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鰤のあら煮
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駅について、芹は息を整えた。そして改札口へ行こうと足を進める。だがその顔色はまだ悪い。思わず沙夜は足を止めて芹に聞いた。すると芹も足を止める。
「どうしたの?」
芹がこんな状態になるのは何となくわかる。あの辺はビジネス街だ。そして出版社もあり、そこで紫乃が働いているのも想像が付いていた。
「……ごめん。いきなり……。」
芹は口を押さえていた。だが沙夜は首を横に振る。芹が何を感じたかわかるから。
「映画は今度にしようか。」
「大丈夫なのか。」
「観れなければ観なくても良い。あなたがそんな状態なのにのんきに映画なんて観れないわ。」
その言葉に芹は少し頷いた。
「楽しみにしていたんだろうに。」
「良いの。」
手首を捕まれたその手を沙夜は手のひらに持ってくる。そして改札口の方へ向かった。
「少し休めるところへ行きましょうか。コーヒーが飲めるようなところが良いわね。ほら、そこの……。」
駅の前にカフェがある。二十四時間営業のチェーン化されたカフェだ。そこへ連れて行こうとしたときだった。
「この街じゃない方がいい。」
会うかもしれない。だから一刻も早くここから立ち去りたかった。
「だったら私の我が儘に付き合って。」
「我が儘?」
「えぇ。行きましょうか。」
沙夜はそう言って芹の手を握って改札口へ向かう。
普段は乗らないような路線に乗り、沙夜が連れてきたのは街から少し離れた港だった。倉庫が建ち並ぶここは普段はここに外国からの船舶が着き、トラックや人が行き交うようなところだろう。だが今は昼間で人影すら無い。猫やカモメがいるだけだ。あとは釣り人が数人遠くで釣り竿を垂らしているのが見えるだけに見える。
「なんだよここ。」
「ここも私のお気に入りの場所。」
水平線が見える。西川辰雄がいるあの街も海があって水平線が見えたが、こちらの方が閑散としている。
「海が好きなのか。」
「うん。それにほら……。」
足を止めて沙夜はじっと目を閉じる。芹もまた同じように目を閉じた。
何の音もしない。風の音と潮の匂いがするだけで、あと感じるのは沙夜の手の体温だけだった。目を閉じてずっとそうしていると地球上に二人しか居ないような錯覚になる。
「何の音もしない。」
「普段音ばかり聴いているから、こういうところに来たいと思うのか。」
「うん。」
僅かな音のずれ、リズムの違い、ニュアンスの違いなどを突っ込まなければいけないのだ。だからこういう静かなところへ来て、何もかも忘れる時間が欲しいのだろう。それは芹にも何となくわかる。
「こういうところでリセットをしたいと?」
「無音だと何も考えずに済むから。」
何も話していない。何があったのかも沙夜は聞かない。なのに沙夜は芹が感じていることを感じていた。それが何より芹のことを考えているようで嬉しい。言葉にしなくても芹のことをずっと想っていると言われているようだから。
思わず沙夜を抱きしめたいと思う。それは衝動的では無く、沙夜が好きだから。その一心だった。無防備に海を見ているその体を引き寄せようと手を伸ばそうとしたとき。
ぐうっという音が二人の耳に届いた。思わず沙夜は芹の方を見る。すると芹は顔を赤くして口を尖らせていった。
「飯を食ってねえから。」
芹の頬が赤くなる。その様子に沙夜は少し笑った。
「商店街の方へ行ってみましょうか。そっちに何件か食べれるようなところがあるの。」
「良いけどさ。」
お腹が鳴ったということはお腹が空いているのだろう。そう思って沙夜は芹に気を遣ったのに、芹はあまり乗り気では無いようだ。
「お腹が空いているんでしょう?」
「調べてきてさ。あそこで飯を食おうとか、映画を観ようとか、細かいところを考えていたのに全部ぶち壊されたから、なんかなぁ……。」
すると沙夜は少し笑って言う。
「気にする?そんなこと。」
「こっちは全然慣れてないんだよ。こういうことが。」
デートをしている気分だったのだ。沙夜はそう思っていなかったのかもしれないが、芹はそう思っていたのだ。あまりこういうことをしたことは無いが、そうした方が女は喜ぶと思っていたから。
「あのさ。芹。」
「何?」
「私がなんだと思ってるの?」
「何って……。」
すると沙夜は少し笑って言う。
「私は休みの日は外にずっと出てる。普通の二十代なら、多分外に出るって言ったらショッピングへ行ったり、ランチを食べたり、そういう事が好きなんでしょうね。」
「そうじゃないのか。」
女とはそんなモノだと思っていた。だが沙夜は首を横に振る。
「私はこういうところで、ただ海を眺めるのが好き。あと畑に行って芋を収穫したり、鶏の世話をしたり、そうね……魚釣りをすることもあるの。知り合いの釣具屋で釣り竿とか一式を借りてね。スポーツなんかはしないけれど、たまに山へ行くこともあるわ。登山では無いけれど紅葉を見たり桜を見たり、桜を見ながらぼんやりビールを飲むこともあるのよ。」
「……。」
「映画は好きよ。でも限られたモノだけ。作られた娯楽にはあまり興味が無い。」
「矛盾してるな。お前は娯楽を作っているのに。」
「自分で作るのは好きなの。自分で感じたことを表現するのはね。そのためにこういうところで、全てを一度忘れるの。」
人の声は雑音だと思った。沙菜からは根暗だと言われ、母からはそんな暇があるのだったらお見合いの一つでもすれば良いと言われる全てが雑音に聞こえる。
「そっか……俺、少し勘違いしてたのかもしれないな。」
「そういう事を知るために出掛けたんじゃ無いのかしら。」
「……え?」
「二人で出掛けたのはそういう事でしょう?一緒に住んでいてもお互いを知らないんだから、知るためにこうして出掛けたんだと思うの。」
「……それってさ。俺の都合の良いように考えて良いのか。」
すると沙夜の頬が赤くなる。そして沙夜は少し頷いた。
「なんのためにこんな派手な色のコートを着てきたと思っているの?」
沙夜もそんな気持ちだったのだ。それが嬉しい。
「そんなの持ってたんだな。」
「沙菜のお下がりよ。沙菜が買ったは良いけどあまり似合わないから売るって言ってたわ。でも綺麗な色だからもったいないと思って、譲ってもらったの。」
沙夜らしくないと思ったら、やはり元々は沙菜のモノだったのだ。
「似合ってる。」
「そうかしら。コートが派手だから、ちょっとどうかと思ったんだけど。あなたのそのニットの帽子も新調したの?」
「前に翔からもらったヤツ。」
「翔から?」
「翔もかぶったらあまり似合ってなかったって言ってさ。」
それにいつもかぶっている帽子がへたってきたのだ。ちょうど良いと思って、今日これをかぶってきたのだが、それでもあの女にはばれてしまったのかもしれない。
お互いが自分が選んだモノでは無かった。いずれ、選びあって身につけて欲しいと思う。一馬の夫婦のように。
「あとでさ。」
「ん?」
「話を聞いてくれるか。」
「えぇ。その前にご飯かな。ラーメン屋さんもあるのよ。」
「今日一の飯がラーメンって辛いな。魚にするよ。」
「昨日も魚でブーブー言ってた人の言葉とは思えないわ。ちなみに今日も魚だけど。」
「だったら肉。」
「定食屋さんね。行きましょう。」
繋がれた手を離す気は無かった。芹はその手を握り、沙夜もその手を握ると港の方から離れていった。そして駅と港の間にある商店街へ足を運ぶ。
田舎の商店街のような様相だった。それが芹にとって懐かしいと思う。家にずっと帰っていなかった芹には、この空気が好きになりそうだと思う。
「どうしたの?」
芹がこんな状態になるのは何となくわかる。あの辺はビジネス街だ。そして出版社もあり、そこで紫乃が働いているのも想像が付いていた。
「……ごめん。いきなり……。」
芹は口を押さえていた。だが沙夜は首を横に振る。芹が何を感じたかわかるから。
「映画は今度にしようか。」
「大丈夫なのか。」
「観れなければ観なくても良い。あなたがそんな状態なのにのんきに映画なんて観れないわ。」
その言葉に芹は少し頷いた。
「楽しみにしていたんだろうに。」
「良いの。」
手首を捕まれたその手を沙夜は手のひらに持ってくる。そして改札口の方へ向かった。
「少し休めるところへ行きましょうか。コーヒーが飲めるようなところが良いわね。ほら、そこの……。」
駅の前にカフェがある。二十四時間営業のチェーン化されたカフェだ。そこへ連れて行こうとしたときだった。
「この街じゃない方がいい。」
会うかもしれない。だから一刻も早くここから立ち去りたかった。
「だったら私の我が儘に付き合って。」
「我が儘?」
「えぇ。行きましょうか。」
沙夜はそう言って芹の手を握って改札口へ向かう。
普段は乗らないような路線に乗り、沙夜が連れてきたのは街から少し離れた港だった。倉庫が建ち並ぶここは普段はここに外国からの船舶が着き、トラックや人が行き交うようなところだろう。だが今は昼間で人影すら無い。猫やカモメがいるだけだ。あとは釣り人が数人遠くで釣り竿を垂らしているのが見えるだけに見える。
「なんだよここ。」
「ここも私のお気に入りの場所。」
水平線が見える。西川辰雄がいるあの街も海があって水平線が見えたが、こちらの方が閑散としている。
「海が好きなのか。」
「うん。それにほら……。」
足を止めて沙夜はじっと目を閉じる。芹もまた同じように目を閉じた。
何の音もしない。風の音と潮の匂いがするだけで、あと感じるのは沙夜の手の体温だけだった。目を閉じてずっとそうしていると地球上に二人しか居ないような錯覚になる。
「何の音もしない。」
「普段音ばかり聴いているから、こういうところに来たいと思うのか。」
「うん。」
僅かな音のずれ、リズムの違い、ニュアンスの違いなどを突っ込まなければいけないのだ。だからこういう静かなところへ来て、何もかも忘れる時間が欲しいのだろう。それは芹にも何となくわかる。
「こういうところでリセットをしたいと?」
「無音だと何も考えずに済むから。」
何も話していない。何があったのかも沙夜は聞かない。なのに沙夜は芹が感じていることを感じていた。それが何より芹のことを考えているようで嬉しい。言葉にしなくても芹のことをずっと想っていると言われているようだから。
思わず沙夜を抱きしめたいと思う。それは衝動的では無く、沙夜が好きだから。その一心だった。無防備に海を見ているその体を引き寄せようと手を伸ばそうとしたとき。
ぐうっという音が二人の耳に届いた。思わず沙夜は芹の方を見る。すると芹は顔を赤くして口を尖らせていった。
「飯を食ってねえから。」
芹の頬が赤くなる。その様子に沙夜は少し笑った。
「商店街の方へ行ってみましょうか。そっちに何件か食べれるようなところがあるの。」
「良いけどさ。」
お腹が鳴ったということはお腹が空いているのだろう。そう思って沙夜は芹に気を遣ったのに、芹はあまり乗り気では無いようだ。
「お腹が空いているんでしょう?」
「調べてきてさ。あそこで飯を食おうとか、映画を観ようとか、細かいところを考えていたのに全部ぶち壊されたから、なんかなぁ……。」
すると沙夜は少し笑って言う。
「気にする?そんなこと。」
「こっちは全然慣れてないんだよ。こういうことが。」
デートをしている気分だったのだ。沙夜はそう思っていなかったのかもしれないが、芹はそう思っていたのだ。あまりこういうことをしたことは無いが、そうした方が女は喜ぶと思っていたから。
「あのさ。芹。」
「何?」
「私がなんだと思ってるの?」
「何って……。」
すると沙夜は少し笑って言う。
「私は休みの日は外にずっと出てる。普通の二十代なら、多分外に出るって言ったらショッピングへ行ったり、ランチを食べたり、そういう事が好きなんでしょうね。」
「そうじゃないのか。」
女とはそんなモノだと思っていた。だが沙夜は首を横に振る。
「私はこういうところで、ただ海を眺めるのが好き。あと畑に行って芋を収穫したり、鶏の世話をしたり、そうね……魚釣りをすることもあるの。知り合いの釣具屋で釣り竿とか一式を借りてね。スポーツなんかはしないけれど、たまに山へ行くこともあるわ。登山では無いけれど紅葉を見たり桜を見たり、桜を見ながらぼんやりビールを飲むこともあるのよ。」
「……。」
「映画は好きよ。でも限られたモノだけ。作られた娯楽にはあまり興味が無い。」
「矛盾してるな。お前は娯楽を作っているのに。」
「自分で作るのは好きなの。自分で感じたことを表現するのはね。そのためにこういうところで、全てを一度忘れるの。」
人の声は雑音だと思った。沙菜からは根暗だと言われ、母からはそんな暇があるのだったらお見合いの一つでもすれば良いと言われる全てが雑音に聞こえる。
「そっか……俺、少し勘違いしてたのかもしれないな。」
「そういう事を知るために出掛けたんじゃ無いのかしら。」
「……え?」
「二人で出掛けたのはそういう事でしょう?一緒に住んでいてもお互いを知らないんだから、知るためにこうして出掛けたんだと思うの。」
「……それってさ。俺の都合の良いように考えて良いのか。」
すると沙夜の頬が赤くなる。そして沙夜は少し頷いた。
「なんのためにこんな派手な色のコートを着てきたと思っているの?」
沙夜もそんな気持ちだったのだ。それが嬉しい。
「そんなの持ってたんだな。」
「沙菜のお下がりよ。沙菜が買ったは良いけどあまり似合わないから売るって言ってたわ。でも綺麗な色だからもったいないと思って、譲ってもらったの。」
沙夜らしくないと思ったら、やはり元々は沙菜のモノだったのだ。
「似合ってる。」
「そうかしら。コートが派手だから、ちょっとどうかと思ったんだけど。あなたのそのニットの帽子も新調したの?」
「前に翔からもらったヤツ。」
「翔から?」
「翔もかぶったらあまり似合ってなかったって言ってさ。」
それにいつもかぶっている帽子がへたってきたのだ。ちょうど良いと思って、今日これをかぶってきたのだが、それでもあの女にはばれてしまったのかもしれない。
お互いが自分が選んだモノでは無かった。いずれ、選びあって身につけて欲しいと思う。一馬の夫婦のように。
「あとでさ。」
「ん?」
「話を聞いてくれるか。」
「えぇ。その前にご飯かな。ラーメン屋さんもあるのよ。」
「今日一の飯がラーメンって辛いな。魚にするよ。」
「昨日も魚でブーブー言ってた人の言葉とは思えないわ。ちなみに今日も魚だけど。」
「だったら肉。」
「定食屋さんね。行きましょう。」
繋がれた手を離す気は無かった。芹はその手を握り、沙夜もその手を握ると港の方から離れていった。そして駅と港の間にある商店街へ足を運ぶ。
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