触れられない距離

神崎

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スイートポテト

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 時間に会わせて一馬はスタジオへやってきた。沙夜はほとんど谷川芙美子の曲を聴いたことが無いと言っていたので、その音源を聴きたいと沙夜もスタジオへ来る前にここに立ち寄ると言っていた。スタジオへは電車を乗り継いで行くことになるし、手間だろう。だったら動画もあるし、音源だって会社に言えばあるのだろうが、ここへ来るという言葉に一馬は少し期待をしてしまう。
 ベッドに備え付けられている引き出しには、コンドームがある。奥さんがここへ来ることは無いし、誰にでもここの存在を教えていない。スタジオ自体を持っていることも知られていないのだ。だが誰が来るかわからないと、そのコンドームは奥の方にしまってある。パッと見た目はわからないようになっているのだ。
 箱を開けると数が少ない。無理も無いだろう。事あるごとに沙夜をここに連れてきて、セックスをしているのだから。奥さんとはそれなりにしているが、沙夜ほど頻度は高くないだろう。それに一馬は一度セックスをすると何度もするので、その度にコンドームを変えていれば少なくなるのだ。
 ここへ来る前に買えば良かったと思うが、まだ昼には早い時間にそんな店は開いていない。いっそインターネットで買うことも考えるが、さすがに履歴が残ってしまう。店舗で買うのが一番良い。
 それでも抱きたい。一度で良いからあの濡れやすい体をまた抱きたいと思う。
 その時だった。部屋のチャイムが鳴り、一馬は引き出しにコンドームをしまうとそのまま入り口へ向かう。そしてのぞき穴から向こうを見ると、沙夜の姿があった。いつも通りのスーツスタイルで、眼鏡をかけている。会社から真っ直ぐここへ来たのだろう。
 ドアを開けると、沙夜はすぐに中に入ってきた。
「悪いわね。無理を言って差し入れまで買ってきてくれて。」
「いいや。俺もコーヒーが飲みたかったし、ついでだから。」
 ベッドに置いている一馬のバッグと紙袋。紙袋は一馬の奥さんが勤める洋菓子店で買ったモノだった。一馬に連絡をしていたとき、一馬は洋菓子店でコーヒーを買っていてついでに谷川芙美子への差し入れとして焼き菓子の詰め合わせを買ってくれたのだ。
「領収書を貰えるかしら。」
「あぁ。」
 バッグを手にして、財布から領収書を取り出した。そして沙夜に手渡すと、沙夜はそれをファイルに挟み込む。経費で落ちるかと言われたら微妙だが、そこは出してみないとわからない。
 そして沙夜もバッグをベッドに置くと、一馬は沙夜のその腕を引き寄せた。もうすでに沙夜はそれに拒絶などしない。ぎゅっと抱きしめられ、少し顔を上げられると軽くキスをした。
「ずっとこうしたかった。」
 治が今は休んでいるので五人で会うことはあまり無いが、ここのところ一馬と会うときには翔が隣に居たり純が居たりして、普段通りの二人を演じないといけない。顔を合わせているのに手も繋げないのは苦痛だと思う。
「私も……。」
 このままベッドに押し倒したいが、あまり時間は無いようだ。それに昼ご飯も食べていない。食欲よりも性欲が勝つなど本当に動物のようだと思うから。
「話があるの。」
 体を離すと、沙夜は決意を込めたような表情で言う。
「どうした。飯を食べながらでも良いのか?」
 そういえばそれくらいの時間だ。沙夜はそう思って頷いた。すると一馬は折りたたまれている椅子を広げ、そして自分の分の椅子とテーブルを用意した。そのテーブルには楽譜なんかが置いてあったのでそれを避けると、ベッドの下の引き出しからシートを取り出すとその上を拭く。
「飲み物はあるか?」
「用意している。あなたのもあるわ。」
 そう言って沙夜はバッグの中からペットボトルのお茶を取り出す。すると一馬はそれを受け取ってテーブルに置くと、バッグとは別にある保冷バッグの中から弁当を取りだした。鞘も同じように保冷バッグの中から弁当箱を取り出す。二人の弁当箱の大きさは倍くらいありそうだ。
 一馬はきっと食欲は旺盛で、どんな状況でもすぐに寝れる。なのでおそらく性欲も強いのだ。そして食事は食べるよりも作る方が好きな沙夜も、ここのところ食欲が良く出て来ている。それはきっと羞恥心やプライドが沙夜の性欲の蓋を閉めていたのに、一馬がそれを開けてくれたからだろう。喜ばしいのかどうかはわからない。ただ、一馬に抱かれてから芹とは一度も寝ていない。芹はきっと抱いたら沙夜の異変に気がつくだろうか。
「今日は肉団子か。」
 一馬はそう言って沙夜の弁当の中身を見た。
「冷凍していたのよ。それを揚げてタレに絡ませただけ。」
「そういうモノは作っておくのか?」
「休みの日にあらかじめ作っておいたりするの。ひじきの煮物とかも冷凍してある。」
「そういえばうちの妻にもそう言っていたな。ほら。これはほうれん草を冷凍していたモノを卵焼きに混ぜたらしい。」
「ある程度の野菜は冷凍出来るからね。」
 そんな話をしたいわけでは無いのだろう。沙夜が先程「話がある」と言っていたその顔は迷っているような顔だったから。もしかしたらこんな関係を終わらせたいと思っているのかもしれない。そう思うと、いつもある食欲が失せるようだった。
「話とはなんだ。」
 一馬の方から切り出すと、沙夜は箸を止めて言う。
「プロポーズされた。」
 その言葉に一馬はため息を付いた。相手はきっと芹だろう。付き合っているのだし、お互い二十代後半。一馬が結婚したのも二十代ギリギリだった。奥さんは年上なので、奥さんの方は三十代だったが、それくらいが適齢期なのだろう。
「どうするんだ。」
 聞いている自分がアホのようだ。断らないわけが無いだろう。好きなのだから。それを口八丁で組み敷いたのは自分なのだ。セックスをしているときに言われた「好き」は嘘だとわかっている。
「迷っているわ。」
 その言葉に思わず一馬は驚いたように沙夜を見た。本当に迷っているのだろう。
「迷う必要があるのか。」
「あなたは結婚させたいの?」
 その言葉には止めて欲しいといわれているように感じる。だが止められない。自分は既婚者で、守るべき家族が居る。沙夜としているのは不倫なのだ。いくら奥さんが沙夜なら許せると言っていてもそんな関係を認めるわけが無い。
「……「二藍」のことを考えると、お前が結婚するとなると身動きが取りづらくなるだろうな。独身だから動けていた部分もあるし。」
「「二藍」のこと……。」
 海外へ行くこともある。今回のレコーディングは二週間と短い期間だが、本来だったら一ヶ月二ヶ月と居ることもあるのだ。一馬も治も奥さんがそれでも良いと言ってくれているが、沙夜の場合は事情が違う。夫が妻の帰りをこの国で待つ事になるのだから。
「今まで通りに動けるとは思えないし、それこそ奏太では無いにしても別の担当が必要になるだろうな。それに……それだけで迷っているわけでは無いだろう。」
「双方の家のこともあるし、今住んでいる家のことも……。」
「しかし、それは表向きの事情だろう。」
 一馬はそう言って弁当にあるインゲン豆の炒め物を箸で摘まむ。
「表向き?」
「大事なのはお前がどうしたいかだ。芹さんと結婚したいと思っているのか。」
 インゲン豆を口に入れて、沙夜の様子を見る。芹のことが好きだと言っていた。だから結婚したいと思うのは当然かもしれない。そうなればこの関係はきっと終わる。一馬の本音は結婚して欲しくなかった。
「芹のことは好きだと思う。けれど……芹は本当に結婚したいと思って言っているのかわからない。」
「は?」
 冗談でそんなことを言わないだろう。少なくとも一馬はそんなことを冗談で言ったことは無かった。
「芹には隠していることがあるのかもしれないの。」
「それは……前に言っていた、映画雑誌の?」
 朝倉すずのことだ。沙夜は何度かすずに会うことがあり、その度に嫌味の無い素直で前向きな女性だと実感させられる。それに見た目だって沙夜とは全く違う。ショートカットで小さくてきっと男が抱きしめたらすっぽりと体に収まるような人。背も高く細身で、なのに胸や尻には肉が付いている沙夜はどちらかというと嫌らしい目で見られることも多いのだ。
「芹は何でも無い関係だと言っていたけれど、何度か映画へ行ったこともあるらしくて。私はあまりそういうモノが好きじゃ無いから。」
 それに沙夜が好む映画と芹が好む映画はジャンルが違う。どちらかに寄せて映画を観ることもありその度に新たな発見があったりするが、芹はそれが苦痛なのかもしれないと思っていた。
「俺らの関係を隠しているように、芹さんも朝倉さんとの関係を隠しているとしたら、素直にプロポーズを受け入れられないだろうな。」
 すると沙夜は頷いた。そしてまた箸を動かし始める。
「食事を作るのも上手だったりしたら、芹はあの人に心変わりするかしら。それとももう心変わりしそうになっているから、自分の気持ちを抑えつけて結婚しようと言いだしたのかしら。そんな不信感があって素直に喜べないのよ。」
 自分たちもこの関係を隠している。芹だけを責められないところがあるのだ。一馬はそう思いながら、少し泣きそうになっている沙夜に言う。
「……沙夜。俺は、お前がそこまで芹さんに我慢をしているのを見て、そこまでして付き合う必要があるのかと思う。しかし、お前はそれでも芹さんを捨てられないと言っていた。それが答えなんじゃ無いのか。」
 その言葉に沙夜は頷いた。そして手元を見る。そこにはもう指輪は無かった。
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