触れられない距離

神崎

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祝い飯

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 会社の近くにあるパン屋は、夜の十二時まで開いている。ビジネス街でもあるこの地域では、夜遅くまでやっているパン屋や食堂などが結構あるのだ。おそらく定時で帰れない、残業などをした人達のためにそうしているのだろう。
 沙夜と一馬はそれぞれ食パンを買うと、そのまま駅へ向かった。
「惣菜パンも買ったの?」
 沙夜は呆れたように一馬に言うと、一馬は少し頷いた。
「オムライスだけでは少し足りないと思ってな。それに楽器を弾いただろう。ライブのあとは腹が減るから。」
「本当。どこに行くのかしら。その食事って。」
 沙夜はそう言って少し笑う。そして駅の方へ足を運んでいた。だがその時自分の足下が見えて、沙夜は足を止める。
「沙夜?」
「返すのを忘れていたわ。」
 沙夜はそう言ってしゃがみ込もうとした。しかしそれを一馬が止める。
「今度で良いから。」
「でも……大事なモノでしょう?」
 一馬の腕に巻かれているブレスレットの飾りを、一つ沙夜が付けているアンクレットに通したのだ。それは小さなモノで、細いチェーンで出来ているアンクレットにはすんなりとビーズのように通すことが出来て、自然とそこにあったかのように馴染んでいる。
「ここでしない方が良い。しゃがむとせっかくのワンピースが汚れるだろう。」
 確かにこのワンピースは沙菜に借りたモノだ。ちゃんとクリーニングに出して返すつもりだが、変に汚れなんかが付いていたらシミになるかも知れない。
「良いの?奥さんとお揃いじゃ無かったの?」
「お揃いでは無いんだ。……何というか……趣味とかも相当お互い合っていてな。送り合ったモノが似ていたと言うだけで口裏を合わせて送り合ったモノじゃ無い。」
「……それでも記念だわ。私たちはそんなことをしなかったから。」
「プレゼントなんかしたこと無いのか。」
「あるけれど……。」
 このアンクレットがプレゼントだった。そして芹の耳にはピアスがある。それが沙夜からの贈り物だったのだ。それに指輪もある。芹がこれも贈ってくれたモノだった。安いモノだからと言っていたし、いずれ本物を送ると言ってくれた。それが嬉しかったんだと思う。
「良いから、今度会うときで良い。」
「でも……良いの?」
 すると一馬は手を上げてブレスレットを見る。その表情は少し複雑そうに見えた。
「……うちのがな……。浮気をするならお前だったら別にかまわないと言ってきたんだ。」
「え?」
「もちろん冗談だと思う。」
 芹と沙夜が奥さんのいる店にやってきて、事情を説明してくれた。それで奥さんは納得していたのだと思う。だが夕べ、奥さんはぽつりとそう言ったのだ。
「……そんな仲にはならないわ。」
「わかってる。お前は芹さんを守るために、そうせざる得なかった。俺だって妻しか見ていないし、沙夜も芹さんしか見ていないのはわかる。」
「……だったらどうしてそんなこと……。」
 すると一馬はため息を付いて言う。
「ずっと二人目の子供が欲しいと思っていた。一人目の時にはずいぶん妻は不安があったようで、まともに子供が出来るかもわからない。もしかしたら母乳も出ないかも知れないと思っていたんだ。」
「……けれど実際には元気な子供が生まれたわよね。何度か子供さんにも会ったこともあるけれど。」
「あぁ……。心配していた母乳だってしっかり出たんだ。まともに育っているし、障害だってない。だから二人目もきっと作ればまともに妊娠すると、甘い考えを持っていたんだ。」
 だが実際は難しかった。一人目が出来れば二人目はあっという間だよと言う治の言葉が嘘のようだと思う。
「タイミングを合わせてしてみたりしたし、場所を変えれば良いかと思っていてそういう事もしてみた。だが……全ては無駄だった。」
 あの日。奥さんがいつも持ち歩くバッグの中にある携帯電話が鳴っているのに気がついた。ちょうど食事を作っていたときだったので、手が離せなかったのだ。それを一馬が気がついてその携帯電話を取った。するとそこには一件のメッセージがありそれを見た一馬は少し驚く。
「そのメッセージって……。」
「産婦人科のモノでな。内容までは良くわからなかったが、妻が休みの日にここへ来いというモノだったと思う。」
 妊娠しているのかも知れない。ウキウキした気分で奥さんにそれを問いただすと、奥さんは思いがけないことを言ったのだ。それが絶望に一気に変わる。
「ピルを飲んでいると。」
「ピル?」
 子供が欲しいと思っている一馬だったが、奥さんはそうでは無かったのだろうか。そう思った一馬は考えも無しに感情でものをいってしまったのだ。つまり奥さんを責めるようなことを口に出し、その勢いに子供が泣きだした。だがそんなときに子供のことなど考えていられない。
「一馬。あなたらしくないわ。理由も聞かずにそんなことを言うなんて。」
 すると一馬は首を横に振った。
「いや。あいつは子供が欲しくないのかも知れない。一人でもあいつは思ったように仕事が出来ないと思っているのかもしれなとか、俺が毎日家に帰らないのに、妻は毎日子供の世話をしているのがそんなに嫌だったのかとか思ってな。俺も時間が合うときには子供の世話をしていると思っていたんだが。二人も子供がいたら更に自分の時間が取られるとでも思ったのか。そこまであいつは我が儘だったのか。」
 一気に一馬はそう口走る。そして深くため息を付いた。すると沙夜は首を横に振る。一馬は女性に対してやはり無知すぎるのだ。
「あのね。一馬。ピルを飲むというのは、別に妊娠したくないからピルを飲むわけじゃ無いのよ。」
「何?」
 ため息を付いて沙夜は言う。
「奥様は生理が重い方じゃ無いのかしら。」
「あぁ……。薬で誤魔化しているが、何度か倒れたこともあって。出産したら更に重くなったようだ。」
「体にあまり問題が無ければ、ピルを飲むこともある。そうやってコントロールすることも出来るの。もちろんそのリスクはあるわ。飲む時期、飲まない時期で薬を止めたり、飲んだりしてね。沙菜もそうやってずっとコントロールしてる。」
「……そのために?」
「そうじゃないと、子供以前に自分が倒れてしまうわ。今居る子供だって大事なんだから。」
「……。」
「奥さんは自分の体がもう少し落ち着いて、子供さんも落ち着いてからと思ってるんじゃ無いのかしら。」
「俺より年上なのに?」
「今時は四十代でも初産って人もいるわ。あまりその辺は考えすぎない方が良いのかも知れない。現代医療だって思ったよりも進んでいるのよ。」
 すると一馬はため息を付いて沙夜に言う。
「俺の我が儘なのか。ただ……俺は奥さんに似た女の子供が出来れば良いと思っていただけなのに。」
「それもそれでプレッシャーよね。」
「え?」
 すると一馬は驚いたように沙夜に聞く。
「そうじゃない。立派な家柄だったりするところに嫁いだ人なんか、男を産まないと跡継ぎに出来ない。女が生まれたってだけで「女腹」なんていう人だっているのよ。女腹に用はないって、離婚を迫られたりすることもあるし。」
「俺もそれと同じようなことをしているか?」
「そう思うわ。一馬。悪いけれど、奥さんに同情するわ。だから浮気なんて言葉が出てくるんじゃ無いの?」
「……。」
 今すぐ妻を抱きしめたい。こんなに後悔したことは無いだろう。そしてまた自分の腕を見る。そこには一つ石が欠けたブレスレットがあった。
「大体……今日の一馬は少しおかしかったから。」
「そうだったか?」
「えぇ。望月さんに見せつけるからって、ちょっと距離も近かったし。」
 すると一馬は少し笑って言う。
「奏太からは恨みを買っているかも知れないがな。……正直俺はな。」
 すると一馬は沙夜の方へ近づいてくる。普通の男なら避けるかも知れない。だが一馬なのだ。沙夜はそう思ってその場に立ちすくんだ。すると一馬は腕を伸ばし、沙夜のその腕に触れる。その行動に沙夜は少しビクッとした。
「何?」
「お前とどうこうなるとは思ってなかったし、女として見たことは無かった。だが、今は奏太の気持ちも何となくわかる。一緒に音を合わせてみて、相当気持ちが良かったんだ。」
「……そう?それは音楽的なモノよね。」
「それだけじゃ無い。」
 その言葉に沙夜は手を振りほどこうとした。誤魔化すためにした行動が、本当になるかも知れないその恐怖が沙夜の手に力が入る。
「冗談でしょう?」
 すると一馬ははっと気がついたように、その手を離した。そして沙夜に背中を向ける。
「そうだな。冗談だ。」
「……子供についてはもっと奥さんと話をした方が良いわ。これからのこともあるし。あなたの言葉でしか聞いていないけれど、奥さんももう少し言葉があると良いのかも知れないわ。」
 ピルを飲んでいることくらい、言えなかったのだろうか。だから誤解を生んだのだ。何より一馬は子供を望んでいるのだから、それを知らないまま「出来ない」と悩ませることは知っていれば不要な悩みだっただろう。
 そう思いながら沙夜は、その一馬の背中を追った。暗い夜道に一馬のその特徴的な長髪が背中で揺れる。そしてその背中に手を伸ばしたいと、沙夜自身も思った。だがその気持ちに蓋をする。お互いに想う人がいるのだから。
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