触れられない距離

神崎

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鰤のあら煮

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 煮ているぶりをいったん取りだして、そのあと大根とゴボウを煮汁の中に入れる。そして大根とゴボウに味を染みこませるのだ。
 その間ニラとキャベツ、それにベーコンを取りだした。ニラは五センチくらいに切り、キャベツはざく切りにして、ベーコンも五センチくらいに切っていく。
 フライパンを取り出すと、芹は少し期待した目で見た。
「やる?」
 沙夜が聞くと、芹は頷いた。まるで初めて手伝いをする子供のようだと思う。その間沙夜は卵を取り出すと、それを器の中で割った。
「明日って何かするの?」
 芹はフライパンを火にかけながら沙夜に聞く。沙夜はその間煮立っている鍋の様子を見ていた。その中には里芋が入っているのだ。
「急に言われた休みだしね。どこへっていうのは無いけど。」
「朝と昼作ったら、ゆっくり寝てたりすれば良いのに。」
「一度起きると寝れないのよね。あぁそうだ。花岡さんの奥様がいる洋菓子店へ行こうかな。」
「洋菓子店?」
「凄くケーキが美味しいし、コーヒーも美味しいと言っていたわ。それから映画を見たい。」
「映画ねぇ。」
 そうだ。沙夜は休みと言ってもあまり家でのんびりしているタイプでは無いのだ。家で引きこもっている翔や芹とは全くタイプが違う。本当だったらあの西川辰雄のところにでも行って畑仕事をしたいとでも思っているのだろう。
「気になっている映画があるのよ。」
 白菜を切っていく。硬い芯のところと葉の部分に分けて切るのは、芯の方が堅いから。
「あなたは仕事でしょう?」
「あぁ。そうだよ。さっきも言ったけど、安請け合いした仕事が結構面白くてさ。でも書き詰まるんだよ。」
「石森さんからの?」
「うん。」
 連載では無いが、頼まれたモノだ。昔のパンクロッカーにスポットを当てている。そのパンクロッカーは、酒と女と薬に溺れていてそれでもバンドのメンバーを始め、ファンは男についていっていた。それだけ魅力のある男だったのだろう。
 だが男は三十にもならない若さで死んだ。表向きには薬と酒の為に内臓に疾患がありと言うことになっていたようだが、実際は○クザに殺されたのだと思う。
 芹はその事実を書こうとしていた。だがこれはおそらく愛に反対されるだろう。病死ということにしておかないといけないこともあるのだ。
「その人は私も知っているわ。高校生くらいのときだったかしら。亡くなったのは。」
「お前、そんな人のことも知っていたのか?」
「高校生のときはピアノばかり弾いていたの。レッスンにずっと通いながら。だけどその時くらいかな。その先生の紹介で別の人のレッスンに一度だけ行ったの。」
 沙夜に付いていたそのピアノ教師は女性で、沙夜の才能をずいぶん前から見抜いていたと思う。それでも大学は厳しいだろうと母親に言ったのは、沙夜の音楽が大学という枠では納まらないと思っていたからだ。
 だからそのピアノ教師は一度、自分の師匠である講師にレッスンをしてもらおうと紹介したのだ。その時のその講師が、沙夜に言ったことで沙夜の音楽の幅は大きく広がった。
「その講師が、色んな音楽を聴くと良いっていってくれた。オペラから民謡、もちろんハードロックやパンクなんかもちゃんとした音楽だからって。」
 その人が言ったと思う。手を叩くだけで音楽というのは成立するのだと。そのレッスンの帰りに、沙夜はCDショップへ足を運んだ。その時ちょうどそのパンクロッカーが亡くなったときで、目立つところに山積みされていたCDの一枚を手にしたのだ。
「どう思った?」
「薬を肯定する気は無いけれど、薬が無ければこんな音楽は生まれなかったと思う。不思議な感覚がしたわ。確かに有名な曲は耳馴染みがあったけれど、それだけでは無いと思った。」
 圧倒的な歌詞の深さとメロディは、目をつぶると自分までトリップしてしまうように思えた。
「俺さ。」
 ベーコンが炒まって、そのあとにニラとキャベツを入れる。フライパンの中でじゅわっという音がした。
「ん?」
「あの男はヤク○に殺されなくても、多分自殺か何かをして三十までは生きなかったと思う。歌詞にさ、英語だったけど直訳すると「手のひらで崩れる不確かなモノ」って言うモノがあってさ。」
「うん。」
「何だと思う?」
「手の中にあったモノよね。自分のモノだったと考えられる。とすると、それは目に見えないモノだと思うわ。」
「俺もそう思う。俺が思うに、それは信頼とか絆とかそういうモノじゃ無いかって。」
 心から信頼していた人がいる。それが崩れると言うことは裏切られたと言うことだろうか。薬に溺れていたのはそのためなのだろうかと思う。
「寂しい人ね。」
「俺さ。そいつが寂しいんじゃ無いって思うよ。」
「そう?」
「そいつを信用していなかった周りも寂しい人間の集まりなんだって思う。そして自分がそうさせなかったって事もあるんだ。」
「……。」
「俺も一歩間違えればそうなってたかもしれない。」
 沙夜がいて良かった。そして翔も沙菜もいて良かったと思う。一つ屋根の下で、こんなに楽しく心を許しあえる人がいるというのは、あの男には無かったことだから。
「良かったわね。」
「あぁ。感謝しているよ。」
 翔からのメッセージを無視しないで良かった。あのままネットカフェ難民みたいな事をしていたら、いつか野垂れ死ぬことになっていたかもしれない。人並みの生活が出来ているのは翔のおかげだろう。
 だからといって翔に沙夜を渡したくなかった。
 沙夜は白菜の堅いところを先に鍋に入れると、そのまま蓋をする。そして煮ている大根の様子を見て、その中にまたぶりを入れ直した。しばらく煮ていけばぶり大根は完成する。
 その時だった。
「ただいまぁ。良い匂いがする。今日ぶり大根?」
 沙菜が帰ってきたようだ。コートを脱がないままキッチンへ近づいて来た。
「沙菜。コートに醤油が付くわ。せっかくの白いコートなのに。」
「ははっ。そうね。で、今日はぶり大根?」
「えぇ。そうよ。そろそろ出来るから、翔を呼んで来てくれないかしら。」
「翔が帰ってきてる?」
「そうよ。」
「久しぶりに四人で揃ってご飯だね。」
 沙菜が翔を好きなのはわかっている。だからと言って沙菜は、翔と二人きりになるよりも四人でご飯を食べる方が嬉しいと思っているのだ。賑やかな食卓が好きなのだろう。
 沙菜は自分の部屋にバッグとコートを置くと、翔の部屋のドアをノックした。
「翔。ご飯がもう出来るってさ。」
 しかし部屋からは何も聞こえない。沙菜は思い切ってそのドアを開ける。お互いの部屋の行き来は抵抗はないが、翔の部屋は少し緊張するから。
 明るい部屋の中には沙菜がわからない電子機器が沢山ある。沙夜にはわかるのかもしれないが、その一つ一つを沙菜に説明されたところで、沙菜にはわからないのだから。
 翔はベッドの上で横になっている。そして耳にはイヤホンがされていた。おそらく音を聞きながら眠っていたのだろう。
「翔。」
 ベッドに近づいて翔に声をかける。すると翔は薄く目を開けた。そして体を起こすと沙菜の方を見た。
「やばい。寝てたんだ。」
 イヤホンを取って、翔は少しあくびをした。翔もまた疲れが溜まっているのだろう。沙菜は呆れたように翔を見ていた。
「食べてお風呂入ってから寝たら?」
「そうするつもりだったんだけどね。今日録音したモノを聞いてたらいつの間にか寝てて。」
 その時そのベッドの上にある小さい箱に目をとめた。それはネックレスが入っているようなモノだ。しかも女性用の。
 無防備に置いていて、沙菜が見ても何も思わないと言うことは沙菜にあげるモノでは無い。そのプレゼントは沙夜にあげるモノなのだろう。そう思うとやるせなくなる。
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