触れられない距離

神崎

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ロシアンティー

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 家の前に立ち、玄関のドアを開けるのがこんなに勇気が要るのだろうかと思っていた。だが開けなければ何も始まらない。そう思って沙夜はその玄関のドアノブに鍵を差し込んだ。そして鍵を開けると、そのドアを開く。
「ただいま。」
 声を上げると、真っ先にやってきたのは沙菜だった。
「お帰り。姉さん。え……花岡さんも来たの?」
「夕べ、誤解をさせたと思ってな。」
 夕べ、沙夜に芹からの連絡は何度かあった。だが沙夜から連絡することも無く、そのまま放置していたら翔から一馬の方に連絡があったのだ。そこで一馬の方から翔に連絡を入れ、夕べは一馬の家に泊まらせると告げるだけ告げた。あとは何か連絡があったようだが、それ以上のことは連絡をしなかった。あとは直接伝えれば良いと思ったから。
「あのさ。姉さん。誤解させたのは悪かったけど、帰ってこないのってどうなの。しかも男の人の所に。」
「奥様も了解済みよ。ご飯までご馳走になったわ。」
 食事をした時に、サラダのドレッシングの話になった。手間をかけたくなくて市販品のドレッシングを使っているのだが、どうも味が濃くてしかも適量がわからないと愚痴っていた。すると沙夜はレモンを搾った濃縮のモノが市販されていて、それと塩、オリーブオイルでカラメルとドレッシングになると言っていたのだ。さっぱりと食べられて美味しいと言うと、奥さんはそれに喜んでいたようだ。
「芹さんはいるか。」
「えぇ。いるけれど……。」
「話がしたい。あげてくれないか。」
「それはあたしが許可することじゃないわ。芹、まだ寝てるみたいだもん。」
「寝ている?」
「夕べ寝られなかったみたいだから。」
 芹も思うことがあったのだろう。それは後悔だろうか。直接沙夜と話がしたいのに沙夜は帰ってこないいらだちが、眠りを妨げていたのかも知れない。
「お帰り。沙夜。一馬、いらっしゃい。」
 翔は自分の部屋から出てきた。翔も昼から仕事へ行くつもりなのだ。スタジオに籠もり、相変わらずアニメの曲を作るらしい。
「荷物を置いてくるわ。一馬はリビングへ行って待っていてくれないかしら。」
「わかった。」
 沙夜はその間、沙菜と目を合わせなかった。当然かも知れない。あんな写真を見せられて冷静になるとは思えなかった。
 そして沙夜は自分の部屋に帰ってきて、スーツケースを置いた。そしてスーツのジャケットを脱ぎ、ハンガーに掛ける。今日、これはクリーニングに出そう。そう思いながら、着替えをする。するとポケットからあのチャームが出てきた。
 複雑な気持ちだと思う。奏太を誤魔化すためにしたことで奏太は誤魔化せたかも知れないが、その代償は大きい気がする。一馬の奥さんに申し訳が無いと思った。
 そしてそのチャームを棚に置いているアンクレットに差し込んだ。するとすんなり穴が通り、まるでそこにあったかのように馴染む。
今はアンクレットよりもチャームの方が心の支えになるようだった。

 着替えを終えてリビングにやってくると、芹は起きていて一馬や翔と話をしているようだった。夕べはどうしても一馬はここに帰らせると、勢いで二人は別れてしまうと思ったのだ。だから頭を冷やすために夕べのことを説明していた。
 そして芹を心配させたと、素直に一馬は謝っていた。芹はそれで納得したのかどうなのかわからない。だが目の前に置かれている菓子を、拒否もしなかった。
「姉さん。あたしあまり時間が無くてさ。」
 沙菜はそう言うと、沙夜を芹の隣に座らせる。そして冷たいお茶を翔が淹れてくれた。
「あんたの言い分ってわかったよ。沙夜のことを考えれば、くっそつまんない写真だってわかっていても、いきなりそんなモノを見せられれば冷静ではいられないよな。」
 芹はそう言ってお茶を飲んだ。そして沙夜もそのお茶に口を付ける。
「あの写真さ。実は俺の所にも届いたんだ。」
「え?」
 沙菜は驚いて芹の方を見る。写真があると言っても冷静だったのはそのせいなのか。そう思って翔も納得したようだった。
「石森さんのところに送られてきたらしい。多分、兄はそこしかつてが無かったと言える。」
「……裕太が?」
 すると芹は頷いた。
「兄は俺がライターをしているかも知れないと疑っている所があってさ。」
「作詞家でもあることは疑っていたのに。」
 沙夜はぽつりとそう言うと、芹はため息を付いて言う。
「嘘じゃ無いけど、あいつに知られたくなかったな。」
 その言葉に一馬は驚いたように芹を見る。
「え……お前が作詞を?」
「うん。渡摩季って名前で。」
 女だとすっかり思っていた。あんなに男に捨てられて未練がましい詩を書くような人なのだ。藁人形でも作っていそうな女だと思っていたのに、まさか芹がそれを書いているとは思っても無かった。
「芹。それを言って良いのか。」
 翔がそう聞くと、芹は頷いた。
「もうこの人に誤魔化すのは辞めようと思ったから。信頼も出来る。なんせ沙夜を家に泊めるくらい、沙夜のことも信用しているんだろうし。」
 その言葉には嬉しい要素もあるが、どちらかというと嫌みもあるのだろう。
「そうか。あの詩を……。」
 そう思えば納得する所がある。おそらく芹は大きな失恋をしたのだ。それを男の感情で書くのでは無く、女の感情でか基礎の失恋を忘れようとしていたのだろう。
「それで……どうしてあんな写真を撮られるようなことをしたの?」
 沙夜は初めてその時に口をきいた。だが芹の方は向かない。視線を合わせようとしなかったのだ。
「沙菜に外で飯を食ってただけ。それにあの写真、二人きりに見えるけど実際は他にも人が居たんだよ。藤枝とか。藤枝の同期とか。」
「……。」
 そういう風に撮り、沙夜を誤解させて別れさせようとしていたのだろうか。確かに裕太は芹が沙夜と付き合っていることは知っていると思う。だから別れさせて痛い目に遭わせてやろうとでも思ったのかも知れない。
「姉さん。本当よ。ちょっと話しもしたいこともあったし、それにあたしの都合もあったんだから。」
「あなたの都合?」
「引退した男優が居酒屋を始めたのよ。女優同士とかスタッフなんかで行っても良かったけれど、どうしてもその男優もあまり良い感じに辞めた人じゃ無いから、行きにくくて。だから芹なんかと行くのはちょうど良かったのよ。」
「それに……最近面倒なこともあったし。」
「面倒?」
 一馬がそう聞くと、翔も頷いた。
「俺、夕べ話を聞いたよ。沙夜さ。朝倉すずさんって覚えている?」
「えぇ。映画雑誌のスタッフよね。」
「うん。その人は藤枝君の同期らしくてね。この間、芹と偶然会ったらしい。」
「……そう。」
 気があって素直で、まるで小動物のように思える女だと思った。気が合うと思ったし、男と女という観点では無くても良い付き合いは出来ると思っていた。映画を靖と三人で観に行ったのも、そんな付き合いが出来ると思ったし、これからも三人であればそういう事をしても良いと思った。
 だがすずはそう思っていなかったらしい。
「恋人が居るって言ったんだけど、なかなかこう……しぶとくてさ。」
「モテるんだな。お前。」
 一馬はそう言うと、芹は首を横に振った。
「髪を切ってからだよ。俺なりのけじめのつもりだったんだけど、こんな感じになると思って無くて。」
「……まぁ。良いわ。言い寄ってくるの?」
 沙夜はそう聞くと、芹は頷いた。
「そうあらか様じゃ無いんだけど、なぁ……沙菜。わかるだろ?」
 すると沙菜も頷いた。
「あれは狙っているわね。彼女がいても奪い取ってやろうみたいな。」
「性悪。」
 翔すらそう言っているが、芹は心の中でお前も性悪だと思っていた。だが口には出さない。
「姉さんが恋人だと言っても良いと思うんだけど、姉さんはこれから付き合いもあるんじゃ無いのかと思って。」
「そうね……無いことは無いと思うんだけど。橋倉さんはもしかしたら連載を申し込まれるかも知れないし。」
「え?」
「結構映画通なのよね。橋倉さんは。奥様の影響かも知れないけれど。」
 育児雑誌には連載されているが、映画雑誌にもそれは及ぶのだろうか。
「だったら尚更だよね。こっちはこっちで誤解させておいた方が良いんじゃ無いかと思ってさ。」
「え?」
 すると翔も驚いたように沙菜と芹を交互に見ていた。
「もちろん、本当には付き合わないよ。けど、姉さん達だって誤解をさせているんでしょう?」
「それは……そうだけど。」
 沙夜はそう言うと、一馬の方を見る。すると一馬も呆れたように芹を見ていた。
「良いのか。それで。」
「俺は沙夜だけしか見ていない。紫乃を忘れさせてくれたんだ。俺、もう失恋の曲は書けないと思ったくらい幸せだ。」
「……。」
 沙夜はその時初めて芹の方を見る。すると芹は真っ直ぐに一馬の方を見ていた。だから邪魔をするなと言うように。
「沙夜はどうするんだ。俺たちにはそういう話は付いているが、芹さんの方もそう誤解をさせてもかまわないか。」
 一馬は圧倒的に奥さん想いだ。だからこちらを見ることも無いとわかっている。だが芹の場合は違う。沙菜は独身でしかもAV女優なのだ。確かに沙菜と付き合っているといった方が、他の女は近づきにくいだろう。
「沙菜。」
 沙夜はやっと沙菜の方を見る。すると沙菜は不思議そうに沙夜の方を見た。
「何?」
「本当に芹のことを何も思っていない?」
「思っていないよ。確かに姉さんの話からすると、少し手を出したいなぁって思うくらいだけど、それを言い出したら花岡さんだって手を出したいって思うくらいだもん。」
「こちらがお断りだ。」
 一馬は真っ先にそう言うと、沙菜は呆れたように一馬に言う。
「こんなにいい女に言い寄られても奥さんの方が良いんだ。」
「当たり前だろう。」
 こういう男だから信用が出来る。だが沙菜とはどうなのだろう。口では良いように言うかもしれないが、前にキスをしていたこともあるのだ。それを思うと微妙だろう。すると翔が口を開いた。
「沙夜では朝倉さんは言い返せるかも知れない。だけど天草紫乃さんでは無理だと思うよ。それが沙菜なら、多分何も言わないかな。沙菜に何かあれば、事務所も黙っていないだろうし。」
 その言葉に、沙夜は少し頷いた。沙菜はいつもそうなのだ。自分に無いものを持っている。それが少し羨ましいと思う反面、味方になっていて良かったと思えた。
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