触れられない距離

神崎

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水炊き

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 先程の会話が無かったかのように、それぞれが雑炊に口を付ける。野菜と鶏肉などの旨みが詰まった汁とネギと卵を回しかけたシンプルな雑炊だが、心の中まで温かくなるようだった。
「美味しい。」
 それでも一馬はそれを食べながら酒を飲んでいる。日本酒も自分で持ってきて、自分で飲み干しそうな勢いだった。
「ご飯を食べながらお酒を飲めるのね。」
 沙菜がそう言うと、一馬はすっと沙夜の方に視線を送る。すると沙夜も同じことをしているのだ。
「何よ。別に良いじゃ無い。」
 気まずそうに沙夜が言うと、沙菜は少し笑って言う。
「姉さんってお酒があまり好きじゃ無い割には結構飲めるよね。その辺は父さんに似たのかしら。」
「そうかも知れないわね。」
 夜遅く帰ってきた二人は、いつもソファで酒を飲みながらうとうとしていた父親の姿がお馴染みだった。そして母親がいつも寝るんだったら、布団で寝なさいと毎日のように言うのもいつもの光景だと思っていた。
「最近の父さんは、近所の人のお付き合いとか言って良く外に出てるみたい。仲の良い近所の人が見つかったのね。」
 表向きには良好な夫婦だと思う。だが沙夜はそれは表向きなのは知っていた。真実を知れば、沙菜だって帰るかどうかもわからない。
「俺もそこまで酒は好きじゃ無いんだけどな。」
 一馬はそう言うと、純が驚いたように一馬を見る。
「え?」
「間が持たないから飲んでるだけだ。それに強いだけだから。」
 やはりその辺は沙夜に似ているらしい。沙夜も少し笑ってその酒を口に入れた。
「あのさ……芹兄さん。」
「何だよ。」
 芹もその雑炊に口を付けて咲良に聞く。
「今更どうでも良いんだけどさ。この人達って本当に音楽をしていて、売れているの?」
「は?」
 するとその言葉に遥人が言葉を詰まらせた。本当にこの国の音楽を知らない人の発言だったからだ。
「咲良。お前なぁ……。」
「だって、こんなに普通なんだもの。本当にそうなのかなって思ってしまうわ。」
 その言葉に沙夜は立ち上がると、リビングを出て行った。そして次に戻ってきたときには一本のソフトを握っている。
「咲良ちゃん。これを観るかしら。」
「え?」
 それは「二藍」PV集のソフトだった。それを咲良は手にしてパッケージを見ている。後ろに書かれているレコード会社を見て、少し笑った。
「これって「Pillows」が居るところですよね。」
 ここでもやはり外国のバンドなのだ。確かに外資系のレコード会社で、この国にあるモノは視点のような扱いだが、そこに目を付けるとは思っても無かった。
「そう。そこの夏目さんは、少ししたら「Pillows」のプロデューサーに呼ばれているの。今度の新曲は夏目さんが関わるから。」
「そうなんですか。凄い。」
 それでも信じられないらしい。すると芹はそのソフトを手にすると、テレビを付ける。そして外部入力をして、そのソフトを入れようとしたときだった。
 ふと窓の外を見ると、見覚えのある人が歩いているのに気がついた。それを感じて、すぐにリビングを出て行く。その様子に翔が立ち上がり、芹に付いていく。すると芹は玄関の靴を靴箱にしまっているようだった。特に女性モノだとわかるようなものはしまっている。
「どうした。」
「この近くにうろうろしている。」
「何が?」
「紫乃っぽいヤツがいた。」
 その言葉に翔は驚いて芹を見た。
「気の回しすぎじゃ無いのか。さっきみたいな話をしていたから……。」
「いいや……。」
 その時、玄関のチャイムが鳴った。それを聞いて、芹は顔色を悪くした。だが翔はのんきに「宅配かな」と言ってその玄関ののぞき穴を見る。だがそこには宅配業者などでは無く、髪の長い女性が立っていた。芹や咲良に聞いたままの女性だと思う。
 すると翔はそのまま芹に自分の部屋へ向かうように伝え、そしてリビングにいる咲良にも芹の部屋に行くように伝えた。
 出来ればインターホン越しの会話で終わらせたいと思う。
「はい。」
 インターホンの通話を押すと、女性の声がした。
「突然申し訳ございません。私、○○出版の天草と申します。」
 その声に沙夜も驚いてそのインターホンの画面を見る。そこには一度見かけた紫乃の姿があった。
「どうしました。」
 こういう時の翔はあくまで冷静だった。
「こちらは千草さんのご自宅でよろしかったですか。」
「何でしょうか。」
 今時出版社のしかもゴシップ記者でも芸能人の自宅に押しかけたりしないだろう。遥人はそう思っていたが、他の人と同じようにじっと黙っていた。誰がここに居るのかなどを知られないためだ。
「こちらに、天草芹という男の人が居るかと思うんですけれど、面会させていただけませんか。」
 入院患者でも無いのに、面会という言葉を使ったのに少し笑えた。すると翔はちらっと鍋を囲んでいる二藍のメンバーを見た。ここで沙夜が出てくるのはおかしな話だろう。一馬や純は不自然では無いが、一馬は面識があるだろう。治が出て行けば言いくるめられるかもしれない。となると一番都合のいい人が頭に浮かんだ。
「遥人。ちょっと来てくれないか。」
「俺?」
 そう言って遥人は席を立つと、翔に付いていくように玄関の方へ向かっていく。すると翔はチェーンをしたままドアを開ける。中に入って欲しくないからだ。
 僅かな隙間から顔を覗かせたその紫乃という女性は、翔から見てもいい女だと思う。口元にほくろがあるのが少し色っぽいと思った。だが芹や咲良の話、それに一馬も良いようには言っていない。あまり上等な女では無いのだろう。
「初めまして。天草と申します。」
 そう言って翔に名刺を手渡した。その名刺には出版社の名前と役職が載っている。おそらく会社でもかなり良い立場なのだろう。
「それでですね。あの……こちらに天草芹という男の人が居ると思うんですけど。」
「居ませんね。今日はバンドのメンバーで打ち上げをしていますから。どうぞお引き取りを。」
 そう言って翔はドアを閉めようとした。だが紫乃は引き下がらない。
「待ってください。今はいなくてもここに住んでいるはずなんです。近所の人から聞きました。夫に似た人が住んでいるって。」
「夫?」
「天草裕太と言います。ご存じですよね。一緒のステージに立ったこともおありでしょうし。」
「えぇ。知ってます。」
「その人に似た人がここに住んでいるはずなんです。それは夫の弟で……ずっと行方不明になっていて、夫も私も、それから実家の家族もずっと探していて。こんなに近くに居ると思ってませんでしたけど……。」
 遥人はその紫乃の言葉を聞きながら名演技だなと思っていた。だが演技だとわかるのは、紫乃は泣いているように見えて泣いていなかったのだ。そうなってくるとやはり芹や咲良の言っていることが正しかったのだろうかと思えてくる。
「人違いでしょう。今はここには、二人しか居ないんです。」
「え……。」
 その言葉に遥人は驚いたように翔を見た。だが翔の表情を見て、やっと納得した。そして遥人も少し笑顔になる。
「そうだな。さっきまで三人が居たもんな。」
「二人が休みが合うときなんか無いだろう。」
「あぁ。たまには二人っきりになりたいよ。」
 その会話に紫乃は驚いたように二人を見た。
「と言うことなのでお引き取りを。」
 翔はそう言ってドアを閉める。そして鍵をかけた。そして玄関をあとにしようとしたとき、芹と咲良がじとっとした視線で二人を見ていた。その視線に遥人は手を振って二人に言う。
「あのさぁ。二人を守るために……。」
「知ってるけど……なんかリアリティあるよな。」
「うん。」
 咲良がそう頷くと、遥人は頭を抱えていた。
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