強をしていた。
「あぁっ。もう。こんな時間になった。時間が足りなすぎるわ。」
「そうですね。」
黒縁の眼鏡の奥の目が少し笑った。よく見れば微震だと思う。飾らないだけの女性だった。ずいぶん若い女性なのにわざと飾らないようにしているのだろうか。
「ねぇ。「二藍」のメンバーは外国に行くまで集まらないのかしら。」
すると沙夜は首を横に振る。
「一人は産休に入ってまして。この外国へ行くのが復帰になるんですよ。」
「あらおめでとう。まさか花岡が?」
「いいえ。ドラムの橋倉さんです。」
「そうね。一人子供が出来たという話は聞いているけれど、二人目が出来たとは聞いていないし。ふふっ。」
初めて少し笑った。そうだ。一馬のことになったらこの女性は表情が緩むのだ。確かに歳は沙夜よりも相当上に感じるが、母親ほどは離れていない。一馬だったら少し上くらいでちょうど良いのかもしれない。そう思うと少しもやっとした気分になる。
「可笑しいですか。」
「花岡の奥様ともね。ずっと知り合いなのよ。まだあの洋菓子店にいるのかしら。」
「えぇ……。」
もしかしたらあの洋菓子店は出て行くかもしれない。オーナーの兄が奥さんの心にえぐるような傷を与えたのだ。その後遺症はまだある。
「これからコーヒーを飲みに行こうと思うの。別のバンドの練習を見るついでにね。」
「そうでしたか。よろしくお伝えください。」
「あなたも来ないかしら?」
すると沙夜は首を横に振った。
「いいえ。ここへ来る前にその洋菓子店へ行ったばかりなんです。コーヒーを頂きました。」
「あら。そうなの。」
奥さんとも知り合いなのか。だったら沙夜が想像していたような関係では無いのだろう。そう思って少しほっとした。
「響子の淹れるコーヒーはどこよりも美味しい。どんな国へ行ってもあれ以上の味は無いわ。もちろん、響子のお祖父様が淹れたコーヒーも美味しかったけれど、美味しさの種類が違うのよね。」
「そこまで言われたら奥様も喜ぶでしょう。」
「えぇ。美味しいモノは万国共通。だから、あんな洋菓子店でくすぶっているよりも外国へ来て欲しいのに。口をきけば、良いところでお店を開くのも可能でしょうに。」
「外国へ?」
驚いて沙夜は有佐の方を見る。すると有佐は悪びれも無く言った。
「えぇ。少し人間関係が苦手だから、雇われてお店をするのは難しいかもしれないけれど、個人のお店だったらきっとうまく行くわ。」
そうだろうか。個人で経営をするなら更に人間関係が必要になってくるだろう。その辺は何も思わないのだろうか。
その時、オフィスに奏太が帰ってきた。そしていつものように自分のデスクへ戻ろうとしたときだった。有佐の姿を見て顔を引きつらせる。そしてくるっとオフィスの外に出ようとした。
「望月。」
その様子に有佐は奏太を追いかけて、肩を掴む。
「水川さん。いつこっちに?」
「昨日帰ってきたの。あたしが「二藍」のコーディネーターをするから、その打ち合わせに来たのよ。」
「そりゃ。心強いっすね。」
心が入っていないような言い方だ。それが気に入らないのだろう。有佐はその肩を抱いて、奏太に言う。
「今夜、付き合いなさいよ。」
「やですよ。もうこりごりだし。」
「良い体をしてるし体力だってあたしに付いて来れたんだから、自信を持ちなさいよ。ほら、終わったら連絡をしなさい。」
「えー?」
「えー。じゃない。」
高いヒールの付いたパンプスが履かれた長い足が、奏太のふくらはぎを軽く蹴る。
「いてっ。わかりましたよぉ。ったく……セックスだったら一馬の方が強いって話なのに、そっちに何で流れないかねぇ。」
「人の旦那に手を出すほど飢えてないのよ。独身同士の方が良いに決まってるじゃ無い。」
その会話を聞いて、沙夜は手を止めた。一馬には奥さんがいるから、セックスをしないと有佐は言う。しかし奥さんがいてもセックスをしている自分は獣そのものに感じた。
それでも良いと覚悟をしてしていることだが、言葉にするととても自分が汚く思える。
やっと有佐が行ってしまって、奏太は席に戻れた。そして隣に座っている沙夜の方を見る。沙夜は何も言わずに、パソコンの画面を見て仕事をしているように見えた。
「沙夜。あのさ……誤解しないで欲しいんだけど。」
「何が?」
「有佐さんとはそんな関係じゃ無くて。」
「セックスをする関係なんでしょう。」
「ちが……。あの……まぁしたのはしたんだけどさ。」
「誤魔化さなくても良い。あなたが誰とセックスをしようとするまいとどうでも良いから。」
「俺が誰でも構わずしているみたいじゃん。」
「そうじゃなかったかしら。トイレでもするくらいだし。」
それを出されると辛い。沙夜の妹があの場にいて、セックスをしているのを見られたのが更にまずかっただろう。
「あのさ……あの人とはもうセックスしたくないんだよ。」
本音が出たか。沙夜はそう思いながら、奏太の方を見る。
「外国に行くとあんな感じなのかしらね。」
「そりゃ、人数だって多いし人のゴタゴタなんか構ってられないだろうな。誰が不倫したとか、恋人だとか、よっぽどの有名人じゃ無い限り気にしないだろ。」
有佐はそれを狙っていたのかもしれない。沙夜はそう思って手を止めた。
一馬の奥さんが外国へ行けば、奥さんが拉致されて監禁されていたなどと言うことは誰も言わないだろう。知り合いのいないところで位置から人間関係を築くのは悪くないと思う。
元々奥さんはそこまで人間嫌いというわけでは無いのだ。嫌いなのは、そのレイプされた経験からなのだから。
「そうね……。」
全て投げ出して違うところへ行きたいという気持ちはわからないでも無い。沙夜が「夜」だと言うことを知っている人だって限られてくるだろう。そういった意味では羨ましいと思う。
「お前、どっかに逃げたいのか。」
「別に。今は仕事もあるし。」
「だから、「二藍」っていう枠が無ければ、どこかへ行きたいとでも思っているのか。」
その言葉に沙夜はため息を付いた。そしてぽつりと言う。
「「草壁」とだったら良いかもしれないわね。」
芹がずっと紫乃から逃げていたのだ。その気持ちが今になってわかる。
だがそれが奏太にとって、一馬とどこかへ逃げたいという風に捉えられ、不機嫌になりそうだ。そう思いながら、奏太はパソコンの電源を入れる。
「有佐さんはまだ独身だろう。」
「さぁ。そこまで聞いていなかったわね。」
「あんなセックスをされたらどんな男でもやだろうな。」
「あんな?」
「何回も求めてくるんだよ。回数いけるっていってもそんなに何度も出来ないし。」
一馬とすると良いのかもしれないと一瞬頭をよぎった。だがそれを払拭させる。一馬とセックスなどさせたくない。
奥さんとするのは夫婦だから。間違っているのは自分だと思える。だが有佐とするのは意味が全く違うのだ。
その時、沙夜の携帯電話が鳴る。一馬からのメッセージが送られてきた。明日、仕事が遅くなると伝えている。だから仕事が終わったらスタジオへ来て欲しいと。
その言葉に沙夜は「駄目」と伝えた。奥さんについてあげて欲しいと思うから。そしてその気持ちが更に沙夜を複雑にさせる。
「どうした。お前、顔色が急に真っ青になって。」
「何でも無いわ。少しトイレに行ってくる。」
席を立つと、携帯電話を手にしてオフィスを出て行く。そしてトイレの個室に入ると、その便器の中に昼に食べたものが全部出て来たような気がした。
それを流して、壁にもたれかかる。自分が追い詰められているような気がした。
「この曲ね。この部分はメロディをどうしてメジャーにしたのかしら。」
「それはですね。」
対して水川有佐も納得しているようだ。スーツをきっちり着た女で、ハードロックよりもクラシックを専門にしてそうだと思ったのに、よく勉強をしていた。
「あぁっ。もう。こんな時間になった。時間が足りなすぎるわ。」
「そうですね。」
黒縁の眼鏡の奥の目が少し笑った。よく見れば微震だと思う。飾らないだけの女性だった。ずいぶん若い女性なのにわざと飾らないようにしているのだろうか。
「ねぇ。「二藍」のメンバーは外国に行くまで集まらないのかしら。」
すると沙夜は首を横に振る。
「一人は産休に入ってまして。この外国へ行くのが復帰になるんですよ。」
「あらおめでとう。まさか花岡が?」
「いいえ。ドラムの橋倉さんです。」
「そうね。一人子供が出来たという話は聞いているけれど、二人目が出来たとは聞いていないし。ふふっ。」
初めて少し笑った。そうだ。一馬のことになったらこの女性は表情が緩むのだ。確かに歳は沙夜よりも相当上に感じるが、母親ほどは離れていない。一馬だったら少し上くらいでちょうど良いのかもしれない。そう思うと少しもやっとした気分になる。
「可笑しいですか。」
「花岡の奥様ともね。ずっと知り合いなのよ。まだあの洋菓子店にいるのかしら。」
「えぇ……。」
もしかしたらあの洋菓子店は出て行くかもしれない。オーナーの兄が奥さんの心にえぐるような傷を与えたのだ。その後遺症はまだある。
「これからコーヒーを飲みに行こうと思うの。別のバンドの練習を見るついでにね。」
「そうでしたか。よろしくお伝えください。」
「あなたも来ないかしら?」
すると沙夜は首を横に振った。
「いいえ。ここへ来る前にその洋菓子店へ行ったばかりなんです。コーヒーを頂きました。」
「あら。そうなの。」
奥さんとも知り合いなのか。だったら沙夜が想像していたような関係では無いのだろう。そう思って少しほっとした。
「響子の淹れるコーヒーはどこよりも美味しい。どんな国へ行ってもあれ以上の味は無いわ。もちろん、響子のお祖父様が淹れたコーヒーも美味しかったけれど、美味しさの種類が違うのよね。」
「そこまで言われたら奥様も喜ぶでしょう。」
「えぇ。美味しいモノは万国共通。だから、あんな洋菓子店でくすぶっているよりも外国へ来て欲しいのに。口をきけば、良いところでお店を開くのも可能でしょうに。」
「外国へ?」
驚いて沙夜は有佐の方を見る。すると有佐は悪びれも無く言った。
「えぇ。少し人間関係が苦手だから、雇われてお店をするのは難しいかもしれないけれど、個人のお店だったらきっとうまく行くわ。」
そうだろうか。個人で経営をするなら更に人間関係が必要になってくるだろう。その辺は何も思わないのだろうか。
その時、オフィスに奏太が帰ってきた。そしていつものように自分のデスクへ戻ろうとしたときだった。有佐の姿を見て顔を引きつらせる。そしてくるっとオフィスの外に出ようとした。
「望月。」
その様子に有佐は奏太を追いかけて、肩を掴む。
「水川さん。いつこっちに?」
「昨日帰ってきたの。あたしが「二藍」のコーディネーターをするから、その打ち合わせに来たのよ。」
「そりゃ。心強いっすね。」
心が入っていないような言い方だ。それが気に入らないのだろう。有佐はその肩を抱いて、奏太に言う。
「今夜、付き合いなさいよ。」
「やですよ。もうこりごりだし。」
「良い体をしてるし体力だってあたしに付いて来れたんだから、自信を持ちなさいよ。ほら、終わったら連絡をしなさい。」
「えー?」
「えー。じゃない。」
高いヒールの付いたパンプスが履かれた長い足が、奏太のふくらはぎを軽く蹴る。
「いてっ。わかりましたよぉ。ったく……セックスだったら一馬の方が強いって話なのに、そっちに何で流れないかねぇ。」
「人の旦那に手を出すほど飢えてないのよ。独身同士の方が良いに決まってるじゃ無い。」
その会話を聞いて、沙夜は手を止めた。一馬には奥さんがいるから、セックスをしないと有佐は言う。しかし奥さんがいてもセックスをしている自分は獣そのものに感じた。
それでも良いと覚悟をしてしていることだが、言葉にするととても自分が汚く思える。
やっと有佐が行ってしまって、奏太は席に戻れた。そして隣に座っている沙夜の方を見る。沙夜は何も言わずに、パソコンの画面を見て仕事をしているように見えた。
「沙夜。あのさ……誤解しないで欲しいんだけど。」
「何が?」
「有佐さんとはそんな関係じゃ無くて。」
「セックスをする関係なんでしょう。」
「ちが……。あの……まぁしたのはしたんだけどさ。」
「誤魔化さなくても良い。あなたが誰とセックスをしようとするまいとどうでも良いから。」
「俺が誰でも構わずしているみたいじゃん。」
「そうじゃなかったかしら。トイレでもするくらいだし。」
それを出されると辛い。沙夜の妹があの場にいて、セックスをしているのを見られたのが更にまずかっただろう。
「あのさ……あの人とはもうセックスしたくないんだよ。」
本音が出たか。沙夜はそう思いながら、奏太の方を見る。
「外国に行くとあんな感じなのかしらね。」
「そりゃ、人数だって多いし人のゴタゴタなんか構ってられないだろうな。誰が不倫したとか、恋人だとか、よっぽどの有名人じゃ無い限り気にしないだろ。」
有佐はそれを狙っていたのかもしれない。沙夜はそう思って手を止めた。
一馬の奥さんが外国へ行けば、奥さんが拉致されて監禁されていたなどと言うことは誰も言わないだろう。知り合いのいないところで位置から人間関係を築くのは悪くないと思う。
元々奥さんはそこまで人間嫌いというわけでは無いのだ。嫌いなのは、そのレイプされた経験からなのだから。
「そうね……。」
全て投げ出して違うところへ行きたいという気持ちはわからないでも無い。沙夜が「夜」だと言うことを知っている人だって限られてくるだろう。そういった意味では羨ましいと思う。
「お前、どっかに逃げたいのか。」
「別に。今は仕事もあるし。」
「だから、「二藍」っていう枠が無ければ、どこかへ行きたいとでも思っているのか。」
その言葉に沙夜はため息を付いた。そしてぽつりと言う。
「「草壁」とだったら良いかもしれないわね。」
芹がずっと紫乃から逃げていたのだ。その気持ちが今になってわかる。
だがそれが奏太にとって、一馬とどこかへ逃げたいという風に捉えられ、不機嫌になりそうだ。そう思いながら、奏太はパソコンの電源を入れる。
「有佐さんはまだ独身だろう。」
「さぁ。そこまで聞いていなかったわね。」
「あんなセックスをされたらどんな男でもやだろうな。」
「あんな?」
「何回も求めてくるんだよ。回数いけるっていってもそんなに何度も出来ないし。」
一馬とすると良いのかもしれないと一瞬頭をよぎった。だがそれを払拭させる。一馬とセックスなどさせたくない。
奥さんとするのは夫婦だから。間違っているのは自分だと思える。だが有佐とするのは意味が全く違うのだ。
その時、沙夜の携帯電話が鳴る。一馬からのメッセージが送られてきた。明日、仕事が遅くなると伝えている。だから仕事が終わったらスタジオへ来て欲しいと。
その言葉に沙夜は「駄目」と伝えた。奥さんについてあげて欲しいと思うから。そしてその気持ちが更に沙夜を複雑にさせる。
「どうした。お前、顔色が急に真っ青になって。」
「何でも無いわ。少しトイレに行ってくる。」
席を立つと、携帯電話を手にしてオフィスを出て行く。そしてトイレの個室に入ると、その便器の中に昼に食べたものが全部出て来たような気がした。
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