触れられない距離

神崎

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スイートポテト

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 終電に間に合うように帰り、途中で一馬はK街の最寄り駅で降りた。そして沙夜も自分の最寄り駅で降りると、コンビニのトイレで着替えをする。ワンピースからスーツに着替え眼鏡をかけて髪を結ぶ。これだけで普段の自分になれた気がした。
 家にはきっと三人は帰っているだろう。いや、翔は帰ってきていないかもしれない。付き合いのある楽器のメーカーの人と、打ち合わせのあとに食事をして飲みに行くと言っていたから。そういう付き合いも必要で、その繋がりがあるから新製品などをメーカーが出したときに、講師として翔が呼ばれたりするのだ。「二藍」に会えると言って講習会にファンが来ることもあるし、翔の技術を盗みたいというクリエーターもやってきて、メーカーも販売店も翔を頼りにしている。
 だが翔は自分がいた楽器の販売店には声をかけられても行かないのだという。それもそうだろう。その会社が原因でうつ病寸前になってしまったのだから。そしてその会社の悪びれも無く声をかけてくる図太さに、沙夜すら嫌気が差していた。沙夜の方にまで声がかかることもあるのだが、それを断ると「二藍」自体のあり得ないような噂を流してくる。
 それをきっかけに、その会社は別部署であるテクノの部署からも嫌気を差されているのだ。自業自得だと思う。
 うまくやっているだろうか。そう思いながら沙夜は家へ帰り着いた。そして鍵を開けると、家の中はしんと静まりかえっている。
「あれ?」
 思わず声が出た。翔はともかく、芹と沙菜は帰ってきているものだと思っていたから。靴を脱いでリビングへ向かうとやはり誰も居ないようだった。
 芹は今日出版社で仕事があると言っていた。もしかしたらその跡にあの藤枝安しか石森愛に誘われて食事にでも行ってしまったのだろうか。そして沙菜は合コンか何かかもしれない。どちらにしても二人は食事が要らないと言っていたのだから。
「そういうときもあるわね。」
 沙夜はそう呟くと、そのまま台所を横切って洗面所へ向かう。手を洗ってふと風呂場を見た。シャワーを一馬のスタジオで浴びたので必要ないが、ここで浴びないのはどう考えても不自然だ。そう思って、軽く浴びておこうと思っていた。
 そして部屋に帰ると部屋着に着替え、そのまま下着をもつと風呂場にそれを置く。シャワーを浴びる前に明日の食事の用意をしておこうと思ったのだ。
 まず弁当箱を洗うと、そのまま米を取り出す。明日の分の米をとぎ、あらかたの仕込みを終わらせておく。明日は買い物をして帰らないと食材が心許ない。
 そして全てを終わらせると、そのまま風呂場へ向かった。裸になり、シャワーを浴びる。するとその流れるお湯の中に血液のようなものが見えた。
「やばっ。」
 生理が始まったらしい。そう思って予備のナプキンが洗面台の下にあったかと思いだしていた。そしてそれと同時に少しほっとするモノがある。
 コンドームをしていても避妊は完全では無い。そして今妊娠すれば仕事にも影響が出るし、芹も裏切ることになる。何より一馬とは離されることになる。つまり「二藍」の担当からは外れてしまうだろう。アーティスト、しかも既婚者に手を出した担当だと言われて。その通りなのだから何も言えないが、こんな形で離れるのは嫌だと思う。
 覚悟はしたのだ。あの場でしか触れられないこと。そしてあのスタジオを誰にも知られてはいけないと。そう思いながら、沙夜はシャワーのお湯を止めるとそのまま代つい序にあるタオルに手を伸ばす。そして水気をあらかた取ると、そのまま脱衣所へやってきた。体の水気をそのまま取ると、洗面所の下にある蓋付きのかごを取り出した。沙菜にはあまり必要ないのかもしれないが、ここにはナプキンが入っている。それを広げて、下着にセットするとそれを履いた。その時だった。脱衣所のドアノブが回る。それを見て沙夜は声を上げた。
「誰?」
「あぁ。居たんだ。」
 翔の声だった。今帰ってきて手を洗おうとしたのかもしれない。
「ごめん。今裸だから少し待ってくれる?」
 裸という声に翔は思わず生唾を飲んだ。酔っているのもあるのかもしれないが、沙夜の半裸の姿を想像すれば、自然と気持ちが高ぶるようだ。
 だがこのドアを開けるわけにはいかない。そう思って翔は声をかける。
「良いよ。台所で手を洗ってくるから。」
 そう言って足音が聞こえた。翔で良かったと思う。芹だったらドアを開けてしまうかもしれない。そして嫌でも目に付く沙夜の体に残った一馬の跡を見つけてしまうだろう。
 一馬はその跡を付けるのが好きだった。そして今日も派手に付いている。スーツを着れば目立つことは無い位置だとは言っても、どこでどう脱ぐかわからないのに不用意なものだと思った。
 そして沙夜は着替えを終えると、リビングを抜けて翔の部屋の前に立つ。
「翔。シャワーを浴びるでしょう?」
 すると翔の声が聞こえた。
「沙夜。ちょっと良い?」
 そして翔の部屋のドアが開いた。翔の手には携帯電話が握られている。
「どうしたの?」
「治のメッセージがさ。」
「橋倉さんの?いいえ。あぁ。シャワーを浴びている間に入っていたのかしら。」
「……。」
 翔は自分の携帯電話の画面を見せる。すると沙夜は驚いたようにその画面を見た。
「子供さんが産まれたって……。」
「あぁ。産まれたにしては、それだけなんだ。」
 嫌な予感がする。治のことだから産まれてきたらおそらく生まれたばかりの子供の写真なんかを載せると思ったからだ。前に治の子供の話も聞いている。
「もしかして……。」
「何か知ってるのか。」
 しかし翔はその話を知らないだろう。そう思って沙夜は首を横に振った。
「こちらから連絡をしてみるわ。もしかしたら難産だったのかもしれないし、疲れてそれだけしか送る気力が無かったのかもしれないし。」
「でも男が何が出来るの?」
 すると沙夜は首を横に振った。
「翔。子供を産むのは女だけでは無いのよ。男性だってそれに寄り添わないといけない。その間に父親になる覚悟をしてもらわないといけないんだから。」
 しかしその子供が自分の子供では無ければ、治は何を覚悟して良いのかわからない。そんな絶望の中に居るのかもしれないと思うといても立っても居られなかった。
「そっか。沙夜の部署には、植村さんが居たんだね。」
 植村朔太郎は日々、そうやって父親の覚悟を決めていると思う。それをずっと裕太が言って聞かせていたのだ。それを沙夜も聞いていたのだろう。
「それに一馬がそう言っていたわ。」
 一馬の奥さんも難産だったという。それに一馬は付いていたのだ。一切の仕事を断って、長い間奥さんに付いていたのだという。
「でも……気になるわね。メッセージだったら、あとででも見れるし送っておこう。今日はもう寝るわ。」
「……沙夜。」
「ん?」
 自分の部屋に戻ろうとした。その時だった。翔の手が沙夜の腕を掴む。
「何?」
 すると翔は沙夜に近づくと、背中の襟ぐりを引く。するとそこには僅かな赤い跡があった。
「何か……。」
 沙夜はそう言って手を首元に持ってくる。すると翔は少し笑って言った。
「どれくらい付けられたの?」
「付けられた?何か付いているかしら。」
「キスマーク。」
 その言葉に沙夜の表情が僅かに変わった。だがすぐにいつもの顔になる。
「何も無いわ。」
「……そう?だったら見せてくれる?」
「どうしてあなたに見せないといけないのかしら。」
 強気にそう言うと、翔は少し笑って言う。
「芹では無いよね。芹は今日、沙菜といるんだから。」
「沙菜と?」
「Sの方で待ち合わせていたよ。たまたま見かけただけだけど。」
 黒い帽子をかぶっていた。そんな芹に近づいたのは、やはり変装をしていた沙菜だった。いくら変装をしていてもわかる。そして二人でどこかへ行っていたのだ。
「沙菜と……こんな時間まで?」
「沙夜が一馬と良い感じになっているように、芹も沙菜と良い感じになっているんだ。AV女優だからね。俺は興味ないけど。」
「……。」
 膝から崩れ落ちそうだった。だが踏みとどまる。沙菜と芹がセックスをしていたからと言って、自分が責められる立場では無いのは自覚出来ている。
「何時くらい?」
「さぁ……十九時とか、二十時とかそれくらいじゃ無いかな。」
「そのあとに別々になったとは考えないかしら。」
「沙夜。」
「私は二人を信じてるの。そうでは無いと二人きりでこの家にずっと居ることなんか出来ない。私もあなたも今度二週間も外国にいる。今度は短い方ね。でもこれから一ヶ月、二ヶ月と居ないことだってあるかもしれない。そんなときにずっと疑えるかしら。」
 すると翔は首を横に振った。
「今まではそうかも知れない。でもこれからは……。」
「翔。お願い。信じさせて。そうじゃないと不安でやりきれなくなるから。」
 その言葉に翔はどれだけ自分が浅はかに言葉を行っていたのかと思った。そして少し頷いた。
「わかった。ごめん。でも……沙夜のその跡は……。」
「虫にでも刺されたのよ。きっと。屋台に行ったから。」
「屋台?」
「まだ居るのね。虫って。」
 そう言って沙夜は手を振りほどく。そして翔を見上げて言う。
「一馬とは何も無い。奥様に顔向けが出来ないようなことはしていないつもりよ。あなたは信じてくれないかもしれないけれど。」
 その言葉に翔は少し俯いた。
「悪かったよ。少し酔っているみたいだ。シャワーを浴びてさっぱりしてくるよ。」
「……お休み。」
「あぁ。お休み。」
 自分の部屋に戻る。そして電気を付けた沙夜は、ため息を付いた。きっとこれからも嘘をつかないといけないのだろう。そしてそれが矛ドブ費を怖いと思っている。だが辞められないと今日言ったばかりなのだ。一馬の温もりがまだ忘れられないから。
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