触れられない距離

神崎

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水炊き

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 ツアー最終日は、ツアーで地方を回ったホールやライブハウスとは明らかに観客数が入るホールで演奏をした。それでも空席は無く、その盛り上がりも相当なモノだった。さすがにその報告は次の日にすることにした。
 いつも通りに会社へ行き、パソコンを立ち上げる。そして買ってきたカップのコーヒーに口を付けた。その様子にやってきた西藤裕太が驚いたように沙夜を見る。
「おはよう。泉さん。」
「おはようございます。」
「でも今日から三日間の休みじゃ無かったかな。」
 そういうと沙夜は少し頷いた。
「えぇ。ですから昨日の報告書を書いたら今日はもう帰ります。」
「半休扱いにしても良いよ。」
「わかりました。だったらお昼までやれることはやっておきます。」
 そう言って立ち上がったパソコンの画面を見る。本当ならそんなに急がなくても良いのだが、沙夜はこういうところがある。つまり、融通が利かないのだ。
「あ、泉さん。おはよう。」
 植村朔太郎もやってきて、沙夜に声をかける。その後ろから別の女性もやってきた。デスクは朔太郎の隣になる。最近仲が良いと思っていたが、おそらく恋人同士なのだ。沙夜に言い寄っていた時期もあったが、やはり振り向いてくれる女性の方が良いのだろう。沙夜はそう思いながら画面を見ようとした。
「泉さん。おはようございます。今朝のテレビでニュースになってましたよ。「二藍」。」
「そうなんですか。」
「ツアーファイナルで観客動員数が凄かったって。」
「そうですね。客層も年齢も様々でした。最初の頃は女性ばかりだったのに、最近は男性の姿も多くて。」
「ハードロック自体は男性ファンが多いモノだと思ってましたよ。」
「えぇ。」
 その時、朔太郎がその女性に声をかける。
「河村さん。ちょっとこっちに。」
「えぇ。」
 二人はそう言って沙夜の側から、離れて裕太のデスクの方へ向かう。
「おはようございます。部長。」
「おはよう。どうしたの?なんか改まって。」
 すると朔太郎の方から声を上げた。
「実は、正式には今度案内を差し上げるつもりなんですけど、夏初めくらいに結婚をしようと思ってまして。」
 その言葉にオフィスにいる人達が声を上げる。
「結婚?」
「え?付き合ってたの?」
 その言葉に沙夜も手を止めて二人の方を見た。
「双方の両親には挨拶を済ませています。」
「そう。良かったね。式が夏初めくらい?」
「えぇ。」
「おめでとう。」
「ありがとうございます。」
 社内恋愛というのは珍しくない。だが同じ部署にいるのは難しくなるだろう。おそらくその場合、移動になるのは女性の方だ。
 朔太郎が担当しているバンドはまだ勢いがある。そして女性が担当しているなバンドはそこそこといったところだろう。おそらく別の人が担当することになる。沙夜のように沙夜では無いといけないと我が儘を言うような「二藍」ほどのバンドになると難しいだろうが。

 昼頃に、沙夜はいつもの駅に帰ってきた。結局会社では報告書、ツアーでの諸経費や、観客動員数などの数字を提出し、安心してあと二日間休むことが出来る。
 結局、沙夜も芹もあの家を離れることは無かった。翔にとって辛いかもしれないが、翔自身もだったら二人に出て行って欲しいとは言えない事情もある。それはつまり金銭的なことと、生活の役割分担のこと、それから二人が出て行けば沙菜と二人になってしまう。それが世間的にもまずいことだと思っていたのだ。かといって沙菜も一緒に出るとなると、それはそれで翔に負担がかかる。せめて同居人を募集しても良いが、翔の名前はもうすでに売れすぎているのだ。
 そういうわけで、沙夜も芹もまだ翔の家にいる。だがその条件は、家の中では恋人のような振る舞いを辞めて欲しいと言うこと。目の前で好きだった女が、他の男にいちゃつかれるのは翔にとって苦痛以外の何もでも無いのだから。
 その辺は沙夜も芹もわかっている。節度を持とうと思っていたのだ。だが芹にとっては生殺しかもしれない。だから明後日、沙夜と出掛けるために時間を取ったという。ずっと忙しかった沙夜のためにデートをすると張り切っていた。
 明日は「二藍」のメンバーと沙菜、沙夜、そして芹も集まって鍋をする。夕方には買い出しをしておかないといけないな。沙夜はそう思いながら、家へ帰っていく。
「ただいま。」
 パンプスを脱いで、廊下に上がる。そして自分の部屋に荷物やコートを置こうとしたときだった。向かいの沙菜の部屋からすっぴんの沙菜が出てくる。
「あー。姉さんもう帰ったの?」
「まだ寝ていたの?」
 沙菜はライブへ行きたいと思っていたらしい。だが夕べは早朝まで撮影があったのだ。沙菜が家に帰ってきたのは、沙夜が家を出る前ほどだった。
「遅かったから。」
 そう言って沙菜はあくびをした。それでも部屋着でこの部屋をうろうろすることは無い。その辺は翔や芹とは違うのだ。
「今日はお休みなの?」
「夕方にジムに行くだけ。」
「ジムねぇ。」
 沙菜が行きつけにしているジムは、一馬も通っているらしい。だが一馬はたまに奥さんともジムへ行くのだ。一馬は沙菜の好みのタイプだからといって奥さんのいる前で口説いたりはしないだろう。
「姉さんも行かない?」
「夕方くらいに買い出しに行くわ。明日の準備。」
「あぁ。結局餃子にするの?」
「なんか水炊きが食べたいんですって。この間のツアーで行った土地の鍋が美味しくて、そういうのを作れないかって言われたのよ。」
「ははっ。姉さんなら何でも作れるって思われてるんじゃ無い?」
「作れないことは無いけど、調べないとね。」
 休みだからといってゆっくりしていないのだ。まるでマグロのようだと思う。動いていないと沙夜は死んでしまうのでは無いかと思うのだ。
「とりあえずご飯でも食べない?お腹空いちゃった。」
「あなた朝は食べたの?」
「ううん。そのまま寝ちゃった。」
 少し笑って、沙菜はそのままリビングへ向かう。そして沙夜も部屋に戻ると、荷物やコートを置き、部屋を出てくると芹の部屋の前に立つ。
「芹。ご飯を食べないかしら。」
 しかし芹の声は聞こえない。ドアを開けてみると、芹の姿は無かった。
「あれ?」
 するとリビングから沙菜が顔を覗かせる。
「芹は今日出版社の方へ行くっていってたよ。」
「そうだったの。聞いてなかったわ。」
「芹ってそういう事も言わないのね。彼女だってのに。」
 そういわれて沙夜の顔が赤くなる。彼女だということを真っ直ぐに言われたのが恥ずかしかったのと、そこまで話をしていないという言葉が腹が立つのだ。
 その様子に沙菜は口を押さえる。
「あ……ごめん。」
「ううん。そんなことも私は知らなかったのは、話なんかをしていなかったからよね。」
 沙夜はそういうと、首を横に振った。
「芹も自分の仕事のことくらい話しておけば良いのにね。」
「良いのよ。もう手は離れているのだから。」
 沙夜が関わるのは、あくまで作詞を依頼されたとき。それ以外は出版社の人に芹は委ねられているのだ。顔を出したくないという芹の意向に沿っているような気がする。だから安心して任せているのだ。
 そして恋人同士だと言っても、話し合うことは出来ないのは、翔に遠慮しているから。二人で部屋で二人っきりになることも無い。ただの同居人と言っていたときの方が距離が近かった気がしていた。
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