触れられない距離

神崎

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祝い飯

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 ライブツアーの最終日。会場の中でも多くの人が入るどこよりも大きな会場で、満員の観客が盛り上がってくれ、何より自分たちの演奏が良かったときなんかは一馬は普段感情を表さないのだが、その時ばかりは違ってメンバーとハグをしたり、サポートメンバーなんかと握手をしたり、そしてそれをずっとバックアップしてくれた沙夜にもハグをすることはある。それは感情の高まりからだった。他のメンバーだってそうだ。そして沙夜はそれをいつも受け止めている。沙夜は演奏に関わっていないが、「二藍」が気持ちよく演奏出来るように裏でいつも動いていたのだから。
 だから沙夜も良い演奏が出来た「二藍」との気持ちは一緒だと思う。だから良い演奏が出来て沙夜をハグしたという奏太の気持ちは、わからないでも無い。
 だがそのあとキスをしたというのは違うと思う。演奏からでは無い。おそらく気持ちの問題なのだ。
「どうしてそもそも連弾をする話に乗った?雨に降られてシャワーや着替えを用意してくれて、世話になったというのであれば着替えと一緒に菓子とかを添えれば良いくらいだろうに。」
 奥さんならそれくらいするだろう。自分の勤めている店の菓子なんかを添えて、着替えと共に渡す。それくらいでいい話なのだ。わざわざ家に上がり込んで連弾なんかする必要は無い。
「「夜」であることを疑われたの。」
「お前が「夜」かもしれないと?」
 沙夜は「夜」であることを限られた人にしか言っていない。「夜」であることを沙夜は外に漏れることを何よりも恐れているから。
「そうかもしれないとは言っていたわ。でも……それより以前に、望月さんは私と同じコンテストに出たことがあるの。そこでの私の演奏を聴いていた。そして「夜」の音も聴いて、私が「夜」では無いかとずっと思っていたらしいの。だからそれは違うと証明するために連弾をしたわ。曲を作ることでは無く、私にはアレンジしか出来ないことを印象づけるためにね。」
「なるほど……。作曲は出来ないと。」
 実際の沙夜は作曲もアレンジもこなすのだ。それを印象づけるようにそういう行動に出たというのは納得出来る。
「望月さんは……「夜」の熱狂的なファンだと思う。」
「……。」
「世界を放浪していたと言っていたわ。その傍らには「夜」の音がいつもあったと言っていた。そんなに立派なことをしていたわけでは無いのに。」
 すると一馬は首を横に振る。そして沙夜の方を見た。
「俺は、「夜」というのはお前から聞いて初めて聴いてみたのだが、確かにあの音は相当なモノだと思う。ファンになるのもわかる気がする。自由で何も縛られていない音だ。」
「……そんなに立派なことをしているわけじゃ無いわ。」
「卑下をするな。ファンだというのに作っている本人が自信が無ければ、好きだと言っているヤツの立場が無いだろう。それは「二藍」でもそうだ。俺らの音が好きだというファンに、そこまで良い作品では無いと言われてファンはなんて思うだろうか考えもしなかったか。」
「……そうね。」
 それは考えてなかった。自分の音がそこまで良いとは思えなかったが、良いという人もいるのだ。その人を否定してしまったらその人は何と思うか考えても無かった。
「しかし「夜」であることを隠したいという気持ちはわからないでも無い。否定しかされていなかった、プライベートのこともばらされかけたとなれば恐怖しか残らないだろう。だが、そういうときだからこそ支えてくれる人というのは必要だろう。どうして頼らないんだ。」
 それは芹のことだろう。どうして芹のことを隠して、「草壁」という曖昧なモノで沙夜が奏太との間に壁を作ったのかわからない。そして一馬に疑いをかけるような真似をしたのかはわからなかった。
 一馬と一馬の奥さんに挨拶をしたときも、その辺は曖昧だった。ただ、芹はどうしても奏太に沙夜と付き合っていることをばらされたくないと言っただけだったから。一馬の奥さんもその辺は納得していないようだった。だがそれ以上のことは芹は口を割らなかった。だが一馬は芹の事情はわかっている。だから奥さんには無理矢理納得させたようなモノだったのだ。
「もし望月さんに「草壁」の正体を伝えて、望月さんが紫乃さんと繋がりがあったりしたら?」
「……繋がりがあるのか?」
「わからない。だけど可能性は無いわけでは無いと思う。紫乃さんだけでは無く他で漏らすことがあったりしたら?「草壁」の正体は曖昧にしているのよ。仕事にも影響すると思う。」
「「草壁」はそこまで奏太を信用していないと言うことだろうな。」
「キスをされたことも知っている。だから尚更信用は出来ないみたい。」
 こんな所で奏太がしたことのしっぺ返しが来るとは奏太本人も思っていなかっただろう。
「ごめんなさい。こんなことに巻き込んでしまって。」
 すると一馬は首を横に振る。そんなことで謝られたくないと思っていたから。
「むしろ俺なんかで良いのか。人の旦那なんだが。」
「そちらの方が、自然かもしれないと言っていたわ。尚且つ……あなたは安定しているところがあるから。」
「偉そうなことばかり言うと言われていたが。」
「そういう所も含めてね。」
 沙夜は少し笑う。一馬は本当に出来た人だと思った。そしてそれを支える奥さんも相当出来た人だ。こんなことに巻き込んで申し訳ないと思う。菓子折一つで受け入れてくれたのだから。
「翔では無理だろうな。」
「翔?」
 一馬はため息を付いて言う。
「あいつは割と安定していないところもあるだろう。もしこの役目を受け入れたとしても、翔が奏太に潰されるかも知れない。病気が再発して貰ったら、「二藍」としての活動も出来なくなる。」
「あなたは聞き流すことが出来るから。」
 すると一馬はぽつりと言う。
「昔はそういう事ばかりをしていた。裏切られて人間不信になったんだ。色んな声を聞かされて、酷い言葉もあった。次第に聞き流すことを覚えた。」
「……。」
「昔のことだ。多数から言われていたことと考えると、一人に恨みを買っているくらいどうと言うことは無い。」
「それでいいの?」
「お前のためだから。」
 その言葉に沙夜は少し顔を赤くした。だがときめいている場合では無い。そう思って誤魔化すようにバンドスコアに目を落とした。
「花岡さんって……。」
「一馬だ。」
「え?」
「さっき呼んだだろう?そっちの方が良いと思わないか。」
「誤魔化すのに?」
「あいつを誤魔化そうと思うんだったら、それくらいやっても良い。それに……俺もそう呼ばれたかったんだ。」
「え?」
「先程も言ったが、翔とは家では呼んでいるんだろう。」
「えぇ。でも家はプライベートだし、同居をしていればそんなモノかと思ったんだけど。」
「羨ましくてな。」
「は?」
 その言葉に沙夜はますます顔を赤くさせる。深い意味は無いのはわかっているのに、恥ずかしいと思う。
「もちろん、お前は「二藍」のメンバーに対して平等に接していると思う。ギクシャクしていたときにも誰の味方になるわけでは無く、いつものように接していた。だが翔だけは、「翔」と呼んでいる。」
「それはえこひいきに見えるかしら。」
「そう取ってしまうな。このときくらいは俺の我が儘を聞いてくれないか。」
「わかったわ。」
 すると一馬は椅子から立ち上がると、床に落ちている光っているモノを拾い上げた。それはブレスレットのように見える。
「何だ。これは。」
 それを見て、沙夜は慌てて足下を見る。アンクレットが取れていたのだ。
「私のモノよ。普段は付けないんだけど、取れていたのね。」
「ブレスレットじゃ無いのか。」
「えぇ。アンクレット。」
 それを見て一馬は少し笑う。都合が良いモノだと思ったからだ。
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