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栗きんとん
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昨夜は風呂にも入らずに寝てしまったらしい。どんなにショックなことがあっても、朝はきちんと起きてしまうのだ。沙夜はそう思いながら、ベッドから起き上がる。
そして脱ぎっぱなしにしていたスーツをハンガーに掛けた。
キスをしていたと思う。芹が求めたのか、沙菜が求めていたのかはわからない。だが二人がキスをしていたのは事実なのだ。
ため息を付いて、そのスーツを見ていた。だがふと我に返って時計を見る。翔の両親が来るのは昼過ぎだと言っていた。それまでにやっておかないといけないことは山のようにある。まずは風呂くらい入らないといけない。そう思って沙夜は部屋の鍵を開ける。
元々沙夜の部屋や沙菜の部屋には鍵はついていなかった。元々慎吾や翔が使っていた部屋に鍵は必要なかったのだろう。だが女性が住むし、他人なのだと鍵を付けたのだ。それは芹の部屋も翔の部屋も一緒であり、部屋の中に居るときだけは鍵がかかるようにしてある。
こんなことで役に立つと思っても無かった。
眠りにつくまでに芹は部屋のドアをノックしていた。弁解したかったのかもしれない。だが聞く気は無かった。せっかく幸せな気分だったのに全てが台無しになった気がした。
そのまま沙夜は風呂に入り、部屋に戻ると髪を乾かしたり服に着替えた。そして再びリビングに戻ると、キッチンに明かりを点す。
重箱を取り出すと、そこにコツコツと用意していたおせちを詰め始めた。
だし巻き、かまぼこ、黒豆、田作りなど、あまり凝ったモノも高いモノも無いが、毎年作っているそれは翔の両親が嬉しいのだと思う。帰ってきてそのおせちを目にするといつも電話がかかってくるのだ。
「ありがとうね。泉さん。いつも忙しいのに用意してもらって。」
優しそうな翔の母親の声だったと思う。自分の母親とは段違いだ。
それから正月らしく雑煮を作ろうと思う。餅は八百屋で買ったものと西川辰雄のところから送られたモノ。辰雄が送ってくれたモノはおそらく臼と杵でついた餅なのだ。買ったものに比べるとなめらかさも何も無い。ざらっとした舌触りだが、それが美味しいと思える。
だしの中に白菜、えのき、かまぼこ、豚肉などの具材を入れ、味を調える。その間に餅をトースターで焼いて、それを器に入れるとその汁を器に入れた。
その時だった。
「おはよう。」
やってきたのは翔だった。寝起きで髪がボサボサしている。
「おはよう。雑煮を作ったんだけど、食べるかしら。」
「うん。そうしようかな。」
餅を追加して焼き始める。すると翔はキッチンにやってきて、お茶を淹れる。
「沙夜さ。」
「ん?」
「今日は山に行くんだっけ。」
「えぇ。人が多いかしらね。」
「そのあとは?」
「近くに宿を取っているの。そこに泊まる予定にしてる。」
「一人で?」
「えぇ。」
全て一人でするつもりだった。そして明日には西川辰雄のところへ行く。芹と一緒に行くつもりだったらしいが、夕べのこともあってどうしようかと悩んでいるように見える。
「あのさ。沙夜。」
「ん?」
「今日、両親が帰ってきて今日一日は多分この家でゆっくりするつもりだと思う。」
「そうね。」
「その時、沙夜に挨拶をしたいと言っていたんだ。だから……出発って遅らせることは出来ないかな。」
その言葉に沙夜は少し悩んでいたようだ。確かにあまり離れている山では無いが、手軽に登れる山であるし、何より霊山なのだ。あまり遅くなると人が多くなるのは目に見えている。
「帰国の時では駄目かしら。いつ帰国されると言ってたかしらね。」
「……そうだね。そっちの方が良いかもしれないね。帰るときに連絡を入れようか。」
「えぇ。」
そう言って沙夜は焼き上がった餅を器に入れて汁をまた入れた。その時だった。
「目が腫れているね。」
翔が気がついたようだ。眼鏡越しでもわかってしまったらしい。
「……やだ。気がついたの?」
「ショックだった?」
「ショックでひきつけを起こしただけ。」
そう言わないと自分がどうにかなりそうだ。まさか裏切られていたとは思ってもみなかったのだから。
「同じ屋根の下で年頃の男女が共同生活している。それがいつまでも平行線の訳がない。」
「誰の言葉?」
「一馬。」
「っぽいわね。」
一馬も同じような光景を何度も見ていた。妻に言い寄っていた幼なじみ。同じ屋根の下で同居生活をしていたのだ。だが妻はその男に振り向くことは無かった。
やがて妻は一馬と出会い、幼なじみの男は同居生活にピリオドを打った。一緒になれないのであれば、そこにあるのは別れ以外無いと思う。
「俺さ。」
「ん?」
「沙夜と芹が何かあるのかとずっと思ってた。だから少し嫉妬をしていたんだ。」
「……。」
「けど違ったみたいだね。何かあったのは沙菜の方だったんだ。」
「みたいね。想像もしてなかったわ。」
思えば言い合いをずっとしていた。喧嘩するほど仲が良いという。沙菜と芹はその通りだと思った。
「俺、これから遠慮しないから。」
雑煮の汁を飲んで、翔は沙夜の方を見る。
「え?」
「好きって事。遠慮しない。」
その言葉に沙夜は少し戸惑っていた。
「翔……。あの私、そんな気は無くて。」
「男なんかいらないって?」
そう言われて少し戸惑った。だが沙夜は頷く。
「音楽があれば良い。夕べわかったの。あの望月旭さんの手にかかって良かった。あんなに深い音になると思ってなかったから。」
あのクラブで流された旭の音に、沙夜は思わず涙を浮かべた。自分が作った音にまた音を重ね、自分が作れる音の数段上の音になって帰ってきた。それがどんな音よりも感動したと思う。
「それでもその側に俺がいたら、また違ってくるかもしれないよ。」
「自信があるのね。」
すると翔は少し笑って言う。
「音楽の作り手だから。そして沙夜もそうだ。」
その音を共有出来ると思う。その自信はあった。
「翔。ご両親が帰ってくるまで少し時間があるわよね。」
「うん。」
「これを食べたら初詣に行かない?」
「え?でも沙夜は初詣に行くんだろう?その……山に。」
「翔は行けないかもしれないじゃ無い。それにこんな時では無いと二人で出掛けたりは出来ないでしょう?」
すると翔は少し笑った。
「良いよ。行こうか。どこだっけ。近くの神社。」
恋人のようなことをするのだ。それが嬉しかった。
だが沙夜の目が少しくらく落ち込んでいる気がする。芹のことがショックだったのかもしれない。そう思うと、少しでも支えになってやりたいと思う。担当だとか、同居人という枠だけでは無い。かといって恋人では無い。この感情は何なのだろう。
二人は雑煮を食べ終わったあと、沙夜は食器を片付け、翔は身支度を始めた。芹と沙菜はまだ起きてきそうに無い。
そして沙夜はそのままキッチンをあとにすると自分の部屋に戻っていった。クローゼットを開けると、並んでいるコートやジャンパーをみる。するとそこには水色のコートがあった。
これを着ていこうかと思ったが、手を伸ばしかけて辞める。これを着て芹とでかけたのだ。思い出が詰まっているようだから。
そしてテーブルの上に置かれているアンクレットをみた。もうはめることは無いのかもしれない。沙夜はそう思いながら、クローゼットの中のジャンパーを取りだした。どうせ山に登ったりするのだ。重いコートは邪魔になるだろう。
それから片隅にあるキャリーケースの中身をみる。中にはお土産のワインがあった。それは芹に頼んでおいたモノだ。一緒に行く予定にしていたが、沙菜のことを考えるときが引ける。明日はやはり一人で辰雄のところへ行こう。
沙夜はそう思いながら、キャリーケースを閉じた。
そして脱ぎっぱなしにしていたスーツをハンガーに掛けた。
キスをしていたと思う。芹が求めたのか、沙菜が求めていたのかはわからない。だが二人がキスをしていたのは事実なのだ。
ため息を付いて、そのスーツを見ていた。だがふと我に返って時計を見る。翔の両親が来るのは昼過ぎだと言っていた。それまでにやっておかないといけないことは山のようにある。まずは風呂くらい入らないといけない。そう思って沙夜は部屋の鍵を開ける。
元々沙夜の部屋や沙菜の部屋には鍵はついていなかった。元々慎吾や翔が使っていた部屋に鍵は必要なかったのだろう。だが女性が住むし、他人なのだと鍵を付けたのだ。それは芹の部屋も翔の部屋も一緒であり、部屋の中に居るときだけは鍵がかかるようにしてある。
こんなことで役に立つと思っても無かった。
眠りにつくまでに芹は部屋のドアをノックしていた。弁解したかったのかもしれない。だが聞く気は無かった。せっかく幸せな気分だったのに全てが台無しになった気がした。
そのまま沙夜は風呂に入り、部屋に戻ると髪を乾かしたり服に着替えた。そして再びリビングに戻ると、キッチンに明かりを点す。
重箱を取り出すと、そこにコツコツと用意していたおせちを詰め始めた。
だし巻き、かまぼこ、黒豆、田作りなど、あまり凝ったモノも高いモノも無いが、毎年作っているそれは翔の両親が嬉しいのだと思う。帰ってきてそのおせちを目にするといつも電話がかかってくるのだ。
「ありがとうね。泉さん。いつも忙しいのに用意してもらって。」
優しそうな翔の母親の声だったと思う。自分の母親とは段違いだ。
それから正月らしく雑煮を作ろうと思う。餅は八百屋で買ったものと西川辰雄のところから送られたモノ。辰雄が送ってくれたモノはおそらく臼と杵でついた餅なのだ。買ったものに比べるとなめらかさも何も無い。ざらっとした舌触りだが、それが美味しいと思える。
だしの中に白菜、えのき、かまぼこ、豚肉などの具材を入れ、味を調える。その間に餅をトースターで焼いて、それを器に入れるとその汁を器に入れた。
その時だった。
「おはよう。」
やってきたのは翔だった。寝起きで髪がボサボサしている。
「おはよう。雑煮を作ったんだけど、食べるかしら。」
「うん。そうしようかな。」
餅を追加して焼き始める。すると翔はキッチンにやってきて、お茶を淹れる。
「沙夜さ。」
「ん?」
「今日は山に行くんだっけ。」
「えぇ。人が多いかしらね。」
「そのあとは?」
「近くに宿を取っているの。そこに泊まる予定にしてる。」
「一人で?」
「えぇ。」
全て一人でするつもりだった。そして明日には西川辰雄のところへ行く。芹と一緒に行くつもりだったらしいが、夕べのこともあってどうしようかと悩んでいるように見える。
「あのさ。沙夜。」
「ん?」
「今日、両親が帰ってきて今日一日は多分この家でゆっくりするつもりだと思う。」
「そうね。」
「その時、沙夜に挨拶をしたいと言っていたんだ。だから……出発って遅らせることは出来ないかな。」
その言葉に沙夜は少し悩んでいたようだ。確かにあまり離れている山では無いが、手軽に登れる山であるし、何より霊山なのだ。あまり遅くなると人が多くなるのは目に見えている。
「帰国の時では駄目かしら。いつ帰国されると言ってたかしらね。」
「……そうだね。そっちの方が良いかもしれないね。帰るときに連絡を入れようか。」
「えぇ。」
そう言って沙夜は焼き上がった餅を器に入れて汁をまた入れた。その時だった。
「目が腫れているね。」
翔が気がついたようだ。眼鏡越しでもわかってしまったらしい。
「……やだ。気がついたの?」
「ショックだった?」
「ショックでひきつけを起こしただけ。」
そう言わないと自分がどうにかなりそうだ。まさか裏切られていたとは思ってもみなかったのだから。
「同じ屋根の下で年頃の男女が共同生活している。それがいつまでも平行線の訳がない。」
「誰の言葉?」
「一馬。」
「っぽいわね。」
一馬も同じような光景を何度も見ていた。妻に言い寄っていた幼なじみ。同じ屋根の下で同居生活をしていたのだ。だが妻はその男に振り向くことは無かった。
やがて妻は一馬と出会い、幼なじみの男は同居生活にピリオドを打った。一緒になれないのであれば、そこにあるのは別れ以外無いと思う。
「俺さ。」
「ん?」
「沙夜と芹が何かあるのかとずっと思ってた。だから少し嫉妬をしていたんだ。」
「……。」
「けど違ったみたいだね。何かあったのは沙菜の方だったんだ。」
「みたいね。想像もしてなかったわ。」
思えば言い合いをずっとしていた。喧嘩するほど仲が良いという。沙菜と芹はその通りだと思った。
「俺、これから遠慮しないから。」
雑煮の汁を飲んで、翔は沙夜の方を見る。
「え?」
「好きって事。遠慮しない。」
その言葉に沙夜は少し戸惑っていた。
「翔……。あの私、そんな気は無くて。」
「男なんかいらないって?」
そう言われて少し戸惑った。だが沙夜は頷く。
「音楽があれば良い。夕べわかったの。あの望月旭さんの手にかかって良かった。あんなに深い音になると思ってなかったから。」
あのクラブで流された旭の音に、沙夜は思わず涙を浮かべた。自分が作った音にまた音を重ね、自分が作れる音の数段上の音になって帰ってきた。それがどんな音よりも感動したと思う。
「それでもその側に俺がいたら、また違ってくるかもしれないよ。」
「自信があるのね。」
すると翔は少し笑って言う。
「音楽の作り手だから。そして沙夜もそうだ。」
その音を共有出来ると思う。その自信はあった。
「翔。ご両親が帰ってくるまで少し時間があるわよね。」
「うん。」
「これを食べたら初詣に行かない?」
「え?でも沙夜は初詣に行くんだろう?その……山に。」
「翔は行けないかもしれないじゃ無い。それにこんな時では無いと二人で出掛けたりは出来ないでしょう?」
すると翔は少し笑った。
「良いよ。行こうか。どこだっけ。近くの神社。」
恋人のようなことをするのだ。それが嬉しかった。
だが沙夜の目が少しくらく落ち込んでいる気がする。芹のことがショックだったのかもしれない。そう思うと、少しでも支えになってやりたいと思う。担当だとか、同居人という枠だけでは無い。かといって恋人では無い。この感情は何なのだろう。
二人は雑煮を食べ終わったあと、沙夜は食器を片付け、翔は身支度を始めた。芹と沙菜はまだ起きてきそうに無い。
そして沙夜はそのままキッチンをあとにすると自分の部屋に戻っていった。クローゼットを開けると、並んでいるコートやジャンパーをみる。するとそこには水色のコートがあった。
これを着ていこうかと思ったが、手を伸ばしかけて辞める。これを着て芹とでかけたのだ。思い出が詰まっているようだから。
そしてテーブルの上に置かれているアンクレットをみた。もうはめることは無いのかもしれない。沙夜はそう思いながら、クローゼットの中のジャンパーを取りだした。どうせ山に登ったりするのだ。重いコートは邪魔になるだろう。
それから片隅にあるキャリーケースの中身をみる。中にはお土産のワインがあった。それは芹に頼んでおいたモノだ。一緒に行く予定にしていたが、沙菜のことを考えるときが引ける。明日はやはり一人で辰雄のところへ行こう。
沙夜はそう思いながら、キャリーケースを閉じた。
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