触れられない距離

神崎

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スイートポテト

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 谷川芙美子が指定したスタジオは、レコード会社が用意してくれたところでも格段にランクが上位のモノだった。音は響くし、小綺麗だし、広めのスタジオで普段「二藍」が練習をしているスタジオは決まっていないが、こんな所で練習はしない。
 それに来ているメンツもそうそうたるモノだった。サックスを吹いている男は、一馬がジャズバンドを組んでいたときにサックスを担当していた男が憧れにしていた男で、自分で曲を作り映画のサントラになったモノが大ヒットしている。
 弦楽器は割と年齢があっても弾けるモノだが、管楽器は肉体を使うので割と寿命が短いところがあったが、その男はまだまだソロやジャズバンドを組んでライブをすることもある。それだけ気を遣っているのだろう。
 そんなメンツの中で一馬は一番若い方だろう。すでにハードロックのイメージが付いている一馬がこの中にいるのはかなり異質に見えた。だが一馬は谷川芙美子のお気に入りなのだというのは、初めて練習に立ち会った沙夜でもわかった。
 スタジオを二人で出るともう夕方になっていて、これから沙夜は会社に戻って報告書を書かないといけない。そのあと家に帰って食事の用意をするのだろう。一馬も今日はこれから一件仕事があるが、そのあとは家に帰って息子を風呂に入れたりするのだ。
 それぞれの生活がある。いくら好きだの離れられないと言っても、家族は捨てられない。
 その考えを払拭させるように、沙夜はわざと明るい声で一馬に言う。
「谷川さんは気さくな人ね。」
「そうだな。お前はやはり気に入られたようだ。」
 沙夜の心配は無駄に終わった。最初から芙美子は沙夜を気に入っていて、事あるごとに沙夜に意見を求めていた。こういったジャンルはほとんど聞いていなかったが、基礎的なことは言えるし何より沙夜には感覚がある。それを芙美子は気に入ったのだろう。
 それに焼き菓子の詰め合わせも好印象だった。前から一馬はそうやって差し入れをしていたが、芙美子はこの焼き菓子がお気に入りなのだ。
「でも少し声が出ていなかったように思えたわ。やはり……。」
「体調は良くないのだろうな。どこが悪いとは言わないが。」
 想像は出来るが、想像の域を超えない。そして芙美子は世の中的には独身なのだ。だが実際は内縁の夫が居る。そして子供も居て孫も居るのだ。なのにも指示文が入院するとしても、きっと夫は保証人になれない。それは夫が入院しても同じ事だろう。沙夜が望む事実婚とは、そういう道なのだ。
 きっと沙夜が体調が悪くて入院する事態になっても、事実婚をしている芹は保証人になれない。いつまで経っても沙菜を頼らないといけないのだ。
「芹とは事実婚をしたいと言っていたの。」
「事実婚?」
「籍を入れない夫婦。谷川さんのように。」
「籍か。」
 そういえば一馬も奥さんにプロポーズをしたとき、奥さんは別に籍を入れなくても良いんじゃ無いかと言っていた。だがそれを考え直してくれたのは、一馬の義理の姉の説得だったと思う。
 子供が出来ていざ出産するときは入院をしないといけない。その保証人にも一馬はなれないのだと。病院によっては立ち会うことも出来ないかもしれない。結婚すると色んな手続きは面倒だが、そちらの方が二人のためだと言っていたと思う。
「ごめん。なんか……すごく今日は愚痴ってしまって。なんのために練習に行ったのかって……。」
「気にするな。そういう所も含めて、こういう関係になっているんだ。もちろん、俺の愚痴も聞いて欲しい。」
「あなたが愚痴ることなんかあるのかしら。」
「ある。うちの妻の周りのこととかな。……だが今は、それほど気にならなくなったようだ。」
「どうして?」
「お前が居てくれているから。」
 その言葉に沙夜の頬が少し赤くなる。こんな自分でも役に立っているのだと。
「嬉しい。」
 このまま連れて行きたいほど可愛い反応をしてくれる。思わず肩を抱きそうになったが、ここは公の場なのだ。どんなところですっぱ抜かれるかわからない。
「お前はこれから会社か?」
「えぇ。報告書を書くわ。あなたは?」
「一件仕事があってな。会社の近くのスタジオで、この間のレコーディングの修正らしい。」
「珍しいわね。」
「あのプロデューサーはしょっちゅうだ。あれだけ修正していると何が正しいのかわからなくなりそうだ。」
「そうね。」
「お前は決めたらあまり変えないだろう?」
「そうでも無いわ。でも修正はそこまでしない。最初のインスピレーションを大事にしているから。」
「なるほど。」
 だから思い切りが良いのだ。その辺は純に似ている。翔は熟考するタイプだからだ。レコーディングをしていてもここを変えようと言うことは結構多い。
「きっと私が会社を出る時間と、あなたが出る時間は同じくらいね。」
 スタジオでは話をした音楽は聴いたが、一馬が期待することは無かった。手を繋いでキスをするだけ。前ならそれで満足していたのかもしれない。だが今は欲張りになったようだ。
「お前は帰って食事の用意をするんだろう。」
 いつもだったら食事の用意をして、それから出て来て貰っている。電車の時間を考えればあまり遅くまでは居られない。
「今日は必要ないの。」
「え?」
 翔はソロアルバムを出したことで、企業向けのCMのオファーが多くなった。それと同時にシンセサイザーの新製品なんかが出たときのデモンストレーションをしたり、講師をしたり、曲を作る以外でもかなり忙しい。今日はその企業から声がかかり、食事へ行って来るのだという。
「芹と沙菜はわからないけれど、芹は編集室に缶詰だと言っていたしそのまま藤枝さんと食事でも行くのかしら。沙菜は仕事でパッケージの写真を撮ると言っていたわ。スタイリストさんと仲が良いみたいだし、そのまま食事へ行くのかもしれないわね。」
 つまり今日は沙夜は帰っても一人なのだ。そんな状況でも食事を作ったりするのだろうか。
「一人でも食事を作るのか?」
「一人暮らしをしていたときにはそうしていたわ。でも今は面倒ね。買って帰ってもいいし……。」
 鈍い一馬でもやっとわかった。沙夜が誘っていると。ストレートに言わないのが自分を掻き立ててくる。
「何時に終わる?」
「あなたの方が遅いと思うけれど。」
 すると一馬はバッグの中から包みを取り出す。そしてそれを沙夜に手渡した。
「いつか渡そうと思っていた。」
「何?これ。」
 そう言って沙夜はその包みの中を見る。するとそこには鍵があった。それに驚いて一馬の方を見る。
「え……。」
「スタジオの鍵だ。食事はケータリングをして俺は帰るから。」
「良いの?奥様と子供さんは?」
「仕事で遅くなる。そう言っておくから。それから……その服だが。」
「スーツ?」
「どうしてもお前というイメージが付くだろう。俺はあの場所を隠したいわけだし……。」
「わかったわ。何か見繕って着替えていくから。あなたはどうするの?」
「俺はそのままスタジオへ行っても別に問題は無い。」
 すると沙夜は口を尖らせる。その様子に一馬は少し笑った。
「スカートを履いてきてくれないか。」
「スカート?」
「ワンピースみたいな。お前はそういう格好が似合うと思う。」
 沙菜に似ている気がして本当は嫌だった。だが一馬が望むならそれでも良い。沙夜はそう思いながら、会社の近くの店を思い浮かべていた。駅の側に古着屋があった。そこで買っても良いだろう。そう思っていた自分の心が一番浮ついている気がした。
 一馬も仕事が終わったら、コンドームを買いに行こうと思う。だがダブルベースを背負ったままアダルトショップに入るのは、少し気が引ける。ドラッグストアにあれば良いが。そう思っていた一馬の心も浮ついている気がした。
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