触れられない距離

神崎

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ロシアンティー

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 一馬と翔が仕事へ行くと言って出ていったあと、沙夜は冷蔵庫をごそごそとあたっていた。早速料理でもしようと思っているのだろう。
「沙夜。」
 芹が声をかけて、沙夜は振り向いた。
「どうしたの。」
「悪かったよ。誤解させるようなことをして。」
「昨日帰っていたら別れていたわね。でも……冷静になれたわ。」
 沙夜はそういうとなすやトマトを出す。そしてエプロンを身につけた。
「何か作るのか。」
「ラタトゥイユでも作っておいて、夜に食べましょう。煮込み料理だから日持ちもするし、あとは天ぷらを揚げて、汁物を作れば良いわ。」
「手伝おうか。」
「良いわ。簡単に仕込むだけだから。煮込んで、覚ましておけば味が染みるし、夏野菜は美味しいわね。」
「あっちでも何か美味しいモノがあったか。」
「あちらの方はあまり味付けをしないのね。その代わり塩やビネガーなんかを置いておいて、自分好みに味付けをするの。濃い味、薄い味の好みがあるのだからお好きにして欲しいといった感じね。」
「こっちの方は作ったヤツの好みになるんだろうな。」
「そうね。決まっているみたい。夕べの食事は美味しかったかしら。」
「正直、味はあまり覚えていないよ。」
 そう行って芹は頭を掻いた。
「え?辰雄さんのところの親戚がしている所だったんでしょう?」
「だけど、あの話題を持ち出されてさ。正直何食ったか。」
 すると沙夜は少し笑う。芹らしいと思ったからだ。
「何だよ。」
「いいえ。あなたらしいと思ってね。思い込んだら周りが見えなくなるの。だから、紫乃さんもまだ吹っ切れていないのね。」
「紫乃は……。」
 逃げているという言葉が、心に染みた。確かにその通りだったから。いつかは対峙しないといけない。だがその勇気がまだ無かった。
「今日さ。」
「何?」
「実家に行かないか。」
「誰の?」
「俺の。」
 すると沙夜は驚いたように芹を見る。
「実家って……。」
「家族はまともだよ。兄だけがまともじゃ無いだけだ。咲良も今日帰ってくると言っていたし。」
「そんな時期なのね。」
 カレンダーを見るとそろそろお盆時期だ。本来なら実家に帰るのだろうが、それは沙菜に任せよう。
「お土産をもって言った方が良いわね。ちょうど、いくつかお菓子を買っているし、それを持っていきましょうか。」
「それからさ。そこからタワーが近いんだ。登りたくないか。」
「あのタワー?」
 誠二と登ったことがあるが、そのことを思い出して沙夜はそれを払拭させる。
「良いわね。」
「向こうでは観光はしなかったのか。」
「名所なんかには行かなかったわ。でも駅の方へは行ったわね。有名な推理小説の主人公がオフィスにしている建物を再現したモノなんかがあって。」
 それは一馬と見たのだ。それが少し心が痛いと思う。
「今度は連れて行って。というか……一緒に行くか。仕事抜きで。」
「そうね。」
 いつになるのかわからない。だが、ぼんやりした未来が少し見えるような気がした。

 電車に乗っていた一馬と翔は、ひそひそと周りの女性達から噂を立てられているように見える。だが本人達は全く気にしていない。黒いシャツとジーパン姿の一馬と、白いシャツにチノパンというラフな格好をしている翔は、同じような格好なのに雰囲気が全く違う。
「俺、ちょっと誤解してたのかもな。」
 翔がそう話しかけて、一馬はイヤホンを取った。これから練習に行くのに、その曲を聴いていたのだ。
「……何を?」
「お前と沙夜が本当にデキてるんじゃ無いかと思ってた。」
 すると一馬は口元だけで笑う。そしてイヤホンをしまった。
「うちの奥さんしか見ていないのは事実だ。子供も可愛い。それなりに愛していると思う。それでも沙夜も大事だと思っているのは事実だ。」
「仲間としてだろう。」
「あぁ。」
 そう言わないと全てが否定される。一馬はそう思いながら、流れる景色を見ていた。そして翔はため息を付いて言う。
「一馬に沙夜が転がったら、俺、マジで勝たないと思うし。」
「俺だってそんなに人間が出来ているわけじゃ無い。人並みに欲はある。」
「何が欲しいんだ。」
「例えば二人目の子供だとかな。」
「それは欲か?」
「奥さんのことを考えないで自分だけで欲しいと思ってた。女の子が欲しいと。一人目の子供は、俺にそっくりでな。」
「……見たことがあるよ。一馬のミニチュアかと思った。」
「沙夜も同じ事を言っていた。」
 頬に触れられて起きたのだ。子供でも羨ましいと思う。
「で、今度は女の子を?」
「妻に似た女の子が生まれれば良いと思ってた。けど、うちの妻は俺のその想いを見事に裏切っていてな。」
「裏切り?」
「ピルを飲んでいたんだ。」
 それは一馬の子供が欲しくないと言われているようだった。絶望でどうにかなりそうだったのを救ってくれたのは、沙夜であり誤解だと教えてくれたのだ。
「そっか。その辺は女同士じゃ無いとわからないよな。」
「妻の体が落ち着いて、精神的にも安定したらゆっくり考えれば良いと思う。そんなにガツガツしていても仕方が無いと。夕べも思い知らされた。」
「夕べ?」
「妻と沙夜がずっと話し込んでいてな。やはり気が合うようだ。お互い業種は違うが仕事しか見ていないタイプだし。」
「確かに一馬の奥さんも家で大人しく味噌汁作るようには見えないよな。コーヒーを淹れている方が生き生きしてる。」
「帰国してやっと美味いコーヒーが飲めた。それだけで帰ってきたという実感がわく。」
 本当に奥さんのことが好きなのだろう。なのに疑ってしまった自分が馬鹿のようだ。翔はそう思いながら、吊り輪を握り直した。
「ただ……翔。」
「何だ。」
「芹さんも翔も、もちろん奏太も沙夜さんは手に負えない気がする。」
「え?」
 その言葉に翔は驚いたように一馬を見た。
「案外不安定な人だ。感情の起伏が激しい。うちの妻が、そんな感じだったんだが息子が生まれてやっと落ち着いたような気もするが、あの調子だと心の支えには誰もなれない。」
「それって……。」
「沙夜を手に入れるというのは、よっぽど人が出来ていないといけないだろう。それは沙菜さんにも言える。」
「沙菜は割と安定している方だと思うけど。」
「お前はだから脳天気なんだ。」
 そう言われてむっとしたように翔は一馬を見上げる。
「何でだよ。」
「沙菜さんはどんな仕事をしていると思っているんだ。誰が好き好んで奇異の目にさらされながら、ライトをガンガン当てられてセックスをしないといけないんだ。それも気持ちが良いとか悪いとか関係無しに。」
「……。」
 沙菜は進んでしていると思っていたのだが、違ったのだろうか。翔はそう思いながら、首をかしげる。
「でも……沙菜は……。」
「ずっと好きな男がいるのに他の男に抱かれないといけないんだ。その精神はボロボロだと思うが。だから芹さんが側にいてくれると安心するんだろう。」
「……。」
「沙夜しか見てないのも悪くないが、一緒に住んでいるのは沙夜や芹さんだけじゃ無いんだ。もっと周りを見た方が良い。」
 その時電車のアナウンスが流れた。それは一馬が降りる駅だった。
「先に降りる。」
「あぁ。今度はいつだっけ。みんな集まるの。」
「一週間後だろう。フェスの練習だな。じゃあ、また。」
「あぁ。」
 一馬はそう言って開いたドアの向こうのホームへ降りていった。そして翔はため息を付く。沙菜のことを思っていないわけでは無い。だが沙菜はあくまで沙夜の妹なのだ。
 だがこの手が、沙菜を抱きしめたことがある。汚い手だと思った。そんな自分のどこが好きなのだろう。沙菜も何もわかっていないのに。もちろん沙夜もわかっていない。世間でイメージを作られている王子様のイメージと実際の翔はほど遠いモノだと思った。
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