触れられない距離

神崎

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イチゴジャム

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 華やかな町はファッショナブルな人が通り過ぎる。色とりどりの春らしい服を着て、流行っている生クリームなんかが載っている飲み物を手に、楽しそうに話をしていた。それを横目で見ながら、沙夜はいつも通りのビジネススーツの姿でその人波をかき分けていく。何かの営業マンだろうか。そう思われたが、それでもかまわない。
 沙夜はそのまま細い路地を行く。そしてたどり着いたのは練習スタジオだった。会社が運営しているスタジオもあるのだが、今日は練習と言うことでこのスタジオを借りたのだ。領収書さえ出せば、経費として落としてくれる。
 まさかこんなボロボロの練習スタジオに「二藍」が居るわけが無い。そう思われていたようだ。だが五人にとっては思い出深いスタジオでもあり、たまにここを予約するのだ。
 バンド名では無く会社名で予約をしている。それは痴情にもスタジオはあったが、主にそのスタジオは地下を予約することが多い。壁に貼られているのは、インディーズのバンドの名前やライブの告知。その中に「二藍」の名前もある。メジャーデビューしたからといって、のんきに過ごしていたわけでは無い。こうして少しでも知名度を上げようとしていたのだ。やがてそれは実になる。
 今や「二藍」は押しも押されぬバンドになった。その分、噂が噂を呼んでいるようだが、一つは疑いが晴れて沙夜はほっとしている。
 一馬の文書は案外効果があった。一馬は帽子をかぶることは無くなり堂々と表を歩けるようになり、奥さんも子供も精神的に落ち着いたようだ。そして息子が通う保育園で演奏をするということまでするらしい。聞いたときには驚いたが、それでもきっと柔軟にやってくれるだろう。音楽的なセンスはあるのだから。
 そう思いながら沙夜はその地下のドアを開く。外に漏れないように二重にしているドアの一つ目を開けると、音が漏れてきた。そして二つ目のドアを開けると音と歌声が聞こえる。それはメロディーは加藤啓介の「薊」だった。だがアレンジが違って、テンポが少し早い。そして遥人の歌い方もいつもの「二藍」の歌い方とは違う。
 甘くねっとり歌うような啓介に比べて、遥人の歌い方は少しさっぱりしているようだ。愛を語るその歌は、しつこいような歌では無くもっとライトに愛を語っているように感じた。それは少し芹に似ていると思う。
 芹は滅多に口にしない。恥ずかしいからだろう。それでも沙夜には伝わってくる。誰よりも大切にしてくれていると、体で繋がらなくても心で繋がり合っている気がするから。
 すると音が途切れる。すると一馬が声を上げた。
「翔。その音は余計だ。」
 翔はその言葉に首をひねりながら言う。
「そうかな。シンプルだから、少しくらい飾りがあった方が良いと思うけど。」
「耳に付く。それから治もシンバルの響きを押さえられないか。」
「ハイハット?」
「あぁ。」
「OK。わかったよ。」
 その会話を聞いてわかった。このアレンジが誰がしたのか。翔ではこんなにシンプルに仕上げない。純であればおそらく加藤啓介のアレンジに沿うだろう。だが加藤啓介の良さも残しつつ、自分たちの良さも主張している。一馬がアレンジしたモノは初めて聴くかもしれない。
「あ、沙夜さん。来ていたんだ。」
 遥人が気がついて、沙夜は少し笑う。
「様子を見に来たのよ。新曲のレコーディングは終わったから、もう「薊」に手を付けてあると思ってね。」
「どうだった?一馬のアレンジ。」
「良いわね。目立ちそうな一曲になりそう。」
「沙夜さん。言うことがあるだろう。」
 一馬がそう言うのは、沙夜の耳には何か違って聞こえているかもしれない。そう思ったが、沙夜は首を横に振る。
「全部聴いているわけじゃ無いからね。何ともまだ言えない。でもワンフレーズ聴いただけで何となく良いなとは思うわ。」
「そうか。だったら初めからしよう。」
「また?少し休憩しようぜ。」
 ついに純がへたばってしまった。練習を始めてもう2時間が経っているからだろう。同じ曲を何度も演奏しているのだ。それに飽きてきたのかもしれない。
「わかった。じゃあ、そうするか。沙夜さんは時間があるのか。」
「えぇ。大丈夫。お茶でも買ってこようか。」
 すると翔がキーボードの電源を切って、沙夜に言う。
「俺、一緒に行くよ。一人じゃ持てないだろうから。」
「そう?だったらお願いしようかしら。」
 そう言って翔は沙夜のあとを付いていくように、スタジオの外へ出て行った。
「翔は必死だな。」
「取り返そうと思ってるみたいだ。」
 そんな治と遥人の話を聞いて聴かないふりをしているのが一馬だった。正直、今回は沙夜に世話になったのだ。だから沙夜の想う人と一緒になって欲しい。それはつまり芹なのだ。翔では無い。だが翔はずっと「二藍」として一緒に演奏をしている。翔にも幸せになって欲しいと思っていた。
 そう思いながらベースを立てかける。初めてか問う啓介の前で「薊」を演奏したとき、エレキベースよりもダブルベースが良いと言ってきたのだ。今回もそうしたいと思う。

 練習スタジオの外に出ると、すぐ側にコンビニがある。そこに沙夜と翔の二人で行き、雑誌のコーナーを横切った。すると週刊誌の見出しに、加藤啓介の元奥さんである貴理子の話題が目に付いた。
「この人さ。」
 翔はそう言うと、沙夜もその雑誌に目をとめた。
「どうしたの?」
「凄い今叩かれているよね。」
 一馬が文書を発表したほどからか、貴理子の事が公に出た。まず、貴理子が加藤啓介の妻だった頃から浮気の相手をしていたホストが名乗り出る。そこから大学の時に貴理子から二股三股された男。乱交パーティーの主催を大学の時からしていて、それは定期的に行われていること。
 そして今の話題には、男関係では無く脱税の疑惑があると書かれている。それはテレビに出ていたときのモノだった。すでに手元だけでは無く顔も晒され、おそらく貴理子は表を歩けないだろう。
「自業自得というか。」
「メディアを敵に回したら凄いことになるね。」
「千草さんは暗いところは無いの?」
「無いね。もう無くなった。」
「え?」
「志甫にこの間会ってさ。この間の南の島で会ったときには、表面上だけでも冷静になっていたつもりだったよ。だけど……二人でこの間会ったんだ。」
「会った?」
「偶然だよ。K町のクラブに呼ばれて、打ち合わせの帰りに。」
「あぁ……。」
 そういう事はあるだろう。まだ志甫は「Flower's」に籍があるのだから。
「びっくりするくらい自分でも冷静になれたと思う。話しも出来た。あの時、どうして志甫と別れてしまったのかって、理由だってちゃんと言えたんだ。」
 それは志甫も翔も、お互いに恋愛感情がもう無いからだ。だから冷静になれたのだろう。志甫にも非があることがわかるから。
「理由って何?」
「自分の考えを押しつけすぎなんだよ。「普通」って言われても俺には違和感しか無かったから。沙夜にも俺にも志甫にもみんなの「普通」があって、それを押しつけるのは違うと思う。」
「そうね……。」
 それがわかっているなら、どうしてあの南の島でキスなんかしたのだろう。自分の気持ちだけを押しつけるような真似をして、芹に気持ちが剥いていることも無視して。結局翔はそう言うところが変わらないのだ。
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