触れられない距離

神崎

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 今頃沙夜は沢村という弁護士を交えて、一馬の奥さん、一馬と話をしているはずだ。その場に翔はいない。翔はこの日、楽器のメーカーが主催する新製品の講習会にでも演奏者として出演するのだ。
 企業向けの広い会場を借りたのは、この製品を売り出したいというメーカーや取材をする人達が一堂に集まるから。クリエーターが数人集まりこの機材の説明をする。楽器の販売店にいたときには翔はその中の一人だったはずだ。その機材を見極めえて客に説明して必要があれば購入してもらう。そういう仕事をしていたのだから、こういう場は勉強会のようなモノにもなる。そう思っていつも足繁く通っていたが、まさか自分が講師の立場になると思っていなかった。
「千草さん。本日はよろしくお願いします。」
 会場で設営などをしていてバタバタしているのだろうに、この担当の女性はいつもこうやって声をかけてくれる。まだ入社して間もないのかもしれないが、若い印象があった。忙しさにかまけて髪も伸ばしっぱなしだし、黒いパンツスーツはどことなく沙夜を連想させる。だが沙夜ほど背は高くない。
「こちらこそ。凄い良い機材でした。簡単に使えるし、音楽を作りたい人がこれでまた増えると思いますよ。」
「良かった。そう言ってくれて。」
 この女性は普段はスーツなどを着ていない。開発者として工場にいつもは勤務しているのだ。だから普段は作業着に身を包んでいる。スーツは着慣れていないのだ。
「あ、そうだ。ここって自販機とかありましたかね。」
「会場を出て右にエレベーターホールがあるんです。その側に数は少ないですけど自販機はありました。コーヒーとお茶くらいはあったと思いますよ。」
「それで十分です。ありがとうございます。」
 バタバタしている会場は、少し早く着きすぎたのかもしれない。だからこの女性も気を遣って声をかけてくれたのだ。そう思って会場を出て行く。
 この建物は他にも保険の説明や、他の企業が会議をするのに使われている。つまり、他の企業の人達もうろうろしているのだ。そういう人達とすれ違う度に、振り向かれることがある。「二藍」のキーボードの翔だというのはわかっているのだろう。
 もうモデルの仕事はしていないが、たまにキーボードの専門誌なんかには顔を出すこともあるし、当然「二藍」として五人で取材を受けることもある。見ない顔では無く、すれ違う人達が振り向くこともあるのだ。そういうモノにはあまり答えない方が良い。沙夜はそう言っていたので、言われたように翔はそれを無視してエレベーターの方へ向かう。そしてエレベーター近くの自動販売機の前に立ち、コインを入れた。そしてお茶を手にすると、携帯電話をチェックする。
 沙夜はずっと翔は一緒に事情を聞いていたのに、ここまで来て翔はのけ者にしたと思っているのだ。だから何があったかというのは教えてくれてくれる手はずになっている。
 正直気になる。一馬が奥さん想いだからこそ、奥さんの事件をずっと気にしていたのだ。そして触れたくないことに触れてしまう。それで一馬が沙夜では無く奥さんにまた気を向けてくれれば良いのだ。一馬が大事にするのは、沙夜では無く奥さんなのだから。
「千草?」
 携帯電話にはまだメッセージが入っていない。そう思っていたときに声をかけられた。振り返るとそこには見覚えのある人がいる。
「あ……渡部?」
 楽器の販売の会社に居たときの同期だった。この男も同じピアノやオルガンなどの鍵盤を担当していたと思う。あの時、この男と共に愚痴の言い合いながら居酒屋で飲んだこともある。だが良い印象は無い。だから翔は少し逃げ腰なのだ。だが渡部といわれた男は翔に近づいてくる。
「凄いな。お前。もう有名人じゃん。」
「そうでも無いよ。」
「俺は講習に来てるのに、お前が講師って差を付けられた気がするよ。そんなに機材のマニアだったかな。」
「勉強したんだ。」
「「二藍」だっけ?ハードロックの。」
「あぁ。」
「ソロアルバムも聴いたよ。」
「ありがとう。」
 あまり関わりたくなかった。だから口数が少ない。だが愛想はあった方が良い。そう思って普通に接していたのだが、それが渡部を誤解させる。
「同じ部署だった河合さんっていたの覚えてる?」
「……覚えてないな。誰だっけ。」
「お前の教育係になってた女。」
「あぁ……。」
 会社に居たときのことはあまり思い出したくなかったのに、渡部はその辺がわかっていない。そしてその河合という女性は、翔が可愛いとずっと言っていて翔が同棲しているような恋人が居ると言ってもお構いなしに言い寄っていたのだ。食事へ行こう、飲みに行こうとずっと言われて五回に一回くらいは断り切れなくて行ったこともある。その時に体をすり寄せられて、香水の匂いが移り志甫からこっぴどく叱られたこともあった。思えばそういう所から志甫との関係は悪くなっていたのかもしれない。
「不倫しててさ。この間、相手の奥さんが職場まで乗り込んできて泥沼だったんだ。」
「ふーん。」
 一馬と沙夜が不倫をしているとして、一馬の奥さんが沙夜に詰め寄るだろうか。話し合いにも同席して欲しいと言うくらい信用しているのだから、もしそれが裏切られたとなるとややこしいことになりそうだ。
「興味ないんだ。」
「無い。こっちのことで手一杯だし。」
「有名人だもんな。」
 そんな自覚は無いが、他人から見るとそうかも知れない。
「そんなに出てないから、まだ表は歩けるし。」
「でもそんな有名人だったら女だってやり捨て出来るだろ。」
「……しない。」
 そういえば女と寝て仕事を取ったという噂が立っていたのだ。偶然気に入られて取ってきた大きな仕事に嫉妬をした人が言っているだけで、実際そんなことをしたことは無い。あの時には志甫と一緒に暮らしていたし、志甫しか見ていなかった。
「河合さんはお前が辞めたときに一度くらいはしておきたかったって言ってたけどさ。しなくて正解かも。でも他の人とか……それこそ仕事の相手とか。」
「お前はしているんだ。」
「俺?冗談。お前ほど顔だって良くないし……。」
「顔じゃ無いだろう。そういうのは。」
 顔だけでは無い。AV男優だって目が覚めるような男前もいれば、太った人だっている。沙菜がそんなことを言っていた。
「結婚してるんだよ。俺は。」
 意地になったように渡部が言うと、翔は表情を変えずに言った。
「さっき河合さんって人は既婚者と不倫をしていたと言っていた。そういうこともあるんだろう。そっちの会社はまだ。」
「……。」
 少し言い負かすつもりだった。会社を辞めてしばらく見ないと思ったら、バンドなんかを初めてそれが売れている。それが腹が立つ要因なのに、会社に居たときのようないじいじと根暗なイメージが無い。それが表に立つ人間だから、そうなったのだろうか。
「どちらにしても関わりたくない。変な噂も立てられたくないし。」
「でも寝て仕事を取ってたって噂はあるんだ。それをリークすることだって出来る。ゴシップ誌に知り合いだっているんだからさ。」
 ここまで頭が悪い人間だったのだろうか。結婚したと言っていたがその辺は、あの時と全く変わらない。
「何か求めているのか。」
「そのお前が食った女で良いから回してくれないか。妻が妊娠中で溜まってるんだ。」
 それが目的なのか。いや。それだけじゃ無い。翔が手を出したという話をして、また余話無を握ろうとしているのだ。そう思って、翔は心の中でため息を付く。
「男で良いのか。」
「え?」
「俺の噂って知っているんだったら、回せるのって男だけど。」
 遥人とゲイカップルの噂がある。それを逆手に取ったのだ。
「男って……お前、だって……同棲している恋人が居るって。」
「恋人だから女って事は無いだろう。尻の穴を綺麗にして待ってろよ。浣腸を何回かしたらいい。そうは無いと大変なことになるし。」
 その言葉に渡部は顔を引きつらせながら去って行った。ゲイである噂がこんな所で役に立つと思ってなかった。そう思いながら翔は買ったお茶のペットボトルを開ける。そしてまた携帯電話を取りだして画面を見る。通知が数件。そしてその中に沙夜のモノがあった。そう思って急いでその通知を開く。
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