触れられない距離

神崎

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豆ご飯

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 米をといで、少しざるにあげて置いておく。
 その間に食洗機が終えた食器を片付けた。テーブルの上には、翔の食事だけが残っている。まだ翔は帰ってきていないのだ。沙夜は少し不安そうに時計を見た。
 最近、「二藍」の五人は、一馬から加藤啓介のことを何か聞いていないかと、マスコミが近づいているらしい。だが最近は個々の仕事が忙しい。遥人はドラマなどで撮影スタジオへ行くことが多いので、マスコミも張り付きやすいらしい。だが遥人は芸能事務所が付いている。なので沙夜はそちらに任せていた。
 あとの四人はインタビューやイベント、レコーディングや楽器のメーカーへ出向いたりとどこに居るのかは想像が付かないだろう。だが今日の翔の仕事はK町のクラブでのイベントの打ち合わせなのだ。マスコミも翔に近づきやすいだろう。それで捕まったとしたら、翔はきっぱりと「知らない」と言えるだろうか。
 それが不安だった。前に治からもいわれたことがある。翔は五人の中で一番この世界に入って期間が無い。その上割とぼんぼんな所がある。詰め寄られると上手く受け答えが出来ないのだ。
「姉さん。お風呂上がったよ。」
 すると後ろから沙菜が風呂上がりにタオルを頭に巻いて沙夜に声をかけてきた。
「ごめん。今日は芹を先にお風呂だって声をかけてくれる?」
「どうしたの?」
「ちょっとやることがあってね。」
 沙夜の視線の先には翔の食事がある。つまり、沙夜は翔を気にしているのだ。それをみて沙菜はため息を付いた。
「翔は大丈夫だよ。」
「え?」
「あたし前にさ、翔が紗理那にきっぱりと断っているのを見たんだ。」
「え?」
 駅で紗理那に声をかけられて、翔はきっぱりと「あなたに興味が無い」と言い放ったのだ。それを見て、沙菜は心の中で拍手をした。
「何だっけ……加藤さん?って人の事をマスコミは聞きたいんでしょう。」
「みたいね。」
「その加藤さんって人のことを言っている女の人があたしはうさんくさいと思うな。」
「あなたでもそう思うの?」
「うん。だってさ……話しの中に、「隠し子がいる」って話があったでしょう?」
「らしいわね。」
「だとしたら凄く女性が好きなんだろうと思うの。」
 それは事実だった。おそらく愛人がいたというのもまんざら嘘では無いだろう。
「それは否定しないわ。」
「でも結婚を四回しているでしょう?」
「三人変わったみたいね。」
「でもその三人とは子供が居ない。確信犯で絶対出来ない日を選んでしてたって言うんだったらどうしようも無いけど、あたしにはその加藤さんって人が無精子症だったんじゃ無いかって思ってる。」
 男優の中にもそういう人は居る。子供を作れないのであれば、そういう仕事をしているのには都合が良いだろう。だが本当に愛する人が出来て、子供が欲しいと思う日が来るとその男優は地獄を見るのだ。
「……無精子症であれば子供は出来ないわね。その治療をしていたならともかく。そして隠し子がいるって話も嘘になるわ。」
「一つ嘘をつけば全部が嘘に聞こえるわね。」
 その言葉に沙夜は頷いた。そして思い出したのは芹のことだった。自分の身を守るためだと言っても、親にまた嘘をついているのだ。妹にも口止めまでして。
「でも……必要な嘘はある。全てが駄目って言うわけじゃ無いこともあるわ。」
「姉さん……芹のことを言ってる?」
「うん……。」
 兄から逃げている。その理由は兄嫁と関係を持ってしまったから。それを沙菜が聞いたとき、どこかの映画のようだと思った。そして寝取られと言うジャンルはAVの世界では良くあるモノで、実際沙菜もそういうソフトに出たことはある。妹の彼氏を寝取る姉のことだ。
 だが現実離れしていると思う。自分は妹だが、芹を取ろうという気は無かった。一度キスをしたのは、自分の意地からかもしれない。
「芹は実家に帰ったって言ってたね。」
「えぇ。だから今日も呼び出されてね。ほら。見てよ。」
 そう言って冷蔵庫からビニールに入った剥いたエンドウ豆を取りだした。
「凄ーい。どうしたの?」
「芹のお母さんの実家は農家みたいでね。たまにこうやってお裾分けが来るんですって。今日持たせられたらしいわ。これで明日は豆ご飯ね。」
「わぁ。豆ご飯好き。でも余ったのはどうするの?」
「冷凍にして、あとはスープにしたりオムライスの具にしたりね。」
「美味しそうね。」
「だから、芹に先にお風呂に入ってくれる?って言ってくれないかしら。」
「わかった。ちょっと言ってくるね。」
 豆ご飯自体はそんなに手がかかるモノでは無い。沙夜が心配しているのは、翔が帰ってこない事だった。

 芹が風呂に入り、そのあとに沙夜が風呂に入る。湯船に浸かり、ゆっくりと温まっていると色んな事が頭を駆け巡った。
 沙夜は加藤啓介に会ったとき、一目で一馬の奥さんに似ていると言われた。おそらく啓介は一馬の奥さんに会っているのだ。それは昔、あの貴理子という女性が啓介のために誕生パーティーをしたとき、啓介は見た目とは違い全く酒が飲めないのでケーキ中心のパーティーにしたのだという。その時に一馬の奥さんが勤める店の従業員総出で啓介の家へ行ったのだ。その時に奥さんを見たのだろう。
 啓介は一馬の奥さんを相当気に入ったようで、貴理子が嫉妬するくらいだった。だがそれは女性としてでは無く、信じられないほど美味しいコーヒーを淹れるからだったらしい。それも貴理子は理解することは無く、店に度々寄ってみては、奥さんをいらつかせるようにオーナーに色目を使ったり、恋人の居る従業員を強引に誘ったりしていたのだ。最終的にオーナーは貴理子を出入り禁止にしたのだという。
 今の貴理子を見ているとそれもあり得ない話では無いと思っていた。それでも貴理子は自分のしたことをひたすら隠して、啓介の悪いところばかりを言っているように見えた。だがそれもそろそろぼろが出そうだと思う。
 沙夜は湯船から上がると、ざっと体を洗い流して脱衣所のドアを開ける。するとそこには翔の姿があった。
「あ……ごめん。」
 翔はそう言って慌てて脱衣所を出て行った。全裸の沙夜が居たからだ。沙夜はそれを見て少し笑う。翔はこんな所でうぶなのだ。
 体を拭いて、部屋着に着替えると食事を温めている翔が居た。
「さっきはごめん。」
「良いわ。入っているのは芹かと思ったんでしょう。」
 沙夜はそう言って台所にあるカップを手にした。そして水を入れると、電子レンジにかけた。長湯をしてしまったので、喉が渇いているのだ。
「ずいぶん遅かったわね。」
「早く終わったのは終わったんだけどね。マスコミが来ていて、対応をしていた。」
「何か聞かれた?」
「聞かれても答えようが無いよ。俺、加藤さんとは繋がりは無かったんだし。それに最近は一馬にも会うことは無かったから。」
「……だったら良いけど。」
 電子レンジが音を立てて、カップを取りだした。
「それから……K町だからだろうね。志甫に合ったよ。」
「志甫さん?もうこちらに帰ってきているの?」
「あぁ。「Flower's」に復帰しているみたいだ。沙夜にピアノを弾いて欲しいと言われたよ。」
「お金になるような演奏は出来ないわ。」
 あくまで誰でも聴けるフリーのサイトだったから曲をあげただけだ。だからバーで弾くとなると、どうしても気が引ける。
「……志甫は、俺よりも沙夜の方がピアノの腕は上手いと言っていたよ。」
「そんなことは無いわ。」
「いや……俺もそう思っている。」
 食事をテーブルに並べて、翔はため息を付いた。
「……あの南の島で、沙夜の演奏を初めて聴いた。その時のこと、俺はずっと覚えている。」
 子供用のキーボードだった。だから音質も悪いし、音も限られている。鍵盤の数すら少ないのだ。なのにその限られた音の中で、沙夜は自由に演奏をしていたように思えた。店内にかかっている音に合わせて。自分ではそんなことは出来ない。
「例えそうだとしても、翔が気にする事かしら。」
 沙夜はそう言って向かいに座った。すると翔は驚いたように沙夜を見る。
「え?」
「あなたは私よりも音に対する研究を重ねている。アレンジも、作曲も、あなたの方が優れているのは数字に表れていたわ。」
 二藍のシングル曲の中には翔が作曲してアレンジしたモノがある。それはやはり売れているのだ。売れていると言うことは、世の中に認められていることだと思う。
「……私ではそんなことは出来ない。フリーのサイトで載せても、批判しかされなかったのよ。」
「秀でているモノは、潰そうとしている人が多いって事だ。」
「そうね。それでも私には決定的に足りないモノがある。」
「何?」
「その批判を受け流すことは出来ないのよ。だから少し精神的にも弱くなってしまったわ。」
「……俺だって、職場での批判を受け流すことなんか出来なかったよ。だからうつ病になりかけた。志甫にも手を上げたんだ。」
「謝ることは出来た?」
 すると翔は少し首を横に振る。
「どうしても喧嘩腰になってしまうな。志甫相手だと。」
「それだけ仲が良かったのね。」
 沙夜はそう言ってコップの白湯に口を付けた。このまままた翔は志甫とよりを戻すのかわからない。それでも翔がそれで幸せであれば良い。そして自分を忘れて欲しいと思う。
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