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ピクトリアケーキ
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いつもよりも早く起き出して、沙夜は朝食を作っていた。いつも通りの和食の朝食で、目さじや納豆をテーブルに並べた。まだご飯や味噌汁は注いでいない。芹もまだ起きてこない時間だからだ。
「そりゃそうよね。」
沙夜はぽつりと呟くと、棚からタッパーを取りだした。そしてその底にクッキングシートを形通りに切り底に敷き詰める。冷蔵庫から卵を取りだして、ボウルにそれを割り、砂糖、バニラエッセンス、蜂蜜を入れると、別のボウルにお湯を入れてその中に卵などが入ったボウルを重ね合わせた。
そして取りだしたのはハンドミキサー。それをコンセントに繋げるとスイッチを入れる。ブンという音を立てながら、ミキサーの先が回っていく。
その時リビングのドアが開いた。そこには芹の姿がある。
「あれ?もうご飯用意したのか?早くない?」
芹は少しあくびをしながら沙夜が要りキッチンへやってくる。
「おはよう。」
「あぁ。おはよう。今日は早出なのか?」
「そういうわけじゃ無いの。これを作りたくてね。」
ボウルの中の卵が混ざっていく。バニラエッセンスの匂いがお菓子を安易に想像させるようだ。
「お菓子?」
「ケーキ。」
「ケーキなんかそんな簡単に作れるモノなのか?」
「作れるの。この間、演歌歌手の方の歌詞を書いたでしょう?」
「あぁ。修正したやつな。」
渡摩季として芹が書いたその歌詞はこの間曲が付けられて、完成したモノが芹と沙夜の元へ送られてきたのだ。さすがに重鎮の演歌歌手だと思う。テクニックもさることながら、表現力が凄い。切ない女性の心を見事に表現しているように見える。
だがその曲は純粋に演歌とは言えないだろう。その歌手にしても、挑戦するような曲だったのだ。
「その歌手の人に会った時、子供さんのお嫁さんが孫を連れて自宅に遊びに来ることがあるんですって。その時、こういうお菓子を用意することがあるって言っていたわ。とてもお孫さんが喜ぶからって。」
「ふーん。そんな風に見えないな。男を手玉に取るような女にしか見えないのに。」
「結婚しても旦那さんが次々に亡くなるって言ってたし、世の中のイメージは魔性の女ってところかしら。」
「そうだな。だからそういう歌詞を書いたつもりなんだけど。」
「実際に会うと普通の女性だったわ。孫がとても可愛い女性。」
表向きの顔しか見ていないので実際はどうなのかはわからない。実際、このケーキはとても簡単に作れると言っていたが、そのお嫁さんにはそのケーキのレシピを教えたりしないのだろう。自分のところに来ればいつでも作って食べさせることが出来るからと、若干したたかな考えがあるのだ。
「これ、卵だけ?生クリームとか入れてないのか?」
「ハンドミキサーでこれだけ泡立つのよ。湯煎しているのも良いのかもね。」
ボウルの中の卵は白っぽくなり、ふわふわと細かい泡が立っている。それから更に泡立てていき、ハンドミキサーを外すと湯煎からボウルを取りだした。
そしてあらかじめ振るっておいた小麦粉を少しずつ卵に合わせていく。そしてへらで混ぜ合わせていくのだ。
「芹。ジャムを出してくれないかしら。」
「俺が作ったやつで良いのか。」
「うん。」
そう言って芹は冷蔵庫からジャムを取り出す。この家ではあまりパンを食べたりしないが、ヨーグルトなんかと合わせて食べたりするので割とジャムが減るのが早い。
「オーブンで焼かないのか?」
「電子レンジで作れるんですって。まぁ……昔はきっと蒸したりしたんでしょうけどね。」
「でも何で急にケーキなんか作っているんだ?」
「今日は練習があるから。」
「あぁ。何だっけ。幼稚園に行って演奏するんだって言ってたか。」
幼稚園での行事の一環だろう。正式に沙夜のところに幼稚園から連絡があったのだ。園長が一馬に話をしていたようだが、その時には「二藍」がどんな音楽を作っているかなどわからなかったのだろう。その園長が実際の音楽を聴いて、不安げに沙夜に聞いていたのを思い出す。
「ハードロックでドラムをドンドン叩かれたり、高いシャウトなんかを出されると子供達が泣いてしまうかもしれないって言われたわ。だから幼稚園の方から遠慮したいと言われたの。だけど、橋倉さんが育児雑誌なんかの連載を持っているし、どんな音楽でも対応するようにすると言ったら、改めて依頼されたわ。」
「どんな曲をするんだ。」
「童謡とかアニメの曲とか。」
「アニメは大丈夫なのか?無償でするわけじゃ無いんだろう?」
金銭が関わると、童謡なんかは著作権が切れているのでアレンジしてそのまま演奏してもかまわない。だがアニメはまだ著作権が切れていないのだ。その手続きもまた沙夜の仕事だったのだろう。
「許可は取ったわ。アレンジした楽譜も送っておいたし。」
「アレンジって誰がしたんだ。」
「橋倉さんよ。」
「あいつ出来るの?」
「そういう事ばかりしていたからね。」
翔のように超絶技巧を求めたりしないし、純のようにメロディーを中心にしたりしない。シンプルでわかりやすいアレンジにしてあった。おそらく子供達も演奏に参加することを前提に書いているのだ。沙夜には出来ないと思う。
「子供が居ないからかしらね。そういう子供の目線で書くことは私には出来ないわ。」
すると芹は少し笑って言う。
「だったら作る?」
「え?」
「子供。」
沙夜の頬が赤くなる。そんなことを朝っぱらから言うと思ってなかったからだ。
「今は無理じゃ無いかしら。」
「そんなこと無いだろう。サブがつくかもしれないって言ってたし。余裕も出来るだろう?そしたらこっちの方の余裕も出来るじゃん。」
こっちというのは芹のことだろう。そんなにおざなりにしていた自覚は無いが、芹にしてみたら寂しかったのかもしれない。仕事ばかりしていた。そして奏太という新たな男が出現したのだ。芹にとっては脅威だったのかもしれない。
「芹。今はちょっと無理かもしれないわ。」
「だったらさ……二人で住むこととか出来ないか。」
「窮屈?ここは?」
「そうでも無いけど。ただ……二人の時間が無いって思って。」
せっかく付き合っているのだから、もっと二人の時間があっても良い。やっと外を出ることも出来たのだ。恋人らしいことをしたいと思う。
「今夜……芹は予定があるの?」
「夜?別に。」
「今日は翔はクラブのイベントだし、沙菜は撮影が長くなるかもしれないって言ってたから、夜は用意しないつもりなの。だから……。」
沙夜の頬が赤くなる。沙夜の方から誘うのは恥ずかしかったのだろう。
「……仕事は何時くらいに終わる?」
「定時には帰れるようにしたいわ。」
「定時って十七時くらいだっけ?」
「えぇ。」
「十八時くらいに駅に居るよ。飯でも行こう。」
すると沙夜は少し頷いた。そして出来上がった生地を、キッチンシートを敷いたタッパーに流し込んだ。そして少し空気を抜くようにトントンと上からたたき落とす。
そして割り箸の敷いている電子レンジにタッパーを入れると、電子レンジの出力を下げて、時間に合わせる。
「ご飯食べましょうか。翔達はまだ起きてこないかしらね。」
「どうだろうな。翔は夕べ遅くまでなんかしてたみたいだし。」
「クラブの音源を作っていたのね。沙菜はもう起きてきても良い頃だけど。」
すると宣言通り、沙菜がリビングに入ってきた。
「おはよう。二人とも早いね。」
「おはよう。沙菜。今日は地方へ行くって言ってたかしら。」
「うん。お弁当用意しなくても良いよ。」
「だと思った。三人分しか作ってないわ。」
いつも通りの会話に聞こえる。だが今夜が楽しみだと思った。普通のカップルのような事が出来る。それだけが嬉しかった。
「そりゃそうよね。」
沙夜はぽつりと呟くと、棚からタッパーを取りだした。そしてその底にクッキングシートを形通りに切り底に敷き詰める。冷蔵庫から卵を取りだして、ボウルにそれを割り、砂糖、バニラエッセンス、蜂蜜を入れると、別のボウルにお湯を入れてその中に卵などが入ったボウルを重ね合わせた。
そして取りだしたのはハンドミキサー。それをコンセントに繋げるとスイッチを入れる。ブンという音を立てながら、ミキサーの先が回っていく。
その時リビングのドアが開いた。そこには芹の姿がある。
「あれ?もうご飯用意したのか?早くない?」
芹は少しあくびをしながら沙夜が要りキッチンへやってくる。
「おはよう。」
「あぁ。おはよう。今日は早出なのか?」
「そういうわけじゃ無いの。これを作りたくてね。」
ボウルの中の卵が混ざっていく。バニラエッセンスの匂いがお菓子を安易に想像させるようだ。
「お菓子?」
「ケーキ。」
「ケーキなんかそんな簡単に作れるモノなのか?」
「作れるの。この間、演歌歌手の方の歌詞を書いたでしょう?」
「あぁ。修正したやつな。」
渡摩季として芹が書いたその歌詞はこの間曲が付けられて、完成したモノが芹と沙夜の元へ送られてきたのだ。さすがに重鎮の演歌歌手だと思う。テクニックもさることながら、表現力が凄い。切ない女性の心を見事に表現しているように見える。
だがその曲は純粋に演歌とは言えないだろう。その歌手にしても、挑戦するような曲だったのだ。
「その歌手の人に会った時、子供さんのお嫁さんが孫を連れて自宅に遊びに来ることがあるんですって。その時、こういうお菓子を用意することがあるって言っていたわ。とてもお孫さんが喜ぶからって。」
「ふーん。そんな風に見えないな。男を手玉に取るような女にしか見えないのに。」
「結婚しても旦那さんが次々に亡くなるって言ってたし、世の中のイメージは魔性の女ってところかしら。」
「そうだな。だからそういう歌詞を書いたつもりなんだけど。」
「実際に会うと普通の女性だったわ。孫がとても可愛い女性。」
表向きの顔しか見ていないので実際はどうなのかはわからない。実際、このケーキはとても簡単に作れると言っていたが、そのお嫁さんにはそのケーキのレシピを教えたりしないのだろう。自分のところに来ればいつでも作って食べさせることが出来るからと、若干したたかな考えがあるのだ。
「これ、卵だけ?生クリームとか入れてないのか?」
「ハンドミキサーでこれだけ泡立つのよ。湯煎しているのも良いのかもね。」
ボウルの中の卵は白っぽくなり、ふわふわと細かい泡が立っている。それから更に泡立てていき、ハンドミキサーを外すと湯煎からボウルを取りだした。
そしてあらかじめ振るっておいた小麦粉を少しずつ卵に合わせていく。そしてへらで混ぜ合わせていくのだ。
「芹。ジャムを出してくれないかしら。」
「俺が作ったやつで良いのか。」
「うん。」
そう言って芹は冷蔵庫からジャムを取り出す。この家ではあまりパンを食べたりしないが、ヨーグルトなんかと合わせて食べたりするので割とジャムが減るのが早い。
「オーブンで焼かないのか?」
「電子レンジで作れるんですって。まぁ……昔はきっと蒸したりしたんでしょうけどね。」
「でも何で急にケーキなんか作っているんだ?」
「今日は練習があるから。」
「あぁ。何だっけ。幼稚園に行って演奏するんだって言ってたか。」
幼稚園での行事の一環だろう。正式に沙夜のところに幼稚園から連絡があったのだ。園長が一馬に話をしていたようだが、その時には「二藍」がどんな音楽を作っているかなどわからなかったのだろう。その園長が実際の音楽を聴いて、不安げに沙夜に聞いていたのを思い出す。
「ハードロックでドラムをドンドン叩かれたり、高いシャウトなんかを出されると子供達が泣いてしまうかもしれないって言われたわ。だから幼稚園の方から遠慮したいと言われたの。だけど、橋倉さんが育児雑誌なんかの連載を持っているし、どんな音楽でも対応するようにすると言ったら、改めて依頼されたわ。」
「どんな曲をするんだ。」
「童謡とかアニメの曲とか。」
「アニメは大丈夫なのか?無償でするわけじゃ無いんだろう?」
金銭が関わると、童謡なんかは著作権が切れているのでアレンジしてそのまま演奏してもかまわない。だがアニメはまだ著作権が切れていないのだ。その手続きもまた沙夜の仕事だったのだろう。
「許可は取ったわ。アレンジした楽譜も送っておいたし。」
「アレンジって誰がしたんだ。」
「橋倉さんよ。」
「あいつ出来るの?」
「そういう事ばかりしていたからね。」
翔のように超絶技巧を求めたりしないし、純のようにメロディーを中心にしたりしない。シンプルでわかりやすいアレンジにしてあった。おそらく子供達も演奏に参加することを前提に書いているのだ。沙夜には出来ないと思う。
「子供が居ないからかしらね。そういう子供の目線で書くことは私には出来ないわ。」
すると芹は少し笑って言う。
「だったら作る?」
「え?」
「子供。」
沙夜の頬が赤くなる。そんなことを朝っぱらから言うと思ってなかったからだ。
「今は無理じゃ無いかしら。」
「そんなこと無いだろう。サブがつくかもしれないって言ってたし。余裕も出来るだろう?そしたらこっちの方の余裕も出来るじゃん。」
こっちというのは芹のことだろう。そんなにおざなりにしていた自覚は無いが、芹にしてみたら寂しかったのかもしれない。仕事ばかりしていた。そして奏太という新たな男が出現したのだ。芹にとっては脅威だったのかもしれない。
「芹。今はちょっと無理かもしれないわ。」
「だったらさ……二人で住むこととか出来ないか。」
「窮屈?ここは?」
「そうでも無いけど。ただ……二人の時間が無いって思って。」
せっかく付き合っているのだから、もっと二人の時間があっても良い。やっと外を出ることも出来たのだ。恋人らしいことをしたいと思う。
「今夜……芹は予定があるの?」
「夜?別に。」
「今日は翔はクラブのイベントだし、沙菜は撮影が長くなるかもしれないって言ってたから、夜は用意しないつもりなの。だから……。」
沙夜の頬が赤くなる。沙夜の方から誘うのは恥ずかしかったのだろう。
「……仕事は何時くらいに終わる?」
「定時には帰れるようにしたいわ。」
「定時って十七時くらいだっけ?」
「えぇ。」
「十八時くらいに駅に居るよ。飯でも行こう。」
すると沙夜は少し頷いた。そして出来上がった生地を、キッチンシートを敷いたタッパーに流し込んだ。そして少し空気を抜くようにトントンと上からたたき落とす。
そして割り箸の敷いている電子レンジにタッパーを入れると、電子レンジの出力を下げて、時間に合わせる。
「ご飯食べましょうか。翔達はまだ起きてこないかしらね。」
「どうだろうな。翔は夕べ遅くまでなんかしてたみたいだし。」
「クラブの音源を作っていたのね。沙菜はもう起きてきても良い頃だけど。」
すると宣言通り、沙菜がリビングに入ってきた。
「おはよう。二人とも早いね。」
「おはよう。沙菜。今日は地方へ行くって言ってたかしら。」
「うん。お弁当用意しなくても良いよ。」
「だと思った。三人分しか作ってないわ。」
いつも通りの会話に聞こえる。だが今夜が楽しみだと思った。普通のカップルのような事が出来る。それだけが嬉しかった。
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