触れられない距離

神崎

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豆ご飯

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 女の声に聞き覚えがあった。そしてその女を止めているのだろう。社員の男達の声が聞こえた。
「柴田。出てきなさいよ!なんであたしに黙ってトリビュートアルバムなんかの話をしているの!あたしは遺族よ。遺族の許可も無しになに勝手なことをしているの!」
「貴理子さん。もうあなたは遺族じゃ無いでしょう?離婚も成立していて、何を勝手なことを言っているんですか。」
「そんなの書類上だけの話じゃ無い!加藤はあたしだけを愛していたのよ!ちょっと……何よ!引っ張らないで!」
「警察を呼びますよ!」
「警察?上等じゃ無い。あんた達の汚いやり方に反発したって言うんだから。困るのはそっちよ!」
 その言い争いに治はため息を付いた。
「派手な人だな。話には聞いてたけど。沙夜さんは葬儀の場にいたんだっけ。」
「葬儀というか、通夜ね。その場にも乗り込んでたわ。」
 ずいぶん勝手な人だと思った。加藤啓介の病気が判明して、さっさと荷物をまとめたのだ。介護をするために嫁に来たわけでは無いと言って。
 一人になったと聞きつけた一番最初の妻が心配で、加藤のマンションへやってきた。元々あった自宅兼スタジオは、貴理子に渡したのだという。それで離婚が成立したのだという。もっとも、その自宅も売り払われたらしい。
「柴田さん。トリビュートアルバムの話しも良いけど、あの問題が解決してからの方が良いんじゃ無いのか。」
 誠はそう言うと、柴田は少し頷いた。
「そうですね。ですが、今の奥さんのことを思うとそうも言っていられなくて。」
「え?」
 毎日マスコミに追われているという。それは息子もその状態だった。ずいぶん疲弊して、二人とも体重が相当落ちたという。なのにまだ加藤の遺産の話や、荷物の整理などは終わっていない。
「出来るなら……希望を持たせたいと思ってましてね。」
「希望?」
 柴田はそう言って頷く。
「甘いかもしれませんが、奥さんは加藤がもし歌手では無ければ、バンドを組んでいなければ、一般的な職に就いていたら、死んでもこんな騒ぎにならなかったのにと言っていました。でも……加藤が音楽を作って、その音楽がみんなに愛されているからこうしてみんなで集まったんだと思って貰いたいと思うんです。」
「……。」
 加藤啓介のためだけでは無く、奥さんや息子のためでもあったのだ。それがわかり誠は少し頷いた。それくらいの心は持っていたのだろう。
「だったら尚更、この問題は解決をしないといけないでしょう。柴田さん。そのアルバムが出る前に、何かしらの手を打った方が良いと思いませんか。」
 誠がちらっと沙夜の方を見る。一馬の方から何か言えないかと思ったのだろう。
「そうしましょう。花岡さん本人と、会社にもまた話を通してみます。」
 沙夜はそう言って手帳を開くとメモをした。確かにこのままマスコミから逃げ回っていても仕方が無い。この分だと、ライブやフェスにも影響があるだろうから。

 打ち合わせが終わり、帰ろうとしたときだった。谷川芙美子から、治は呼び出されて少し話を始めていた。その様子に、沙夜は携帯電話の時計を見る。治はこれから出版社で出向かないといけない。その時間までには少し余裕があるようだが、あまり時間を取らせても悪いだろう。そう思っていたときだった。
「泉さん。ちょっと良いですか。どうです?コーヒーでも飲みませんか。」
 柴田に自販機を指さされて、沙夜は少し頷いた。
「缶コーヒーは苦手なので、お茶にします。」
「そうなんですか。いや……前もコーヒーを飲んでいたみたいだから、好きなのかと思ってましたよ。」
「コーヒー自体は好きですね。」
 一馬の奥さんが淹れるようなコーヒーなんかを毎日要求するわけでは無いが、缶コーヒーはあまり好きでは無いのは事実だ。その辺は遥人とよく似ていると思う。
 赤い自動販売機の前で、柴田はコーヒーを買い、沙夜はお茶を買った。冬の寒さは和らいでいるとはいえ、冷えたお茶は好みでは無い。そう思いながら温かいお茶で指先を温める。
「実はですね。あの場では言わなかったんですけど、今度のトリビュートアルバムの中に、本当は「Harem」を入れるつもりだったんですよ。」
「え?」
 天草裕太のバンドを入れるつもりだったのか。しかし「Harem」はどちらかというとテクノに近いような音楽を作るのだ。バリバリのロックである加藤啓介の音とは全く違う。それでもジャズやシャンソンにしたいという芙美子の音楽よりは離れていない気がするが。
「それも上が相当押してきてですね。結局流したんですけど。」
「流したというのは、「Harem」を入れなかったと言うことですよね。」
「えぇ。実は、「Harem」を押してきた上司というのが、「Harem」のメンバーに脅されていたとか。」
 天草裕太ならそれくらいしそうだと思った。
「私情を仕事に入れるような真似をするんですね。」
「そうです。なのでその上司は左遷されましてね。「Harem」もこの中には入らないようになったんですけど。そしたら、今度はこういうメッセージが届きましてね。」
 携帯電話を取りだして、その画面を見せる。すると今度は参加するメンバーの事のあること無いことを送ってきたようだった。
「差出人は?」
「それが……外国のサーバーを使っているらしく、誰が送ったのかはわからないんですよ。」
 その画面を見ると、「二藍」のことも書いてあった。それは一馬のことだ。一馬が貴理子と関係があったように書いている。
「……花岡のことが書いていますね。」
「これは真実なんですか?」
「あったとしても学生の頃のことでしょう。今現在繋がりがあるとは思えません。花岡さんは割と子煩悩ですし、奥さんが好きでたまらないそうですから。」
「しかし今この噂が流れたら、花岡さんは更に苦しい立場になるでしょう。それにこれはどこの誰が送ったかわからないし……もし、マスコミなんかにばれたらと思うと恐怖です。」
「アルバム自体の規格が無くなりそうですね。」
 これを送った人物の想像は出来ているのだろう。だがそれに確証は無い。だが疑わしいと思うから、最初に「Harem」の名前を出したのだ。
「先手を打ちましょう。」
「先手?」
 沙夜はそう言って、その携帯電話の画面から目を離した。
「各所に連絡をして、この噂が真実なのかデマなのかを調べて貰います。うちは花岡のことですね。大学の時の同期なんかに話を聞いてみます。」
「良いんですか?」
「このアルバムだけの話では無く、花岡の素行も調べて公表をすることが必要だと上からもずっと言われていましたから。」
 貴理子とは大学の時も繋がりは無かった。そして今でも繋がりは無い。それを書面にして各所に配る必要があると思った。そうでは無いと、これからの活動にも支障が出る。
「……花岡さんってのは元々その……。」
 一馬が性欲が強いというのは、みんなが知るところだった。それを今になって払拭しているのは、結婚して子供が出来て幸せな家庭を築いているイメージがあったからだろう。
「花岡は結婚して結構経ちますけど、子供はまだ一人ですよ。」
「はぁ……。」
「本当に性欲旺盛だったら、もう二,三人子供が居てもおかしくないと思いませんか。しかも相当女性に対して奥手ですからね。余所に女が居るというのも信憑性が無いんです。」
「それは泉さんが知らないわけでは無く?」
「……あまり言いたくは無いんですけどね。私の妹は他人とセックスをしてそれを映像にするような仕事をしてましてね。」
「はぁ?」
 驚いて思わずコーヒーを吹きそうになった。柴田はその言葉に、沙夜をもう一度改めて見る。
「スタジオで何度か顔を合わせたことがあるんですよ。でもうちの「二藍」のメンツは全く興味を示さなくて、特に花岡さんは怪訝そうな顔をしてました。」
 沙菜はプライドを傷つけられたと、最初は憤慨していた。人の夫だろうと、童貞だろうと、全ての男が自分に振り向くと勘違いをしていたのだろう。
「そこまで公表するつもりですか?」
「冗談を。元々プライベートはあまり話さないバンドですから。だから各所に話を聞きたいんです。第一、私の身内のことも話したくはありません。」
 インターネットの噂になっていることなのだ。それは噂であり、もう聞いて聞かないふりをするしか無かった。それをあえて否定すれば火に油を注ぐことになる。
「だから柴田さん。この話は公にしないつもりです。話をしている人もほとんど居ません。ですから、どこから漏れたかという話になったら真っ先にここを疑いますから。」
 その言葉に柴田は苦笑いを浮かべた。そして胸に入っているボイスレコーダーの録音を止める。
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