触れられない距離

神崎

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鮭のホイル焼き

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 夜の電車にはあまり人が乗っていない。平日の夜なのだ。特別なイベントなんかは無いのだろう。
 その車内で沙夜は結んでいる髪のゴムを取った。そして眼鏡を外してケースに入れる。その姿をくらい電車の窓ガラスに映ったのを見て、沙夜は少しため息を付いた。
 この格好でK街を歩けば大体キャバクラ嬢の休みの日とか、軽い女だと言われることが多い。そういえば誠二とデートをしていた大学生のとき、誠二は幾度となく沙夜に髪をほどいて欲しいと言われた。きっと地味な女を連れ回すのが嫌だったのだろう。だが沙夜はそれをずっと拒否していた。派手に見えるし、第一髪を下ろすと沙菜に似ている感じがして嫌だ。沙菜とは双子だし似ているところもあるが、淫乱なところまで似ているといわれるのは嫌だったから。
 それなのに一馬と会うときには進んで髪を下ろす。自分だとわからないように。そしてきっと一馬も髪を下ろしているのだ。一馬だとわからないように。
 そしてアナウンスが流れて、沙夜はその駅に降りた。何度か足を踏み入れたことのある土地だが、夜のこの街に着たことは無い。駅は割とこじんまりしていてすぐに改札口にたどり着く。
 外に出ると一昔前に戻ったようなレトロな感じがした。古い町並みが売りの場所で、新しいショップよりも古着屋やレコード店などが連なり、古くからしている駄菓子屋なんかもある。
 だが今は夜でありそれらの店は閉まっていて、代わりにあるのは立ち飲みの居酒屋、紫色の光った看板があるスナックなどが開いている。風俗店もありそうだが、おそらく期待は出来ないだろう。
 そんな街にどうして一馬は呼んだのだろう。確かにK街よりは治安は良さそうに思えるので、沙夜が酔っ払いに絡まれたりすることも無いだろうがこういう街に呼んだというのが違和感しか無い。
 沙夜はそう思いながら、待ち合わせているコンビニへ向かった。そしてそのコンビニで飲み物を選んでいるときだった。
「沙夜。」
 声をかけられて振り返ると、そこには一馬の姿があった。Tシャツとジーパン姿は、いつもの一馬と変わらない。だが髪を下ろしていて一見すると一馬だとはわからない。一馬も二人で会うときにはそうしようとしているのだろう。
「あら。楽器はどうしたの?今日は仕事じゃ無かったのかしら。」
 一度家に帰って楽器を置いてここに来たのだろうか。一馬のスケジュールを思うとそんな暇は無かったように思えるが。
「置いてきたんだ。それよりも飲み物を買うか?俺も買いたいから、一緒に買おう。」
 そう言って一馬は扉を開くと、無糖の炭酸水を手にした。その答えに沙夜は不思議に思いながら、沙夜もまた同じ炭酸水を手にするとレジへ向かう。
 店員がぎょっとした目で見ていたのはおそらく、外国人とその恋人くらい思ったのだろう。こういうところでは珍しくないが、一馬がサングラスをかけているのを見てマフィアか何かと思ったのだろうか。お釣りを手渡す手が少し震えていた。
 そしてコンビニを出ると、一馬は少し笑って言う。
「連れて行きたいところがある。こっちだ。」
「言っていたわね。連れて行きたい所って何なの?」
「来ればわかる。」
 ホテルなんかでは無いのかもしれない。そう思いながら沙夜は一馬と一緒に歩き始める。
 そして一馬が連れてきたのは、スナックの裏手にある灰色の建物だった。看板があり、休憩や宿泊と書かれているがその文字は消えかけている。
「ここは?」
「元々ラブホテルみたいな所だったらしい。防音は完璧だ。」
「防音?」
 あまり高さは無いように見える。四階建てと言ったところだろう。ラブホテルにしてもこじんまりとしたところだろう。そして一馬はその中に入っていく。沙夜も少し気後れしながらその中に入っていった。
 ラブホテルであれば内装なんかを表示したパネルがあったりするのだが、それは撤去されていてがらんとしていた。受付らしい小窓は、誰も居る気配が無い。細い階段が奥にあり、そこから足音がした。
 そしてそこに現れた人に、沙夜は少し驚いた。いつか遥人と達也でデュエットをテレビの企画でしたのだ。その時にピアノを弾いていた男で、おそらくその男は沙夜のことを忘れていたのかすっと二人の前から去って外へ向かっていった。
「……何なの?ここ。」
「こっちだ。」
 相変わらず、一馬は口が少ない。沙夜を促すようにして階段を上がっていく。エレベーターはあるようだが稼働していないのだろう。
 そして一馬は階段を上っていき三階までやってくると、廊下に出た。ラブホテルのようだが、あまり部屋数は無く一階につき二つほどの部屋しか無いようだ。そのうちの奥の部屋にやってくると、入り口の鍵穴に鍵を差し込んでその中に入っていく。
 電気を付けると内装がよく見えた。ラブホテルであればベッドが大きくあるのだろうが、それはそこには無い。代わりにあるのは、見慣れた一馬の楽器やエフェクター、それにアンプのようだった。そして片隅には、機材が置いている。まるでスタジオのような作りになっていた。
「ここって……。」
「スタジオを借りた。」
「え?聞いていないわ。」
 翔は個人でスタジオを借りているが、一馬もそうしたと言うことだろうか。驚きながら沙夜はその内装を見ていた。
「個人で借りたモノだ。会社の負担にはさせない。大体倉庫みたいな感じで借りたのだし。」
「倉庫?」
「あぁ。」
 楽器や機材の他にはベッドがある。ラブホテルにあるような大きなベッドでは無く、セミダブルのベッドだった。そこに一馬は荷物を置く。
「さっきピアニストとすれ違っただろう。あのピアニストも部屋にアップライトのピアノを置いていたり、譜面をしまうのにここを借りているらしい。」
「……奥様も知っているの?」
「知ってる。」
 一馬はそう言って沙夜をベッドに座らせるように促した。沙夜も荷物を置くと、そのベッドに腰掛ける。
「倉庫やスタジオという割にはベッドが置いているのね。」
「仮眠のためだ。それから……まぁ下心はあるが。」
 下心と言われて沙夜は少し頬を染める。それは一馬も一緒だった。恥ずかしいのはお互い様で、一馬も慣れていないのだから。
「どうしてスタジオを?」
 すると一馬は先程買った炭酸水の蓋を開けて、それを一口飲んだ。そして少しため息を付く。
「今住んでいるところは妻が独身の時から借りているアパートでな。俺がそこに転がったような感じになる。一人なら持て余すくらい広いところだ。」
「そうみたいね。ファミリー向けの物件に見えたわ。」
「あぁ。しかし子供が大きくなれば個人の部屋も欲しくなるだろう。だから引っ越しをしたいと前から俺は言っていてな。ついでにK街から離れた方が良いと言ったんだ。」
「K街から?」
「生まれて育ったところだ。簡単に引っ越しは俺も考えたくは無かった。第一、俺の実家が近くて何かと助けてくれるのはありがたいが、子供のことを考えるとちょっとな。」
 確かに風俗の呼び込みが居たり、ホストやホステスがうろうろしていたり、夜遅くなれば体を売るような男や女が居るような所だ。一馬はそこで育ってもそんなモノだと思っていたくらいだが、それを息子にも求めるのはおかしいと思う。
「出来れば、あまり影響の無いような所に住んだ方が良いと思う。団地なり、貸家なりがあるだろうと思っていた。だが妻はあの土地を離れたくないらしい。」
「どうしてかしら。子供のことを考えると、そう考えるのが普通だと思うけれど。」
「あの世界が普通だと思って育った子供は、風俗やホストになるかと言ったら必ずしもそうでは無い。普通に大学へ行ってサラリーマンをしている奴もいるんだ。妻はそう言っていた。しかし妻の狙いはそれだけじゃ無い。自分の都合のためにK街に居たいと言うんだ。」
「都合のため?」
「妻が拉致されたのは人気が無い寂しい通りだったらしい。だから何処へ行っても人が居るような所では無いと怖い気持ちがどこかにあるんだ。」
「……あなたや海斗君がいても?」
「あぁ。それは真二郎がいても同じらしい。だから夜でも賑やかなK街に居たいんだ。日が出ているときは閑散としているが、明るいのでそこまで怖くないらしい。」
 まだ一馬の奥さんは過去に囚われているのだ。それは徐々に消えていくと一馬は思っていたのだろう。時が解決することもあるのだから。
 だがいつまで経ってもその呪縛から解放されない。一馬がいても、子供が居ても、そして一番近くに居る真二郎がいてもそれは変わらないのだろう。
「だからスタジオを?」
「純ほどでは無いが、ベースも機材も増えてきた。貸倉庫を借りることも考えたが、どうせだったらスタジオを借りようと思ってな。だからほとんど俺の都合だ。会社に言う必要も無い。頼まれている録音もここからすることも出来るし、それに……。」
 一馬はそう言って沙夜の顔にかかっている髪を指で避けた。その行動に沙夜はビクッと体を震わせる。そして一馬の方を向いた。すると一馬も少し笑うと、沙夜の方へ顔を近づける。
「やっと何も考えずにキスが出来る。嬉しい。」
「えぇ……私も嬉しいわ。」
 すると一馬はそのまま沙夜の唇にキスをする。軽く触れたあと、一馬の腕が沙夜の体を包む。そして沙夜もまた一馬の体に手を伸ばした。
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