触れられない距離

神崎

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鶏ハム

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 鍋に水を張り、その中に塩、生姜のスライス、白ネギの緑色の所、酒なんかを入れて火にかける。そして胸肉には箸を立てて少し穴を開けた。
「鶏ハムって言うから燻製でもするのかと思ったよ。」
 芹はそう言って胸肉に穴を開けていた。その間沙夜はキャベツをざく切りにしていた。ピーマンと共に油通しした厚揚げと味噌炒めにするのだ。
「燻製機は無いけれど、これも美味しいのよ。一石二鳥だし。」
 帰ってきた沙夜は少し元気が無さそうに見えた。急に抱きしめてきたり、温もりが欲しいなどと言う女では無いのに、急にそんなことをすると何かあったのかと思う。
「あとはサラダを作りたいな。アボガドをおまけしてくれたんだ。」
「うん。」
「ドレッシング買ってきてくれてるし、これで和えようかな。」
 沙夜は割と直感で食事を作ってくれる。今日は鶏ハムにしようと思っていたので、その副菜は冷蔵庫であるモノを利用するのだろう。
「そう言えばさ。翔の弟が不倫していた女優だけど。」
「えぇ。帰りの電光掲示板で見たわ。」
 自殺未遂をしたのだという。不倫の代償としての世間の風は冷たかったらしい。手首を切って出血をしている所をマネージャーに発見されたのだ。
「翔は何て言ってた?」
「さぁ……翔のところから帰る時に私もニュースを見ただけだから。」
「そっか。でも相変わらず翔の弟のことは出ないんだな。」
「そうね。出したら事務所の首も絞まるからかも知れないけれど……それにしても、無責任ね。その男も。」
「その上事務所が守ってるんだろう。」
「真実を露呈させたくないから。」
 慎吾は売春の斡旋をしている。だから事務所もよっぽどのことが無い限り、慎吾を切れないのだ。
 小皿に味噌、醤油、砂糖、酒を入れていったん混ぜておく。そしてフライパンを取り出すとそれを温め始める。
「お湯が沸いたわ。胸肉を入れてくれない?」
「うん。」
 胸肉をお湯の中に入れる。そして蓋をして少し沸騰させたあと、火を止めた。こうやってじっくり胸肉に火を通すのだ。
「この汁も利用するんだろう。」
「もちろん。この汁も美味しいのよ。」
 豆腐と味噌で植物性のタンパク質。鶏胸肉で動物性のタンパク質。まるで体を作る人が食べるような食事だと思った。
「俺も不倫はしてたけどさ。」
「不倫というか浮気ね。結婚はしていなかったのでしょう?」
「そのあとに結婚の話が出たから正確にはそうかもな。」
 両親の所へ行ってもいつもその話はしない。もう触れないようにしているのだろう。それくらい両親も複雑な感情があったのだ。
 芹が騙されたこともわかっているが、だからといって裕太夫婦を責められない。どちらも大事な子供だからだ。
「お金を払ったと言っていたわね。」
「金で解決が出来るんだったらそれで良いけど、多分あっちは足りないとかそういういちゃもんを付けようと思ってるんだよな。だから俺を探してる。幸せに暮らしているのが耐えられないんだ。」
「……。」
「でも、借金があるのは俺のせいじゃないし、金が無いと幸せじゃ無いって価値観もよく理解出来ない。」
「……ある程度の蓄えってのは必要なのよね。もし、私が病気なんかをして、入院をするとするわ。手術をしないといけない、入院生活が長くなるかも知れないとなると、保険の適応もあるし、高額医療制度もあるかもしれないけれど、その医療費は何百万に膨れ上がる。それで助かれば良いけれど、助からなければ更にお金がかかるのよ。そういった意味では蓄えってのは凄く必要だわ。」
「病気にならないヤツの考えかな。俺の考えは。」
「生きていれば怪我、病気ってのはならないとは言えない。だけどそれ以上の蓄えは必要ないわね。」
 ピーマンとキャベツを温まったフライパンに入れ、炒めていく。そして塩こしょうをしたあと切った厚揚げを加えた。芹はその間トマトやキュウリを切っていっている。サラダにするためなのだ。
「俺だって蓄えは少しずつだけど貯まっててさ。」
「それは良かったわ。何事があるかわからないからちゃんと蓄えておかないと駄目よ。」
「結婚資金にしたいんだ。」
「……。」
 すると沙夜は咳払いをする。芹がそこまで考えていたと思ってなかったからだ。
「チャペルと神前はどっちが良い?」
「式を挙げる前に、ここを出ないとね。」
「同棲する?」
「……。」
 そう考えるとかなり不安だ。翔と沙菜しかいなくなり、まるでここが翔と沙菜の同棲の場になりそうな気がする。二人きりだと沙菜は何をするかわからないのだから。
「って不安か。お前のことだから。」
「ごめん。」
「謝らなくても良いよ。俺だってまだ金はそこまで貯まってないし。」
 味噌だれを入れて、フライパンの中の具材を馴染ませる。美味しそうな匂いが立ちこめてきた。
「ただいまぁ。美味しそうな匂いがするね。」
 沙菜が帰ってきたらしい。沙菜は無邪気に台所の方へ駆け寄ってきた。
「味噌だれだからな。」
「ねぇ、今日って翔が帰ってくるでしょ?これ。買ってきたの。あとで剥いて。」
 そう言って沙菜は手に持っているビニール袋の中身を見せる。そこにはピンク色の桃があった。
「桃?」
「美味しそうでしょ?桃って今シーズンなんだね。」
「そうよ。桃は翔が好物なの。あとで剥こうか。」
「やった。」
「俺、スイカの方が良いな。明日はスイカにしようぜ。」
「あなたが買ってくるんだったらそうすれば良いわ。」
「今年こそスイカの皮で漬物を作ってよ。」
「どうやって作るのかしら。話には聞いたことがあるけれど。」
「親に聞いてみておくよ。」
「そうね。」
 両親とは普通の会話も出来るようになったらしい。沙夜は少しほっとしながらフライパンの火を止めた。そしてタイマーを見るとまだ少し時間があるようだ。
「まだ時間があるわね。何かもう一品軽く作ろうかな。」
「十分じゃん。サラダと、味噌炒めと、鶏ハムと、汁物。別に良いと思うけど。」
「でもなんかねぇ……。」
 すると沙菜が少し笑って言う。
「やだ。翔が帰ってくるからって、姉さん張り切ってるわ。」
 沙菜の言葉に芹がむっとしたように言う。
「昼にも弁当を差し入れたんだよ。別に普通だったけど。」
「あれ、普通に見えたの?」
 沙夜は驚いたように芹に言うと、芹は目を丸くして言う。
「え?普通だったじゃん。」
「ボロボロで、普段の翔とは全く違うじゃ無い。「二藍」の翔は王子様なのよ。」
「王子って……。ははっ。何の王子かなぁ。」
「鍵盤の王子様ね。」
 沙菜は不思議そうな顔をしていた。普段の翔と何が違うのだろう。確かに普段は身なりに気をつけないタイプだがそれよりも酷いのだろうか。
 沙夜は布巾を洗いダイニングテーブルを拭こうとした。その時携帯電話にメッセージが届く。それを開くと、ため息を付いた。
「どうしたの?」
 沙菜がそう聞くと、沙夜はその画面を閉じてテーブルを拭く。そしてちらっと手を見た。
「あぁ……。ちょっと仕事のことでね。このあと少し出ないといけないわ。みんなは先にお風呂に入っておいてくれないかしら。」
「大変だねぇ。わかった。」
 テーブルを拭き終えて、皿に盛られた味噌炒めを手にする。その時、芹が声をかけた。
「仕事?」
「そうよ。」
「珍しいよな。家に帰ったらもう仕事はしないって言ってたのに。急用?」
「えぇ。」
 仕事の内容はあまり言えないのが幸いだった。本当は仕事なんかでは無い。それが都合が良かった。そう思いながら皿をテーブルに並べる。
 その時翔の声がした。
「ただいま。良い匂いだね。」
 その姿を見て沙菜が愕然とする。そして翔に開口一番言った。
「お風呂に入ったら良いよ。ね?翔。凄いなんか……ボロボロだから。」
「え?」
「浮浪者かと思うくらいよ。ここに帰ってきてない二,三日、お風呂に入ったの?」
「入ってないよ。トイレの所に手洗い場があるから、そこで歯だけは磨いたけど。」
「わっ。シャツにシミも付いてるじゃん。芹がこっちに来た時みたいだよ。」
 その言葉に芹も苦笑いをした。こんなに酷かったのかと思いながら。
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