触れられない距離

神崎

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豆ご飯

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 一馬の出身はK町。小さい頃は剣道をしていたが、中学になると剣道部がないし球技なんかにはあまり興味が無かったので、思い切って吹奏楽部に入ったのだという。そしてそれに見事にはまり、高校生になっても剣道部はあったのに結局吹奏楽部に入ったのだという。
 そこで出会ったのがこの鈴子という女性だった。一馬はコントラバスを担当し、鈴子はパーカッションを担当していた。それと同時に鈴子は、ピアノをしていたのだという。だから大学も一馬と同じ大学だが、専攻はピアノだったらしい。
「ピアノだったんですね。だからこのグランドピアノを?」
「そう。ピアノ教室をしているの。今日は十七時に来てくれる。」
 この高級住宅街では、ピアノを子供に習わせたいという人は多いだろう。ピアノ教室をするときには家事に手が回らないので、お手伝いとして美鈴という女性が来てくれているのだ。今日も教室をする予定だったが、一人キャンセルになったので、沙夜を呼んだのだという。
「それなのに子供さんはピアノをしないんですね。」
「そうよ。息子が二人居るんだけど、長男は野球だし、次男はバスケだし……誰もピアノをしようとは思わないみたいで。今は学校へ行っているんだけど。」
 一馬と同じ歳だということは鈴子はおそらく三十くらいだろう。それなのにもうしっかり子供が居て、学校に通うくらいの子供が居るのだ。
「ん?花岡さんと同級生だといってましたよね。」
「そうよ。」
 計算が合わない。一馬と別れたのは大学を卒業してからだと言っていた。それから急いで結婚をして子供を作ったとしても、小学校へ上がるような子供は出来ないはずだ。
「あぁ、息子二人は旦那の連れ子なのよ。もう一人子供が下に居て、その子はあたしの子供。今は保育園へ行っているわ。」
「そうだったんですね。」
 それなら納得する。そう思いながら紅茶に口を付けた。とても香りが高い紅茶だと思う。
「あぁ、そうだ。美鈴さん。ちょっと祐助を迎えに行かないと。」
「私が行って来ましょうね。お二人はごゆっくりしてください。」
 そう言って美鈴と言われた女性はそのままリビングを出て行く。そして玄関のドアが閉まった音がして、鈴子は立ち上がる。そしてソファーの下を探った。
「あったわ。ったく……やはり食えない人ね。」
 そう言って鈴子が取りだしたのは小さなボイスレコーダーだった。
「ボイスレコーダー?」
「一馬の話を聞きたいって来たでしょう。泉さんが。だからそのネタを売ろうとしてたのよ。美鈴は。」
「……え?」
「そういう人なのよ。良かったわ。これで決定的な証拠が取れた。辞めさせる口実が出来たわね。」
 表面的には良好な関係に見えただろう。だがこういう人なのだ。鈴子はこういうことばかりをして外からやってくる人達を追い出していたのだろう。
「いつか祐助を誘拐するんじゃ無いかと思うけど、そこまでしたら犯罪だしね。」
「あの……失礼ですけど、ご主人はどのような仕事に?」
「あぁ、坂本組の若頭なのよ。」
「ヤ○ザですか。」
「そう。怖い?」
 だが鈴子を見てもピンとこない。本当にヤク○の姉さんがここに居ると思えなかった。
「別に。」
「正直ねぇ。気に入ったわ。」
 鈴子はそう言ってお菓子を勧めてくる。それは沙夜が持ってきたモノだった。
「それで……花岡さんとお付き合いはどれくらいしてたんですか。」
「高校生の頃から、大学卒業してすぐ別れたの。自然消滅みたいな。」
「大学も一緒の大学へ?」
「えぇ。」
 お菓子の入っている袋を破り、鈴子はそれを口に入れる。そして思い出すように言った。
「プロデビューしたいと言ってきたわ。でもあたしはそのバンドのメンツを見て、辞めておいた方が良いと言ったの。」
「実力不足だからと思ったからですか?」
「いいえ。そうじゃないわ。一馬を除いたあの四人はあまり上等じゃ無いと思ったから。第一お金にだらしないと思ったし。」
 ○クザの家に嫁いできたような女性なのだ。それくらいはわかるのだろう。
「あいつ……サックスの男だけどさ。」
「えぇ。」
「あいつ、あたしをレイ○しようとしたのよ。ふざけんなって蹴り飛ばしてやったけどね。」
「本当ですか?」
「本当、腹立つわ。」
 今そんなことをしたらどんな目に遭うかわからないだろう。そしてそれを過去とはいえ鈴子が夫に話をしたら、本当に海の底に沈められるかもしれない。
「今もテレビで見ることがありますね。」
「だからよ。すぐにチャンネルを変えたりするわ。それから天草裕太も腹が立つ。」
「天草さんも?」
 すると鈴子は冷静になろうと紅茶を一口飲んだ。そしてため息を付いて言った。
「裕太はやたらあたしに突っかかってきてさ。同じピアノ科だったからかもしれないけれど。一馬にいらないことを吹き込んでいたみたい。根も葉もないことを言って喧嘩でもさせようと思ったのかしら。」
「そうすればコンクールでも正常に演奏が出来ないからとか?」
「えぇ。その通りよ。」
 そんな頃から汚い男だったのだ。
「それでも一馬はあたしを信じてくれてた。あたしが浮気をしているっていう話を天草から聞いても、あたしの口からそうだと言わない限り信じなかったのよ。」
 一馬は一途だったのだろう。そしてその態度は今でも変わらない。
「デビューしてしばらくしてあたしは一般職に就いたの。一馬とはそこで自然消滅みたいな感じになって、そのすぐあとに夫と出会って、結婚したの。まぁ、子連れだったしバツイチだけど、好きにさせてくれるからね。ピアノ教室もさせてくれるし。」
 少し笑い、鈴子は紅茶のカップに口を付ける。そして沙夜もまた紅茶に口を付けると、鈴子に一番気になることを聞いた。
「あの……一つ良いですか。」
「何かしら。」
「花岡さんはその……性欲が強いみたいな事を言われていると思うんです。前のバンドの時にもそれが元で解散したとか。」
 すると鈴子は手を振ってそれを否定した。
「そんなわけは無いわ。一馬と最初にあたしが寝たのは大学に入ってからよ。高校の時は手すら繋がなかったんだから。あたしから手に触ったら、女から責めるようなはしたないことをするなと言ってきたし。」
「はしたない……。」
 今の一馬を見てもそれを言いそうだと思い、沙夜は少し笑った。
「バンドが解散したきっかけがサックスの人の彼女を寝取ったからって言う噂もあるわね。でもそれは、多分、逆恨みでしょ?」
「やはりそう思いますか。」
「えぇ。K町で育っている。と言うことは酒で失敗する人、ギャンブルで失敗する人、女で失敗する人。そんな人を見ながら育っているのよ。だから人につかず離れず。そういう人間関係を築いてきたのだと思うわ。でもそれってバンドとかでは壁があると思われても仕方が無いと思う。」
「……。」
「その逆恨みをされて、それにまんまとはめられた。でも元々は一馬も人を見る目が無かったとも言えるわ。今はどうかしら。」
「今は腹を割って話せるバンドメンバーのようです。それから良いご縁もあって奥様と息子さんの三人家族で過ごせています。」
 それだけは沙夜にも言える。一馬は心から四人を信頼しているようだった。
「良かったわ。でもそれだけ一馬も変わったと言えるわね。」
「え?」
「他人を変えようとするのでは無く、自分が変われば良い。つまりもっと人に頼ればいいと思ってたの。そんな相手が出来て良かった。何より、今の一馬を見ていると生き生きしているのがわかる。大学の時にはしていなかった表情だったわ。」
 あんな顔をしていたから、一馬を好きになった。だが一馬よりも好きになった人が出来てその人と鈴子は結婚したのだ。
「ところで、その一馬の奥様って言う人は一馬についていけてる?」
「どういう意味ですか?」
 沙夜がそう聞くと、少し鈴子は笑って言う。
「だってねぇ……。一馬と初めて寝たときに、力任せにガンガン責めるような真似をするし、無駄に体力もあるもんだから何度も付き合わされてね。」
「あぁ……大丈夫ですね。その辺は。夫婦仲は良好です。もう一人子供が欲しいと今は躍起になったますが。」
 その言葉に鈴子は笑いを堪えきれなかったようだ。だが玄関のドアの音が聞こえて、すっとその笑顔が無くなる。そしてテーブルに置かれているボイスレコーダーを手にすると、リビングを出て行った。
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