触れられない距離

神崎

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ロシアンティー

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 真夏の畑は拭っても拭っても汗が出てくる。熱中症にならないようにと辰雄は定期的に芹を休ませ、水を用意し、体を冷やすための保冷剤まで用意している。それでも汗は滝のように流れ、ついにタオルで額から頭を縛った。
「やる気じゃん。」
 辰雄はそう言って芹に言うが、そうでは無い。
「頭から汗がすげぇの。滝みたいに出てきてさ。汗が目に染みるし。あと長袖ってしてる意味あるの?」
「あるよ。夏は虫が多いし、お前、モヤシなんだから一気に肌を焼くと明日辛いぞ。」
「あぁ……そうだった。」
 真夏のビルの窓拭きなんかをしたことがある。社員の言うのを無視して半袖の作業着を着て掃除をしていたら、その日の夜は腕や顔が酷く熱を持ち、次の日にはだっびをするように皮が剥けたのだ。つまり軽い火傷になっていたのだろう。
「辰雄さん。おーい。」
 辰雄がいつも乗っているような軽トラが畑の側に停まる。そして出てきたのは、これまたよく灼けた肌をもつ男だった。背は辰雄よりも低いし、歳も辰雄よりも上に見えた。
「茂さん。どうしたんだ。珍しいな。ここまで来るの。」
 そう言って辰雄はトマトを取る作業の手を止めてその男に近づいていく。
「うちのに聞いてさ。昭人君、入院したんだって?」
「そう。崖から落ちてさ。元気が良すぎるよ。あいつは。」
「良いじゃ無いか。うちの弟たちも同じようなモノだったよ。それか釣りかどっちかって感じでさ。」
「まぁ、それを考えると足の一本や二本折って大人になるのかねぇ。」
 恐ろしいことを言っているな。芹はそう思いながら瑞々しく育っているキュウリを刈り取った。キュウリは棘が沢山で手に刺さるようだが、それが美味しいと言っている。それにキュウリは食べる前にたわしでこすれば棘が無くなるのだ。
「で、これさ。出来たから味を見てよ。まぁ、見舞い代わりみたいな。」
「一夜干し?良いねぇ。卸せるかな。物産館に。」
「わからないけど。ドレッシングは割と好評みたいでさ。これも良ければ置いて貰えるか……まぁ、俺の本命はおかか味噌なんだけど、なかなか製品化はしてくれなくてさ。」
「コストがかかるってヤツ?もう少し値段を上げれば良いのに。」
「やー。でもなぁ……。」
 ドレッシングという言葉に、芹はそちらを見る。もしかして藤枝靖がいつか持ってきたドレッシングを作った人なのだろうかと思ったからだ。
「芹。一夜干し持って帰るか?」
「何の魚?」
「鰺。」
 すると芹もキュウリを箱に詰めると、そのまま辰雄達の方へ足を進める。
「美味そう。今日のおかず決定だな。」
「お、だったら足りないんじゃ無いのか。お前の所四人だろ?」
「今は翔と沙夜はいないんだよ。二人分。二枚欲しいな。」
「感想をよろしく。えっと……芹君で良いのかな。」
 そう言われて、芹は帽子を脱ぐと改めて挨拶をする。
「天草芹です。」
「よろしく。久住茂だよ。芹君。平口でかまわないよ。」
「そう?ありがとう。」
 すると辰雄はニコニコしながら茂に言う。
「茂さん。卵持っていく?それからトマトとかきゅうりとか。」
「良いねぇ。ドライトマトを作るか。キュウリは浅漬けにして、また商品になるかも。」
「ドライトマト?」
 芹が驚いたようにそれを聞くと、茂は少し笑って言う。
「干したトマトだよ。パスタに入れても良いし、そのまま摘まんでも美味いし、うちのが妊娠中はこればかり食べててね。」
「妊娠中ってあまり体を冷やさない方が良いんじゃ無いのか。トマトとかキュウリとか体を冷やさないか。」
 驚いたように芹はそう聞くと、茂は手を振って言う。
「そうでも無いよ。好きなものを好きなように食べれるものを食べたら良いんだ。つわりの時には特にね。食べれるものを食べれるときに食べるのが一番良い。」
 そんなものなのか。芹はそう思っていたが、そう教えてくれたのは誰だったかと思って少し暗くなる。それを教えてくれたのは紫乃だったからだ。端々に紫乃を思い出す度に暗くなりそうだ。
「芹君は奥さんが妊娠中なのか。」
「いや。俺は独身だけど。」
「若そうだもんね。遊べるうちに遊んでおいたらいいよ。俺なんか遊びたいときに遊べなかったんだから。」
「え?」
 そう言うと、卵の入ったビニール袋を下げた辰雄が、その会話を聞いていて茂を止める。
「茂さん。あまり自虐ネタやめなよ。」
「ははっ。もうネタだよ。漁業組合の中でも。」
 元々明るくて、人当たりがいい人なのだ。噂を立てられたこともあったし、未だに茂を怪訝そうな目で見ている人がいるのも事実だが、こうやって先に言っておくと誰もがそれ以上は突っ込んだ話をしない。
「俺、刑務所に入ってたことがあるんだよ。」
「あぁ。若い頃?」
「そう。」
「別に珍しい話じゃ無いじゃん。前に働いていたところではゴロゴロいたよ。そういう人。」
「へぇ……そういう人ってまともな仕事をしている?」
「してると思うよ。でも派遣とかばっかで正社員はちょっと無理なのかな。」
「そっか。まぁ難しいよね。俺は運が良かった方だから。それに刑務所で調理師の免許を取ったんだ。それが今になって役立ってる。」
「料理人なの?」
「いや。本業は漁師だよ。やっと独り立ち出来てね。奥さんも海女をしてる。その傍らで物産館とかに卸すようなドレッシングとか、一夜干しとか、変わったところじゃちりめんのおかかとかを作ってるんだ。」
「美味そうじゃん。」
「地元の人じゃ無いんだろう。帰る前に物産館で買っていって。」
 沙菜があのドレッシングを気に入っていた。帰りに買って帰っても良いだろう。
「茂さんはそう言うのを作るのは上手いんだけど、なんせ売り方が下手だよなぁ。奥さんもあまり商売上手ってわけじゃ無いし。」
「食える分だけ稼げれば良いよ。そりゃね。娘のことを考えると少しは貯蓄をしておいた方が良いとは思うけど、大学に行くまでにはそれくらいは溜まるだろうと思うし。」
 本当だったら会社でも立ち上げて自分のブランドを作ったりするのだろう。そちらの方が利益が良いだろうに、茂はその欲が全くない。本人が言うように食べれれば良いと思っているのだろう。
「芹君は料理をするんだね。」
「まぁ、食べれる程度だけど。さっきも言ったけど、同居人がいてさ。一人料理をしてくれる人がいるんだけど、そいつが今仕事でいなくて。だから俺がやらないと。」
「残っているのって沙夜の妹だろ?妹は料理をしないのか。」
 水を飲みながら辰雄はそう聞くと、芹は手を振って言う。
「あいつに任せたら、食材が無駄になる。卵すら割れないヤツだから。」
「ははっ。そりゃすげぇ。」
 茂は朗らかに笑うが、辰雄はいぶかしげな顔をしていた。
「そりゃ、嫁に行ったらどうするんだ。」
「辰雄さん。古いよ。」
 芹から言われると思ってなかった。そう思って辰雄は驚いたように芹を見る。
「出来なきゃ男がすれば良いだけの話だし、出来るように努力させるし、色んな方法があるよ。女が飯を作らないといけない法律は無いんだから。」
「確かにそうだ。」
 茂も笑いながらそう言うと、辰雄は帽子を脱いで頭を掻く。確かに古い考え方かも知れない。辰雄の嫁である忍は、手が上手く動かないことがありそれをカバーするのに辰雄が手伝うこともあるのだ。もし忍の手が上手く動いていたら、辰雄は手伝うことをしなかったかというとそれは違うと思う。
 同じくらい忍も辰雄も働いているのだ。家事は一人に負担をかけるべきでは無いとは思うが、どうしても食事だけは忍に負担をかけていたのかも知れない。
「そっか……俺、古いかね。」
 すると茂は首を横に振る。
「気にすることは無いよ。忍ちゃんだって、気にしてないと思うよ。それに忍ちゃんは料理好きだよねぇ。よく聞いてくるし。」
「そうかな……。」
「好きでしてることは、させておけば良いんだよ。俺だって沙夜はそうさせてるんだし。」
 だが芹の様子を見ると、一概にそうは思えない。好きでしている仕事に沙夜は負担をかけているのでは無いかと思っていたから。
「おっと。うちのからだ。そろそろ帰るよ。」
 茂はそう言って携帯のメッセージをチェックすると、軽トラに乗り込もうとした。すると辰雄は、ビニール袋を手にしてトマトをいくつか入れる。
「ほい。これももって行って。」
「ありがとう。また来るよ。感想よろしく。」
「わかった。ありがとう。」
 そう言って茂は行ってしまった。その軽トラのテールランプを見ながら、気まずそうに芹は辰雄を見る。余計な事まで言ってしまったかもしれないと思ったからだ。
「悪い。なんか調子に乗って要らないことを言ったかも。俺。」
「良いよ。確かにお前の言う通りだ。忍は今日病院に泊まるんだろうし、弁当でも作ってやろうかな。」
「マジで?」
「お前飯食っていけよ。食ったら麓まで送るから。」
「それから病院?」
「あぁ。そうだな。」
「沙夜に言っとくよ。」
「帰ってくるの明後日だっけ?別にそこまで長く入院するわけじゃ無さそうなんだけどな。来る頃には家に帰ってるかも。」
 へらっと笑ってまた水に口を付ける。すると辰雄が心配そうに芹に告げた。
「あのさ。芹。」
「何?」
「お前は、あまり心配してないのか。」
「何を?」
「仕事とは言っても男と一緒に海外へ行ってるんだろう。特にその翔って言うのは一緒に住んでいると聞いているし。」
「翔はあまり心配してない。」
 むしろ心配なのは奏太なのだ。翔からキスをされたとき、思いっきり舌を噛んだと言っていたのに、奏太のは大人しく受け入れたのだろう。それが芹をずっとモヤモヤさせている。
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