触れられない距離

神崎

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居酒屋

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 裕太が連れてきた店は、夜は居酒屋で昼間は定食屋になるようなところだった。半個室もあるし、カウンターもあるが、裕太が予約していたのは個室でそこまでかしこまった店では無いのはわかる。
「ここ、俺が食えないときにバイトしてたところなんだよ。」
 裕太はそう言って懐かしそうに店内を見ていた。和食がメインの居酒屋で、レイアウトとかは裕太がいたときよりも少し変わっているような気がする。店内を行き交う店員が裕太に声をかけた。古参のパートやバイトであれば、裕太が「Glow」である事よりもここの店員だった記憶の方が強いのだ。
「西藤さんもそんな時期があったんだな。」
「あるよ。いきなり売れたわけじゃ無いし。」
 先程芹は「Glow」のCDを西藤に指しだして、サインをもらっていた。そういう事をするとは思っていなかったので、沙夜は少し意外に思う。
「メニューも馬鹿高くは無いんですね。」
「居酒屋だからな。基本。ほら、唐揚げが美味いんだ。」
「本当。ボリュームありますね。食べきれるかなぁ。」
「泉さんの弁当は小さいもんな。料理をするのは好きみたいだけど、本人はそこまで食べないみたいだし。」
「酒ならざるだろ。」
「また酒豪のようなことを言う。」
 沙夜はそう言って芹を責めると、芹も少し笑った。その顔を見て、西藤はやはりどこかで見た顔だと思う。
「渡先生は……兄弟が居る?」
 すると芹は少し頷いた。
「妹が居るよ。」
「妹?」
「今年高校を卒業する妹。」
 そうじゃない。おそらく男兄弟のはずなのだ。その横顔もよく似ている気がするのだが。
「天草裕太と繋がりは?」
「誰だっけ。」
 その言葉に沙夜は驚いたように芹を見る。だがそれが芹の手なのだろう。すぐにわかって沙夜は冷静になった。
「「Harem」というバンドのキーボードね。」
「俺、ハードロック以外は聴かないんだよ。外国のさ。ジャーマンメタルとか。あとはシンフォニックメタルとか。」
「歌詞を書いているのは色んなジャンルだと思うが、本来はメタル好きか。だったら……。」
 「草壁」の名前も隠したいのだろう。だから強烈に「Glow」のファンであることをアピールしたのだ。
「同じ裕太って名前だな。」
 芹はそう言って裕太を見る。あたかも今知ったような言葉だった。
「あぁ。あまり気持ちの良い人間では無さそうだ。」
 その言葉に芹は頷いた。
 まるで探偵と犯人だ。沙夜はそう思いながら水を一口飲む。
「渡先生は表に出ないみたいだけど、やはり女性だと思われるから?」
「だと思うよ。沙夜がさ。」
 いきなり呼ばれて水を拭きそうになった。沙夜はコップを置くと芹の方を見る。
「ほら、俺捨てられた女の情念みたいな歌詞をいつも書いてたから、女性に見せた方が良いんじゃ無いかって。」
「なるほどね。上手く売り込んだね。泉さん。顔をさらしている作詞家も良いけれど、顔が見えない方がミステリアスで人気が出ることも想定していたのか。」
「えぇ。歌詞の内容から演歌の方からのオファーが多いですね。」
「実際こんなむさい男だと駄目だろ。」
「いいや。むさいどころかアイドルにも見える。」
「そんなわけ無いだろ。もういくつだと思ってんだ。」
 冗談交じりに話が進み、メニューを頼むと沙夜は少しほっとしていた。妙なことを言われないかと思っていたからだ。
「でも悪い顔立ちじゃ無い。さっきも言ったけれど、アイドルのようにも見えないことは無いんだ。どうして表に出ないんだ。」
 すると芹は咳払いをして言う。
「昔のことは捨てたから。」
「え?」
「昔のことを捨てて新しいことをしようと思った。それが作詞って活動だった。それが表に出れば、俺を知るヤツが「あいつはこうだった」とか「あいつはこんな人間だった」とかって言うだろ。」
「……。」
 裕太にも心当たりが無いわけでは無い。昔は相当遊んでいて、日替わりで女をとっかえひっかえしたこともある。そのツケは今でも回ってきているようだ。たまに週刊誌で「元「Glow」のメンバーに隠し子」なんていう記事が許可もなしに載ることがあるのだ。
 もちろんそんな事実は無くて、結局その週刊誌は釈明をする羽目になるのだが。
「過去なんかどうでも良いのになぁ。」
「そのまま歌詞になりそうな言葉だ。」
「そりゃどうも。」
「詩集を出しただろう。それも結構売れているようだ。」
「二弾を出さないかって言われたよ。でも今は無理かなぁ。」
「それは難しい?」
「今は手一杯なんだよ。それに沙夜も手一杯だろ。」
 それはそうだ。沙夜はそう思いながら店員が声をかけてきたのに反応して、ドアを開ける。そこには唐揚げが沢山載っている定食や、天ぷらなどが載っている定食があった。そして沙夜の前には松花堂が置かれる。九等分された重箱のようなモノに、刺身や天ぷらなどが少しずつある。少しずつちょっとずつ食べたい人にちょうど良い。
「だったら泉さんの他に担当を付けてもらったら良い。」
「え?」
「出版社の方からそんな言葉が出ているんだ。」
「出版社?」
 一度詩集を出した出版社だろうか。あの出版社は紫乃とは全く関係ない所を選んだつもりだが、どんな所で繋がりがあるのかわからない。だからその辺は慎重になりたい。
「今日この席を設けたのもそのためでね。」
 やはりそのためか。いきなり芹に会いたいなどと言うわけが無いと思っていた。裕太は箸を置くと、バッグから名刺入れを取りだす。そしてその中の一枚を、芹に手渡した。
「この出版社なんだ。」
 名刺を見て芹は顔を引きつらせた。そして首を横に振る。
「やだ。」
「渡先生。」
「沙夜が負担が減るんだったら、それも良いと思う。けど、こいつの担当になるのだけは嫌だ。」
 芹は名刺をテーブルに置く。すると沙夜もその名刺の名前を見ることが出来た。しかしその名前を見て沙夜も顔を引きつらせる。
「天草……。」
 天草紫乃と書かれてあった。芹にゴーストライターを依頼していたときには文芸の方に居たようだが、今は音楽雑誌の担当になっているらしい。
「知り合いかな。」
「……あんた、口は堅い方だろ。」
 まさか自分の兄が嫁である紫乃をけしかけて、芹を追い詰めたなど言うのだろうか。沙夜は少し焦りながら芹を見る。
「この世界に居れば、見ても口を出さない。知らないふりをすることも強いられる。」
「だろうな。だったら聞かなかったことにしてくれるか。」
「あぁ。でもこの人は俺の古くからの知り合いで、悪い人間では無いと思っていたんだが。」
「悪い人間では無い?」
 芹はそう言って少し笑う。そして裕太の方を見ていった。
「こいつは俺にゴーストライターを依頼してきた女だよ。」
「ゴースト?」
 その話か。沙夜は少しほっとしてまた食事に口を付ける。
「そっちにも居るだろ。シンガーソングライターとか言いながら、他のヤツに作詞を依頼したり曲を作ったりしてるやつ。」
「居ないことは無いが……。」
 その事実はある。だが表立って言えることでは無い。芹もその片棒を担いでいたというのだろうか。
「大学の時に声をかけられた。良い金になるから書いてくれ無いかって。大学生でちまちまコンビニとかファミレスでバイトをするよりも、実入りは確かに良いように見えた。」
「……。」
「けど、ゴーストってのは表立って出来ることじゃない。書店の前を通る度に罪悪感に陥る。何より呼んでいるファンを裏切っているんだ。依頼してる作家にとっても、書いているヤツにしても。」
「紫乃がそんなことをしていたと?」
「あんたに見せる顔がどんなんだったかなんて知らない。でも依頼してきたのは事実だ。だからそんなヤツに関わっていたら、いずれ俺もゴーストの依頼をされてくるだろう。それだけなら良いけど、それをネタに脅されても嫌だ。」
 守るモノがある。いつでも触れられるわけでは無いが、ずっと寄り添ってくれる大切な人。そしてその人もずっと芹のことを想っているのだ。
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