触れられない距離

神崎

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 この土地の音楽は、のんびりしていて何を言っているのかわからない外国語のように思える。当然、沙夜も歌詞の意味はわからない。だがその音に合わせてピアノの電子音でピアノを弾いていく。小さい鍵盤は子供に合わせたモノで手の大きさに全く合っていないし、普通の鍵盤よりは音も少ない。なのにそれを器用に合わせていく。
「楽器なんてこだわりは無いわ。手を叩くだけでも音楽になるのよ。」
 いつか沙夜が言っていたことだ。その言葉が真実のように感じる。そしてその鍵盤を弾いている沙夜が遠くへ行ってしまいそうな錯覚に陥るのだ。
「何?CD?」
「違う。誰か弾いているよ。」
 店内に居た人だけでは無く、次々に通りがかった人も足を止めて店内を見ている。一番唖然としてみていたのは、「二藍」のメンバーだったかもしれない。そしてその中でも翔は更に驚いて沙夜を見ていた。
 うつ病寸前になり、田舎に引きこもっていた。それでも音楽が捨てられなくて、時間があればパソコンの前で音楽を作り、それを公開していた。反響は良かったと思う。それでもその時のそのサイトで、日々の評価、再生数などを総合しているランキングで一位を取ることは出来なかった。不動の一位は、いつも「夜」だったのだ。そしてその音は、暗い夜の闇の中を彷徨っていたような翔の心にも光が点してくれていたような気がする。
 いつか会ってみたい。この「夜」という人と一緒に演奏をしたい。話をしたい。男でも女でもかまわない。ただ会いたいという感情だけだった。その「夜」が目の前にいる。
 翔はその様子を見て、複雑な感情になっていた。目の前に、その「夜」がいる。なのにそれは沙夜だった。自分が好きな沙夜。なのにその感情は憧れにも似た感覚になる。夕べ、キスをしてての中にいた沙夜が、遠くへ行ってしまったような気がしていたのだ。
 その沙夜はちらっと時計を見ると、鍵盤から手を離した。もう時間が来ているのだ。そして五人の方を見る。
「何か買うんだったら、早く買わないと。時間がもう来ているわ。」
 あっけにとられていた五人はその言葉に、時間を取り戻したように店内を見ていた。そして沙夜はキーボードの電源を落とすと、そのコードを抜く。すると店長の男が沙夜に声をかけた。
「凄い。ピアニストか何かですか。」
 すると沙夜は首を横に振る。
「私はプロでは無く、プロはそちらの五人ですから。」
「知ってますよ。「二藍」でしょ?ここにもCDは置いてますから。」
「ありがとうございます。」
「あの……サインとかもらえませんか。」
「本人達に聞いてみてください。会社的には何の問題もありませんから。」
 店長はそんなことを聞きたいのでは無いと思う。だがあっさりプロでは無いと言った沙夜にそれ以上のことを聞けるわけが無かった。
 五人はポスターを差し出されてサインをすると、店長はそれを壁に貼る。ちょうど新しいアルバムのポスターだ。これを見て、ここに「二藍」が来たと言えばまたCDなり、買った楽器なりを買おうとするファンが出てくることだろう。
 六人が店を出たときには、もう人混みは無くなっていて沙夜は停めている駐車場に五人を連れて行こうとした。その時だった。
「昨日、コンビニで会った人よね。」
 声をかけられて振り向くと、そこには志甫の姿があった。その姿に沙夜は少し顔を曇らせる。翔のことを気にしたのだ。だが肝心の翔は、その姿に平然としているように思える。
「えぇ。」
「「二藍」の関係者だったのね。」
「えぇ。レコード会社の担当です。」
「ピアニストじゃ無くて?」
 先程の演奏を聴いていたのだろう。沙夜は少し戸惑いながら、志甫に言う。
「レコード会社のモノです。」
「あれだけ弾けるのにピアニストじゃ無いんだ。」
 すると純が声を上げる。
「志甫。しつこい。」
 すると志甫はむっとしたように純に言う。
「何よ。あなたなんてオーナーの腰巾着じゃ無い。」
「は?」
 元々純は気が短いところがある。その言葉にイラッとしたように志甫に詰め寄り、なんだかんだと文句を言っている。その様子に沙夜はため息を付いた。
「夏目さん。もう時間だから行きましょう?」
「そうだな。飛行機何時だっけ。」
 そう言って離れようとした純に志甫が首を振って沙夜の方に近づいてくる。
「そんな話をしたいわけじゃ無くて、あの……。」
「ピアノなら弾きませんから。」
 「紅花」として活動をしていた志甫の相方の男は、この間薬で捕まった。だからおそらく志甫は、ピアニストを探しているのだ。それが沙夜なら見た目も良い。今度こそプロデビュー出来ると思っていたのだと沙夜は先手を打ったのだ。
「あたしが歌うんじゃ無くて、良い歌い手がいるの。その人のバックで……。」
 自分のことでは無かったのだ。どちらにしても沙夜は人前でピアノを弾きたくない。それに前に志甫の歌を聴いた。その声に、志甫の耳が信用出来ないというのも理由だったかもしれない。
「どちらにしても弾きません。」
「「二藍」の担当ってことは、裏方なんでしょう?昨日もパシリみたいなことをしてたし。」
 のど飴や水を買いに行っていた沙夜が「二藍」のためにパシリをしていたのを気にしていたのだろう。だがそれを頼んだのは遥人だ。遥人もその言葉にイラッとして志甫に言う。
「は?俺らがパシらせたと思ってんのか。」
「栗山さん。」
 沙夜がそれを止めると遥人は舌打ちをして、ため息を付く。
「志甫さんとおっしゃいましたか。」
「大城志甫。」
 すると沙夜は少し頷いて言う。
「では大城さん。あなたはプロデビューをしたいと思ってました。私たちは一度、あなたが歌っているのを聴きましたし。でも私の耳からでは、あなたがプロデビューするにはもっとレッスンが必要だと思います。」
「あたしじゃ無いの。歌うのは。「Flower's」にいる次の「紅花」。ピアニストが見つからなくて、あなただったらオーナーだって何も言わないと思うし。」
「私はそういったことは出来ないんです。会社との契約でも副業は出来ないようになってますし。」
「……。」
 しかしあれだけ弾けるのだ。諦めきれない。
「一度聴きに来てもらえないかしら。あたしもあと二,三日したらあっちに戻るから。」
「それは私が決めることでは無く、会社の企画部が決めることです。評判が良い歌い手やバンドを日々見つけているみたいですからね。」
 全て沙夜が言いくるめている気がする。志甫の言葉が詰まっていた。そしてちらっと翔の方を見る。すると翔も気後れしたように志甫を見ていた。
 だが二人は言葉を交わすことも無く、離れていく。
 沙夜はため息を付いて五人と共に駐車場の方へ向かっていった。沙夜の演奏を聴いて少し幸せな空気だったのを、志甫が全て駄目にしたような感じになってしまった。それが腹が立つ。
「何だよ。あの女。」
 車に乗り込んだ遥人が開口一番純に聞いた。
「俺のまぁ……知り合いのところのライブバーで歌を歌ってた女だよ。プロデビュー寸前までいったんだけどな。」
「沙夜さんをパシらせたって、いつ俺らが沙夜さんをパシらせたって言うんだよ。」
 酒の匂いがする沙夜と運転を代わっているのは、翔だった。翔はツアーが終わるまでは断酒をしている。だから運転を治と代わりながらしているのだ。助手席には沙夜が乗っていた。
「パシらされたとは思ってないわ。担当だったら当然のようにしていることだから。」
 沙夜はそう言うと、ため息を付く。そしてちらっと翔の方を見た。だが翔は素知らぬ顔をして、車のエンジンをかける。
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