触れられない距離

神崎

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鶏ハム

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 何よりも妻と子供を大事にしていることは、沙夜が一馬の家に泊まった時に感じたことだ。普段は見せないような顔をしていて、表情も僅かに豊かだ。当初、奥さんが一馬に子供の目線で話をしないのを気にしていたようだが、実際に子供を目の前にするとそれはあまり感じない。子供が興味があるモノに、自分が興味が無くても付き合うこともあるし、子供の意思を尊重している。それは奥さんに対してもそうだった。それが一馬が何よりも家庭を大事にしている証拠だと思う。
 そんな一馬がアイドルのライブでファンの女の子をつまみ食いするような真似をするわけが無い。何より一馬自身に信頼があるのだ。
「心当たりって無いの?」
 翔の言葉に沙夜は驚いたように翔を見た。
「あなたは一馬を疑っているの?」
 すると翔は手を振って言う。
「そうじゃないよ。ただ、そういう噂は根も葉もないことをいい加減にいうのを、あの事務所が黙って見ているはずが無いと思うんだ。しっかりした大手の事務所だし、スタッフなんかもそれなりの人が多い。曲を提供した時に思ったよ。顔だけが良い所何て言われたくないという姿勢が見える。そんなにしっかりした所だったら、そんなに根も葉もないことをいうかなと思っただけ。」
 それに一馬は奥さん一筋に見えるが、最近は沙夜にも惹かれているような気がする。形だけのモノだと言っている割には、沙夜をずっと気にしているような節が見えていたのだ。
「……一度、芹さんの妹に会場で会ったことがあるな。」
「妹って言うと咲良ちゃんのこと?」
 春ほどにあったイベントに出演した時だった。時間があったので、ベースを抱えたまま息子のお土産でも買ってやろうかと、イベントで出店している手作りのおもちゃを見ていた時、声をかけられたのが咲良だった。
 咲良とは面識があり、咲良も専門学校で地方へ行く前に友人同士とそういうイベントに参加をしていたのだった。
 そこで軽く話をしておもちゃのアドバイスをされたあと、リハーサルに戻ったのだという。それを見られたのだろうか。
「それはうかつだったわね。」
「そんなに話はしていないはずだったが。まさかそれを見て女に手を出していると思われたのか。」
 すると翔はため息を付いて言う。
「何を見られて女に手を出しているなんていわれるかわからないな。俺も気をつけないと。」
「沙菜に外で会っても、話しかけたりしないでよ。」
「わかってる。」
「一馬もよ。」
「あぁ。」
 事実はゆがめられて噂を立てられるモノだが、軽く女性と話すだけでそこまで言われるのは不本意だ。
「それでもおかしいよね。」
 翔はそう言うと、沙夜は首をかしげて言う。
「どうして?」
「そういう噂を立てられているのに、どうしてその事務所は一馬を呼ぼうと思っているのかな。本当にそういう噂が立っているんだったら、トラブルの元になるのは目に見えている。だったら、断るのは事務所の方だと思うんだ。」
「……そうね。それは不自然だわ。」
 モヤモヤするようだ。どう考えても一馬を陥れようとしているようにしか見えない。大手の事務所だからそうしようとしているのだろうか。
「俺はスタジオミュージシャンのようなことをずっとしていたのだが、あぁいう世界は、代わりはいくらでもいる。俺では無ければいけないと言うことは無いと思うんだが。」
「いつも担当しているのは女性だったわね。」
 仕事の依頼は沙夜の所にいったん来て、それからそれぞれに依頼をするのだ。そこでそれぞれが受けたい、受けたくないというのを決める。もっとも遥人はそれを芸能事務所と連携しながらしているので、全てを管理しているわけでは無い。
 当然、一馬の依頼も沙夜に依頼してくる。その事務所の人はいつもの人で、沙夜の母親ほどの年齢の人だった。気が強い人で、沙夜はいつもはいはいと聞いているだけだった。それくらいパワーのある人なのだ。
「あの人だったら尚更俺を起用しようとは思わないだろうに。」
「……それも不自然で、実はもっと噂もあって。」
「まだ何かあるの?」
 沙夜は呆れたように一馬の方を見る。
「その担当の女性と俺が寝ているという噂もあるらしい。」
「それはどこから出てきたことなの?」
 確かに一馬の奥さんは年上だが、それは一つ、二つくらいの差であり、そこまで年齢差があるわけでは無い。だからそこまで年上の女性に手を出すわけが無いと思ったのだ。
「遥人がそういう噂を聞いたと言っていた。」
「咲良ちゃんと話をしていたというのも遥人から?」
 翔が聞くと、一馬は頷いた。
「遥人か……。あいつもゴシップ好きだしな。噂で踊らされているのか。」
 頭を抱えていた翔に、沙夜は首を横に振った。
「噂とは言い切れない。栗山さんはまだアイドルだった頃のメンバーと繋がりがあると言っていたわ。その内状も聞いているのかもしれない。元々、栗山さんからはあの事務所の言い噂はあまり聞いたことが無いの。だからあなたにもそう言っている可能性もあるし、本当にそう言われていることも考えられる。」
「……。」
「先に栗山さんに話を聞きましょう。それから相手の事務所にも少し話をするわ。」
「ダイレクトに聞かないでよ。」
 翔はそう言うと、沙夜は頷いた。
「どちらにしても一馬は、もうあまりこういう仕事は出来ないと思うの。」
 すると一馬は沙夜の方を向いて言う。
「スタジオミュージシャンはもう出来ないか?」
 沙夜はその言葉に首を横に振る。
「出来ないことは無いと思うの。だけどもう「二藍」の名前が大きくなりすぎている所もあってね。あなたを起用しようとすればそれだけお金が多くかかると言えるの。当然、スタジオミュージシャンと言うよりもゲスト扱いになるし、アイドルが歌って踊っている裏で細々とベースを弾いたりするのは出来ないかも知れない。音源にしても名前をクレジットされるでしょう。これからはアイドルの歌の影に隠れた一ミュージシャンというわけにはいかない。」
「とすると……どうするんだ。俺だって生活はあって……。」
「細かい仕事が出来なくなると言う事よ。あなたの名前が表に出ると思う。例えばジャズのライブの仕事が来るとして、その中にあなたの名前がポスターに載る。お客様はそれを見て、行きたいと思うでしょう。」
「俺の名前だけでそんなことに……。」
「なるのよ。もう「二藍」はそういう位置にいるの。海外のフェスに出て、今度のアルバムは海外のプロデューサーが手がけることも決定している。自分の器を知った方が良いとあなたはいつも言っているけれど、そういう意味でも知っておいた方が良いのよ。もう自分がただのベーシストでは無いことを自覚して欲しい。それと共に、そんな噂も立てられることは想定内と思ってくれなければいけない。もちろんこちらでも手は打つけれど、そういう軽率な行動は避けて欲しい。」
 厳しい言葉だと思った。それだけ一馬の自覚が無かったのを、沙夜もイライラしていたのかも知れない。
「わかった。」
 言葉少なめに、一馬はそう応えて拳をぎゅっと握る。望んで入った道だったが、ここまで自由が無いものなのかと思っていたのだ。
「一馬は少し隙があるのも悪いよな。」
 翔はそう言うと、一馬は驚いたように翔を見る。
「隙?」
「あぁ。そりゃ、何も無く平凡な「二藍」のメンバーなんかいないよ。俺だって、うつ病寸前だったり、女と別れたり……したこともあるけど。」
 肝心なことは言えなかった。だが今はそんな事を言う場では無いのだ。
「そうね……。そういった意味ではちょっと隙が多いのかしら。でも深くは突っ込めないと私は思うけどね。」
「そう?」
 翔は何も気がついていないんだろう。一馬が平凡にK町で育ってきたと思っていたら間違いなのだ。そして未だにK町に住んでいるのも理由があってのことだと、翔は何もわかっていないのだ。
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