触れられない距離

神崎

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鮭のホイル焼き

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 K街の外れにある音楽スタジオは、ロックバンドなんかが練習するスタジオばかりでクラシックの練習が出来ない人のために作られたモノで、その狙いは当たったと言える。ピアノを置いているスタジオは二つ。アップライトと言われるピアノを置いているが、ここの部屋は割と取れないことも多い。それに他の部屋よりは少し割高なのだ。
 それでも沙夜はたまにここに来てピアノを弾いているらしい。気の向くまま思いのままにピアノを弾くのが楽しいのだという。
 だが今日は遥人の指導に当たっている。奏太が指導するよりもおそらく教え方は上手いと思う。全くピアノを弾いたことが無いわけでは無い遥人も思い出しながら惹いているので、沙夜も楽な気持ちで指導をしていた。
「うん。もうソロの所は良いと思うわ。」
「でもそれ以外がもたつくよな。テンポは変えられないし。」
「あとは慣れね。」
 プリントして置いた楽譜は、翔が作曲、編曲したモノで、それは沙夜も口を出している。所々で沙夜が好きなアレンジにしているのだ。
「転調するじゃん。ここ。」
 そう言って遥人は楽譜を指さす。すると沙夜は少し笑って言った。
「ピアノで転調って一番楽じゃ無いかしら。」
「沙夜さんらしいところだよな。」
 そう言われて少し笑う。そして壁に掛けられている時計を見ると、沙夜はポケットに入っている携帯電話を取りだした。
「そろそろ時間ね。二時間だし。」
「沙夜さん。今日は飲みに行くっていう言い訳でもする?」
 楽譜をファイルにしまいながら、遥人はそう聞くと沙夜は首を縦に振った。
「そうね。なんか……連れて行きたいところがあるとか。」
 遥人は全てを知っていて、それを応援している節がある。それには違和感があるが、今はそんなことを考えても仕方が無い。
「ばれないようにしないとね。」
 一馬は家庭しか見ていない。その文書を言ったばかりだ。なのに沙夜と不倫をしている事がばれたりしたら、大変な目に遭うだろう。一馬は奥さんと子供を失いかねないし、「二藍」からも去らないといけないだろう。沙夜もただでは済まない。それがわかっていて続けているのだ。どんな事情があるにしてもよっぽどの覚悟とそれだけお互いが想い合っているのかも知れない。それを遥人も治も止めらら無かったのだ。
「そうね。」
 今日は意地でも一緒に行きたいところがあると言って一馬は聞かなかった。何をそんなに連れて行きたいところがあるというのだろう。不思議には思ったが、それ以上に期待も膨らんでいる。
 いつもの格好とは違う膝丈のチュニックなんかを着ていて、沙夜らしくないと思うがそうやって自分のイメージを変えないと外では会えないのだから。
「鍵盤を拭いてね。」
「うん。」
 ピアノも手入れが必要で調律なんかは業者がするモノだが、最低限のことは自分でしなければいけない。面倒だが、使ったモノのマナーだろう。
 あとで掃除が入るのだろうが、軽く自分たちで床にモップをかけて外に出て行く。受付で料金を払い、外に出るとK街らしい明かりが向こうに見える。
「K街ってのは少し危険だよな。」
「そう?一馬はこの辺に住んでいるから、何も言われないと思うけど。」
「マスコミもそれを知っているから、一馬が連日K街で遊んでいるなんていう記事は載らないと思う。けど沙夜さんはしょっちゅうここに来てると、どうしても会社の方に問い合わせが来ると思うよ。K街で副業をしているんですかとか。」
「副業って……。」
 この場合、おそらく普通に居酒屋でバイトをしているとかでは無い。風俗なんかで働いていると言われかねないだろう。
「沙夜さんはファンの間では「オカン」って言われているの知ってる?」
「えぇ。子供も居ないのにお母さんって言う意味で言われてもね。」
「その世話好きがそう言わせているんだよ。悪いことでは無いと思うし、ファンだって本気じゃ無いよ。」
 遥人はそう言って少し笑っていた。だがすぐに真顔になる。
「「二藍」の知名度が上がると共に沙夜さんもそう言われているとなると、沙夜さんだって一介の会社員っていう感じでは無くなってきている。沙夜さんは「二藍」の担当になって長いしね。」
「そうね……。」
 普通のファンであれば、そんなことを気にしないだろう。だが熱狂的でファンクラブに入っているような人は、沙夜が側にいるのをずっと気にしているのだ。そして沙夜が五人を銜え込んでいるという噂を鵜呑みにしている。
 五人は一部しか知らないだろうが、沙夜の元には割と嫉妬した女からDMなんかが届くこともある。沙夜自身はSNSをしていないが、「二藍」のSNSを管理しているのが沙夜だと知っているファンから嫌がらせのようなメッセージが届くのだ。
 気にする必要は無いと思っていたが、奏太や裕太からはそういうメッセージを発信した相手はブロックするように告げられている。二人はもう沙夜を「二藍」の六人目のメンバーだという意識があるようなのだ。
「俺らは恋愛感情なんかは無くても、沙夜さんが居ないと困るんだ。離れてしまうようなことは辞めて欲しいと思うけどね。」
 沙夜と一馬がしていることを本当は応援したくないと思っているのだろう。それがわかって沙夜は少し暗くなるようだった。
「ごめんなさいね。栗山さん。」
「良いよ。止められないことだってのはわかってる。止められるならとっくに止めてるよ。事情だってわかるしさ。」
「……。」
「沙夜さんも芹さんが嫌になったわけじゃ無いだろ?」
「好きよ。でも……。」
 芹はまだ紫乃に縛られている。それが沙夜にとって違和感なのだ。そして将来が見えない。だが一馬といても沙夜にはその将来は見えなかった。
「きっと……芹と一緒になっても芹には一馬の奥さんと同じような状況にさせてしまうと思うの。」
「え?」
 行き交う人がちらっと遥人を見た気がした。話に夢中で帽子をかぶるのを忘れていたか。そう思って遥人はバッグから帽子とストールを取り出した。遥人特有の首元の入れ墨を隠すためだった。
「私は仕事が好きよ。「二藍」が好き。だから「二藍」のためには何でもしようと思った。「夜」として活動を始めたのもそのため。」
「……。」
「これから「二藍」の名前は益々大きくなる。レコーディングをしてツアーをして、大きなフェスに呼ばれることもある。その度に、私も付いて行くわ。家に帰れる時間も少なくなるかも知れない。芹はその間にも家で一人で仕事をしているのよ。たまには取材だって出掛けることもあるし、出版社に出掛けることもあると思うけれど、私ほどじゃない。寂しい思いをさせるわ。」
 一馬の奥さんがその状況なのだ。仕事に出掛けて、子育てをして、家で帰ってくるかわからない一馬の食事を用意する。
「……俺の母親はさ。舞台女優だったんだ。」
「えぇ。知っているわ。」
「有名だもんな。父親とはおしどり夫婦で。」
 仮面をかぶったような夫婦だったがそれはそれで形になっていたし、自分の子供では無いとはっきりわかっていても父親は父親の役割をしていたように思える。
 遥人も兄も生意気なことをいえば、父親から殴られることもあったのだ。それをカバーするのは母親だったし、母親もヒステリックになることがあった。それをカバーするのは父親だった。理想的な夫婦だと思う。互いに愛人がいるだけで。
「俺が小学校に入って、そうだな……高学年くらいまでは、母親は夕方になると絶対家に帰っていたんだ。父親も可能であれば、夕食を囲むこともあったし。それが普通の家族だと思ってた。」
「お互いに仕事をしていたらそんなモノじゃ無いのかしら。」
「でも父親の実家に帰ったときにはっきりうちは違うって思った。女は家を守って、男は外で働いて、子育ては女の役目って感じでさ。外で働いていた母親だって実家に帰った時にはそれに習っていた。でも……俺はそっちの方が違和感があったよ。」
「違和感?」
「何で女が男をもてなさないといけないんだろうって。男が飲む酒なんだから、ビールくらい男が取りに行けよって思ってた。つまみだってピーナツくらい自分で出せよって。」
「……。」
「芹さんとは将来が見えないかも知れないけれど、もし上手くいって結婚しても重要なのは芹さんがそれを苦痛に思うか、思わないかだと思うよ。ただ……俺は芹さんが沙夜さんに自分のために仕事を辞めてくれなんていう馬鹿だったら、別れさせるけどね。それで沙夜さんは翔と一緒になれば良いよ。」
「翔とはならないわ。」
「全然眼中に無いんだ。可愛そうだなぁ。翔は。翔なら一馬と何かあったっていっても許しそうなんだけどな。」
 遥人はそういって少し笑っていた。そして二人は駅に着くと、遥人と共に改札口をくぐる。そしてそのまま違う路線の電車に乗った。
 一馬との待ち合わせは、沙夜があまり馴染みの無い街だったのだ。
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