触れられない距離

神崎

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豆ご飯

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 子供はどちらが保育園に連れて行くという決まりは無く、今日は一馬が子供を保育園に連れて行った。そこではいつも一馬は人気者で、子供達からよじ登られたり長い髪を引っ張られたりするのだ。しかし子供は嫌いでは無い。悪い気はしなかった。
「花岡さん。」
 今日も子供を送ってしばらくそうやって他の子供達が遊ぼうとしていたのだろう。だが今日は園長らしい女性から声をかけられた。
「どうしました。」
「ミュージシャンをされているんですよね。」
 この園長先生は、おそらく「二藍」なんかは聴いていないように思える。一馬の顔を見てもピンときていなかったからだ。
「はい。そうですが。」
「今度、子供達の卒園式がありましてね。その前にお別れの会をするんですよ。そこで何か一曲披露出来ませんかね。」
「あぁ。そういう事は事務所の方へ言ってもらえますか。俺の一存では良いですよとも言えないし。」
「そうでしたね。そしたら、事務所の連絡先を教えてもらえませんか。」
 すると他の保母さんが、園長に話しかける。
「園長。「二藍」っていうバンドはハードロックなんですよ。子供達のための音楽なんて……。」
 すると一馬は手を振って言う。
「あぁ、その辺は気にしないでください。柔軟に対応をするつもりです。なんせ、子育てをする雑誌なんかにも顔を見せるメンツがいますから。」
「あら。そうでしたの。どちら様かしら。」
「橋倉といいます。ドラムをしていてうちのリーダーですね。」
「あら、橋倉治さん?あの子育ての雑誌に連載されている子供向けの音楽のふれあい方の指導は、うちでも凄く参考にさせてもらっているんですよ。あぁ……そうでしたら、尚更お願いしたいですね。」
「とにかく事務所の方へ声をかけてみてください。これがレコード会社への連絡先です。そこの担当は泉といいますので、話をしてみてください。」
「わかりました。ありがとうございます。」
 営業向けのレコード会社への連絡先の書いている名刺を持っていて良かった。こういう時に役に立つのだ。
 そう思いながら保育園を出て、駅の方へ向かう。朝のK町はとても静かだ。夜の喧噪が嘘のように思える。だがその中で一馬は育った。K町から僅かに離れている小学校へ通い、それから中学になるとダブルベースを背負って学校へ行っていた。女子では二人がかりでしか持てない楽器だが、一馬はその頃から体が大きくて一人で持ち運びをしていたのが良かったのだろう。体作りにそれも繋がったのだ。
 高校生らしい男の子が自転車に乗って行ってしまう。まだここには住んでいる人が多いのだ。夜の町だけでは無い。
「一馬。」
 声をかけられて、一馬は後ろを振り返る。そこには天草裕太の姿があった。
「裕太。朝帰りか。」
「ちょっと飲み過ぎたよ。」
 家には子供も居れば奥さんも居るだろうに、繁華街に朝までいるのは頭がどうにかしているのでは無いかと思う。一馬も朝に帰ることはあるが、それは付き合いであったり仕事だったりする。なるべく家には帰るようにしていた。
「それで良く奥さんが怒らないな。」
「年中ヒステリックだよ。真面目にしてても針の穴をつつくようなことを言ってくるし……。だったら不真面目で怒られた方がまだましかな。」
 あまり反省はしていないようだ。だから呆れられているのだろう。
「夜に文書を発表したって言ってたな。」
「あぁ。俺は文才が無いのかな。丁寧な言葉を選んでいるつもりだったが、やはり修正は多かった。」
「でも……あれって本当なのか。」
「何が?」
「奥さんと子供しか見てないって……みんなそう思ってないんじゃ無いのかって思ってさ。」
「叩いてもそれしか出てこない。元々女と話すのは苦手だ。」
「泉さんとは話をしているだろう。」
「担当だから話しているだけだ。」
「それにしては……。」
 そう言って裕太は携帯電話を取りだした。そしてその画面を見せる。するとそこにはいつか一馬が沙夜に電車で会い、一緒に駅のホームを降りた後ろ姿があった。
「親しそうだな。」
 すると一馬はため息を付いて裕太に言う。
「担当と電車で会って、話をして、駅の改札口まで行く。それが何のやましいことがあるんだ。」
「誰が信じるかよ。あんな文書を公表したあとで、こんな画像が流れたりしたら……。」
「流れたところで何がある?」
「え?」
「担当が女性だから疑っているのか。だったら男だったら良いのか。もっとも男だったら、そっちの趣味があるとまた噂をされるだろう。だったら誰を担当にしても同じだ。」
「……。」
「「Harem」には担当は居ないのか。」
「いるけど……ここまでべったりはしてない。」
 元々「Harem」の担当は掛け持ちの男がいるだけだ。あまり仕事が無い「Harem」ではそれくらいで事足りるのだろう。
「もし、それが流れたとしてもやましいことは一切無い。」
「断言出来るんだな。」
「誰も泉さんには手を出すことは無い。」
 一馬はそう言って、肩に背負われているベースを持ち直した。
 その態度が悔しいのだ。自分だけが聖人君子で、努力していると思っている。自分だってそうしているつもりなのに何か空回りをしているように感じるのは、気のせいなのだろうか。
 いや。そうじゃない。「二藍」が邪魔をしている。だから落とすつもりだったのだ。それなのに一馬も「二藍」も全く落ちようとしない。
「あぁ。そうだ。」
 駅の前について、一馬は裕太に言う。
「貴理子さんはもうあまり他の人も相手にしていないみたいだな。」
「え?」
「あの人が虚言癖があるのは、ジャズ研の中でも有名だっただろう。自分が誘って先輩の……誰だったと寝たのに、彼女にばれるとその先輩が誘って来たって言って部の中を混乱させていたのはしょっちゅうだ。」
「……。」
「あんな態度ではこれから誰も相手にしないだろうな。」
 一馬はそう言うと、駅の改札口へ向かっていく。その言葉に裕太は心の中で嵐を吹かせていた。どこまで一馬が知っているのだろうと思ったからだ。
「一馬。路線ってどっちだ。」
「こっち。」
「そっか。俺はこっちだから、またな。」
「あぁ。」
 一馬はそう言って別のホームへ向かう。まだ裕太は何か思っている。人を押しのけることしか知らない男なのだから、仕方ないだろう。だがそのしっぺ返しが徐々に自分に降りかかっているのはわからないのだろうか。
 あんな写真を見せてきて、脅すつもりだったのだろうか。マスコミに流して、文書が嘘だったと言わせたいのだろうか。そんなことをしても無駄だ。
 ちらっと携帯電話の時計を見る。まだ約束の時間まで時間があるようだ。妻が勤めている洋菓子店はもうそろそろ開店するだろう。仕事の前にコーヒーを買っていきたい。その時に何か差し入れでもしようか。店にも迷惑をかけたのだから。
 そう思いながらホームへ一馬は足を踏み入れていた。
 それから沙夜に連絡を入れないといけない。園児向けの音楽をする。これは一馬にとっても初の試みだった。だからこそやる気が出てくる。
 子供は正直だ。つまらなければつまらないと言うし、楽しければ大騒ぎをする。実は子供が一番リスナーとして怖いのだから。
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