触れられない距離

神崎

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連弾

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 シャワーから上がってきた沙夜は、モスグリーンのワンピースに身を包んでいた。普段は着ないようなそのワンピースはAラインというモノで、本当だったら足首まで丈はあるのかもしれないが、沙夜が着るとふくらはぎほどの丈になるようだ。
「女性モノよね。」
「そうだよ。」
「用意してあったの?」
「そんなわけ無いだろう。隣の同棲カップルの女のヤツだよ。まだ出勤前で良かった。」
「え?」
「デリヘルしてるから。今から出勤するんだと。それより、お前がシャワーを浴びてる間、携帯がずっと鳴ってたみたいだ。」
「え?」
 そう言って沙夜はバッグの中にある携帯電話を取り出す。するとそこには着信もあったが、メッセージもある。相手は芹だった。
「同居人ね。そう言えば食事を用意してくれるって言っていたし……。」
 奏太と出かけることは伝えてある。なので終わったら迎えに行くと言っていたのに、いつまで経っても連絡が無いし雨が降ってきたので、心配になったのだろう。
「帰るか?」
「えぇ。連絡を入れてからにするわ。服はどうしたら良い?」
「返すのはいつでも良いっていってたけど。あぁ、これに濡れたスーツとか入れて帰れば?」
 そう言って奏太はビニールの袋を沙夜に手渡す。すると沙夜は少し笑って言った。
「案外、面倒見が良いわね。あなた。イメージが変わったわ。」
「どんなイメージだったんだよ。」
「自分のことしか考えてないと思ってた。本当、第一印象ってあまり当てにならないわね。」
 その言葉に奏太は少し笑う。
「下心があるのかもよ。」
 その言葉に沙夜はぞっとした。昔を思い出したからだ。
 酔って立つことも出来ない男を、介抱するために一人暮らしの部屋に入った。ベッドに寝かせて様子を見ようとした時、男は沙夜を押し倒して○イプをしたのだから。
 そんなことを奏太がするとは思えない。レ○プなんかには嫌悪感があるのは、喫茶店でそういう話をしたからだ。合意がなければただのレイ○だと奏太はわかっている。だから沙夜は強気になれた。
「私に下心なんて抱いてどうするのよ。」
 ビニールの袋にスーツを入れていると、奏太はベッドから立ち上がり、沙夜に近づいていく。そしてその手を握り立ち上がらせる。
「え……。」
 やっぱりそうだったのか。やはり意識していないとはいえ男なのだ。沙夜の顔色が一気に悪くなる。そういう下心は期待していないのだから。せめて抵抗したい。強気に沙夜はその手を振り払おうとした。
「ちょっと……何……え……。」
 その手を握る力に、沙夜は適わないと思う。こういう状況になったのは、奏太だけが悪いのでは無い。自分がのこのこ一人暮らしの男の部屋に入ったのも悪い。芹になんて言えば良いのだろう。仕事にも差し支えが出るだろう。正直に言ったところで、自分にも非があると言われるのがオチだろうから。
 そのままベッドに押し倒されると思った。だから覚悟をする。だが奏太は少し笑うと、沙夜を椅子に座らせた。
「何……。」
 そのまま椅子を反転させる。すると目の前にはキーボードがあった。奏太は電源を入れると、その音を確かめる。音が押さえられていて、ピアノ音がタッチ音と同じくらいに聞こえるくらい小さな音だった。
「一曲弾けよ。何でも良いから。譜面があった方が良いかな。」
 そう言って奏太はその場を離れて、備え付けの棚から楽譜を取り出す。沙夜はシンプルな曲が好きなはずだ。あのコンクールでも選んだのは、有名な月夜の楽譜でその気になれば高校生くらいの人だって弾けるようなモノだったのだ。超絶技巧を駆使したような曲の方がグランプリを取りやすいと言うことは、あまり気にしていなかったのかもしれないが、そもそも沙夜はそういう曲の方が好きだったのかもしれない。
「どれが良い?」
 数種類の楽譜を差し出されて、沙夜は少し驚いたように奏太を見る。
「私にこれを弾けと?」
「そう。コンクールで聴いて以来だったかな。あの時からお前、コンクールなんか出なかったし。就職活動していたからか。」
 グランプリなんかは最初から狙っていなかったはずだ。だからこういうシンプルな曲を選んでいたのだ。
「……どれと言われても……。」
 戸惑いながら楽譜を手にする。書き込みが多い楽譜なのは、それだけ奏太が練習をしていたからだろう。
「選べないならこっちで選んで良いか?俺、この曲好き。」
 そう言って奏太は一枚の楽譜を選んだ。オーケストラとのコンチェルトの曲を、ピアノ譜にしたもので有名な北の国の作家のモノだった。
 対して沙夜はあっけにとられている。奏太が沙夜の体などを見ていなくて、ただピアニストとして見ていただけだ。意識をしていた自分が馬鹿らしく思える。そう思って少し笑った。
「そうね。あなたが主に弾いてくれないかしら。」
「俺が?」
「えぇ。それを私がアレンジして弾くから。」
 そう言えばそうだ。沙夜は楽譜がつまらないと言ってアレンジするような女なのだ。楽譜を素直に弾くと思えない。それを奏太が弾いて、そのアレンジを沙夜がする。そっちの方が自然だろう。
「そうか。わかった。」
 席を変わると、奏太はキーボードの前に楽譜を置いた。そしてその曲を弾いていく。ゆっくりした曲で、とてもメロディが綺麗な曲だった。
 作曲をした人は、この曲を自分の好きな人に当てたのだという。だがその好きな人には旦那がいた。自分は弟子の身分でその気持ちを伝えることは出来ない。だがその曲でせめてその気持ちを伝えようとした。
 噂ではその男と、既婚者であるその妻は師匠である夫を裏切り、ずっと関係を持っていたのだという。だがその夫が自殺をして、妻は自分は何だったのだろうと思うようになり、その夫の遺産を持ってその男からも姿を消して田舎に引きこもったのだという。惨めなのはその男だろう。
 男は生涯、独身を貫いた。その妻が忘れられなかったのかもしれない。その妻に宛てて書いた曲がこの曲で、それは奏太にも通じるモノがある。
 沙夜には恋人が居るらしい。その恋人に自分が嫉妬しているのだろうか。そう思っていた時だった。
 音が重なる。沙夜が音を足したのだ。決まった曲に答えるように音を足していく。まるで愛を伝えていることに答えているように。
「私も愛している。」
 そう言われているようだった。実際はそんなことは無い。沙夜が見ているのは恋人なのだ。シャワーを浴びている間に連絡を取ろうとしていた恋人。束縛が激しいのでは無いか。少し連絡が取れなかっただけで、着信やメッセージを送ってくるような相手で本当に沙夜が満足しているのだろうか。それだけが頭を占める。
 そして曲が終わると、奏太は一息ついた。そして沙夜の方を見る。沙夜も少し高揚しているように頬が赤い。
「気持ちよかった。」
「えぇ。それは私もそうよ。」
 沙夜はそう言って少し笑う。しかし奏太の方を見ない。楽譜をそのまま手にすると、沙夜は少し笑った。
「練習をずっとしていたのね。ほとんどこれを見なくても弾けていたみたい。ページをめくらなくてもわかっていたみたいだわ。」
「あぁ。これをコンクールなんかで弾くことは無かったけど……。」
 この曲を勧めてきた外国の教授が言っていた。その教授は奏太に心がない演奏をすることを見抜いていて、「いつか好きな人が出来たら、この曲の意味がわかるはずだ」と言ってきたのだ。それを聞いた時、そんな臭いことが自分に出来るはずが無いと思っていたが、今、実際そうしている。
 自分が沙夜を好きなのかどうかはわからない。しかし触れたいと思った。童貞ではないし、恋人が居た時期だってあった。それなりに好きだったが、この感情異常では無い。
 ピアノを弾きあった同志以上の感情がある。そう思った時だった。楽譜を手にしている沙夜の手を掴む。その衝動で楽譜が床に落ちた。
「え……。」
 椅子から立ち上がり、そのまま沙夜の後ろ頭に手を伸ばす。そしてそのまま沙夜を自分の体に倒した。ぎゅっと抱きしめるように。
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