触れられない距離

神崎

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鶏ハム

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 スタジオを出ると、もう辺りは暗くなっている。芹に買い物を頼んでおいて良かった。最近芹は商店街の中でもだんだん顔が知られている。特に八百屋の女将さんからはとても気に入られているようで、トマトの一つ、タマネギの一つをおまけしてくれるのだ。
 そう言えばスイカの美味しい季節だ。明日は早く帰れるならスイカを買っておいても良いだろう。芹の好物の一つなのは、芹の実家に行った時にわかった。芹が帰ってくるとわかっていて、芹の母が用意してくれていたのだから。
「翔の好きなモノって何だ。」
 一馬はそう聞くと、沙夜は少し笑って言う。
「さっきも言ったけれど、翔は鶏肉が好きなのよ。親子丼や唐揚げなんかも好きだけど、さっぱりした物が好きでね。」
「なるほど。」
 暑い日が続いているのだ。さっぱりしたモノを口にしたいというのは何となくわかる気がする。
「鶏ハムを作ろうと思ってて、芹に鶏の胸肉を買ってきて貰ったわ。」
「胸か。ダイエット食のようだ。」
「工夫によっては美味しく食べられるわ。ダイエットをしていても、無理をすることは無いと思うから。」
「お前はこれ以上痩せない方が良いと思うけどな。」
「そう?」
「女は触った時に柔らかいくらいがちょうど良い。」
「それはあなたの好みね。」
 沙夜はそう言うと、一馬は頭をかいて言う。
「俺はあまりそういったことは興味が無くてな。」
「芹もそう言っていたわ。初恋は大学生の頃だと言っていたし。」
「俺は高校生くらいだった。」
「知ってる。鈴子さんね。」
 そう言えば会ったことがあったのだ。今は人妻で、しかもヤクザの姐さんをしているという。子供も二人居て、小学生くらいの子供がいるらしい。
「大学生くらいになるまでは手を出さなかった。高校生くらいで子供が出来たと言われても責任は取れないし。せめて成人するまではと思ってた。」
「コンドームだって百パーセントの避妊とはいかないみたいね。沙菜が言っていたわ。性病を防ぐことは出来るかも知れないけれど、それでも出来る人もいると言っていたわ。そう考えるとあなたの行動は正しいのかも知れない。」
「芹さんは毎回付けるのか。」
「やだ。そんなことまで言わないといけないかしら。」
 そう言って沙夜は少し笑う。そんなことまで一馬に言いたくなかった。
「手加減をしてくれるか?」
「そうかもね。私はあまり経験が無い方だけど、芹はそれなりにあるみたいでリードをしてくれているし。」
「満足出来ているのか。」
「一馬。もう辞めて。その話。」
 どんな拷問だろう。他人に自分の性癖を語るなんて。だが一馬の表情はあまり変わらない。そういう会話を「二藍」の中でしているのをたまには聞くが、沙夜に対しては聞いたことが無い。
「……お前は前にレイプをされるように初めてを奪われたと言っていた。それが怖いとは思わないのだろうかと思ってな。うちの奥さんは、とても怖がっていたから。」
 なるほどそういう意味だったのか。奥さんもそういう目に遭ったことがあるらしい。だから一馬はいつも恐る恐る手を出しているといっていたのだが、奥さんにそんなに緊張をしなくても良いと言われてそれからはどうなったのかはわからない。
「そうね……。芹は嫌だと言えば辞めてくれるし、今日は気分じゃ無いと言えば大人しく家に帰るわ。その辺は大人なのかしら。」
「大人ね……。」
 それが優しさだと思っているのか。自分の欲望を抑えて沙夜の希望を優先させるのが優しさなのだろうか。自分の希望はどうなるのだろう。自分のしたいことをどうして沙夜に言えないのだろうか。
「あなたはどうなの?前に奥様から言われたんでしょう?恐る恐る手を出さなくても良いと。」
「……どうしても、不信感が先に来てな。」
「不信感?」
 その言葉に沙夜は驚いたように一馬を見上げる。
「ピルを飲んでいたと言っていただろう。元々子供が欲しいと思ってしていたことだし、それは……まぁ、作る目的では無くてもしていたことだし、婚前交渉だってしていた。だが……何となく手を出しづらいというか。」
「意識してしまうのかしら。」
「あぁ。」
 夫婦の不信感というのはこういうところから来るのかもしれない。それに奥さんも悩んでいるようだった。この間話をした時に、一馬は確かに文句の無い父親ではあるようだが、それとは別に幼なじみの存在が大きいように思えた。
 沙夜もよく知っているパティシエの男で、今の洋菓子店が出来る前も喫茶店で二人で働いていたらしい。仕事も私生活も全てにおいて、信頼出来る人なのだ。だが二人の間には何も無い。それはきっと沙夜と一馬の関係によく似ているように思えた。
「確かにそれだけが夫婦の形では無いのかもしれないけれど、それは少し奥様に遠慮しているとは言えないかしら。」
「疲れたのかも知れないな。俺も……。」
「珍しく弱気ね。」
「沙夜……。今日……。」
 街にある電光掲示板に、ニュースが映し出された。その話題に街ゆく人達が一喜一憂することが多いが、その話題に色めき立った。
「あの女優が自殺未遂ですって。」
「マジか。不倫の果てにだろ。」
 そんな話題にも沙夜達は目もくれなかった。そして沙夜は我に返ると首を横に振る。そして一馬を見上げて言った。
「冗談は止して。帰りましょう。子供さんを迎えに行くんでしょう?今日は。」
 すると一馬は首を横に振る。そして沙夜の手を取った。
「K街に来てくれないか。」
「いや。」
「沙夜。」
「しっかりしてよ。一馬。」
 手を離して沙夜は一馬を見上げる。
「外で咲良ちゃんと話をしていただけで女に手が早い人と噂をされたのよ。何を考えているの。そんな噂を立てられているのに会えるわけ無いでしょう。」
 沙夜の目が少し涙ぐんでいた。そして一馬に背を向ける。
「帰りましょう。こんな所で話なんかしたら……。」
 お互いに想い合っている。そんなことはわかっているのに、この繋いだ手は離さないといけないのだ。
 触れたくても触れられない距離がある。それが二人の距離だった。

 家に帰ってきた沙夜は、キッチンの冷蔵庫を開いてごそごそと野菜を入れている芹の姿を見た。買い物から帰ってきたのは先程だったらしい。
「ただいま。」
「お、お帰り。あのさ。胸肉って二枚で良いの?それからや親の女将さんがトマトをおまけしてくれたんだ。」
 芹は嬉しそうに冷蔵庫をに食材を入れている。その様子に、沙夜は少し泣きそうになった。芹がこうやって手伝ってくれている。大事な同居人で、恋人で、大切な人なのだ。わかっている。裏切りたくなかった。
 沙夜はバッグをソファーに置くと、キッチンにやってくる。そして食材を入れている芹の側に行くと、その背中に体を寄せた。
「沙夜?」
 こんなことをしてくる沙夜を初めて見た。背中から芹を抱きしめてきている。靴を見てまだ沙菜も翔も帰ってきていないのはわかっているのだが、不用意なことを沙夜はしたくないとそんなことをしてきたことは無いのに。
「沙夜。どうしたんだ。辛いことでもあったか?」
「ううん……。芹の温もりが欲しかったの。」
「おかしいヤツだな。今朝も会ったし、その前だって……。」
「おかしいよね。でも今欲しくて。」
 一馬は今日、家に帰る前に実家によって息子を迎えに行く。帰っても奥さんはいないはずだ。抱きしめたい相手は、まだ家にいないのだと思うとあのまま付いて行った方が良かったのだろうかとさえ思えてくる。
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