触れられない距離

神崎

文字の大きさ
上 下
123 / 580
鰤のあら煮

122

しおりを挟む
 クリスマスから数日過ぎて、そろそろ年末の歌番組やライブのスケジュールが詰まってきた。沙夜はそう思いながらパソコンに書かれたスケジュールと手帳のスケジュールを照らし合わせる。
 明日だけは何とかここを出ないで済む。個々の仕事があるが、沙夜が出て行くことは無いのだ。そのあとはここに座る余裕も無いかもしれない。本格的に芹が言ったように、食事に手を抜かないといけなくなる事態になりそうだ。
「泉さん。」
 パソコンの画面を見ていると、その向こうに西藤の姿があった。
「あ、お疲れ様です。」
 西藤はにっこりと笑って、沙夜に告げる。
「「二藍」はライブツアーの手配とかは大分終わった?」
「えぇ。あとはグッズの見本が明日来る予定ですね。それをチェックして発注すればツアーまでに間に合いますし、それからパンフレットの発注はそのあとです。人の手配も終わってますね。」
「それは良かった。で、明日は「二藍」としての仕事は入っているかな。」
「明日は無いですね。ここで雑務をする予定です。」
「だったら、明日は泉さんは公休。」
「は?」
「時間オーバーしすぎてるんだよ。ほら。」
 資料を画面の前に差し出されて、沙夜はそれを眼鏡越しに見る。するとその労働時間は、法的にまずいことになる。休みを一日二日取らないと、帳尻が合わなくなるのだ。
「え?こんなに?」
「年末は仕方ないと言ってもこんなにオーバーしたら困ると言われてね。」
「でも仕事が……。」
「今日中に終わらせよう。俺も手伝うから。」
 西藤は西藤でやる仕事があるのだろうに、沙夜のことまで手伝う余裕は無いはずだ。それを感じて沙夜は首を横に振る。
「大丈夫です。こちらで……。」
「明日が休みになったからといって、今日残業してもらったら困るんだ。ほら、どれが終わっていないか教えてくれる?」
 柔らかい口調で、でも有無を言わせない。それが西藤のやり方だった。沙夜はため息を付いて、仕事を箇条書きする。明日の分までの仕事も書いておいた。すると西藤はそれを見て少し頷いた。
「わかった。じゃあ、これとこれと……そうだな。機材の発注はこっちでしよう。泉さんは報告書を書いて、今日はもう上がって。」
「そんなに?」
「何?出来ないと思う?」
 そう言われると、言葉に詰まってしまう。沙夜は少し頷いて西藤に言う。
「じゃあ、お願いします。」
「うん。お願いされるよ。」
 そう言って踊るような足取りで西藤は自分のデスクへ向かっていってしまった。そして沙夜はため息を付くと、眼鏡を外して目をこする。確かに今から報告書を書けば、定時に終わるだろう。
 だが腑に落ちない。仕事内容などは上司である西藤に報告済みで、それでいいと言われているのだ。なのに仕事のしすぎだと言われるのは、何となくモヤモヤした気分になる。それで文句を言えば、だったらサブを付けると言われかねない。そうなってくると「二藍」のメンバーから不満が出るのは目に見えているのだ。それに「夜」のこともある。「夜」であることは、出来るだけ最小限の人だけに知られて欲しいと思っているのだ。
 そうでは無ければまた自分が非難の目にさらされるのが目に見える。
「はぁ……。」
 ため息を付いてカップに入っているコーヒーを口に入れた。すると隣に座っている植村朔太郎が少し笑う。
「でっかいため息だね。」
「働き過ぎと言われてもですね……。」
「俺には良く一人でこなしているなって思うけど。」
「そうですか?」
「目とか疲れない?目が悪いんだろう?」
 すると沙夜は少し頷いた。そしてふと思い出したように朔太郎に聞く。
「植村さん。そう言えば、前に疲れ目に効くって言う目薬をさしてたじゃ無いですか。」
「あぁ。これ?」
 そう言って朔太郎はデスクの引き出しから点眼薬を取り出した。市販薬だ。そう思って沙夜はそのパッケージを見る。
「ドラッグストアとかでも売ってますか?」
「売ってるよ。普通に。」
「帰りに買って帰ろうかと思って。」
「まぁ、薬だからね。どっちにしても人を選ぶと思うけど。」
「それもそうですね。」
 薬というのは個体差があるのだ。ドラッグストアであれば薬剤師もいるだろう。少し相談してから買った方が良いと思いながら、沙夜はまたパソコンの画面に目を落とす。

 最近のドラッグストアでは、薬剤師が複数人居ることが多い。沙夜が声をかけたのはその中でも若い人だったのだろう。数種類の点眼薬を取り出し、説明をしてくれる。その説明は割と丁寧でわかりやすかったが、結局どれが良いのかはわからない。
「これにします。」
 そう言って沙夜は一つの点眼薬を買い、そのまままた商店街の方へ向かう。
 明日は休みになってしまったので、食事の作り置きをしておこう。揚げたら出来るとか、温めたら食べられるとか、そう言ったモノを作っておけば芹は勝手に食事をする。それに芹が付いていれば、沙菜も食いっぱぐれることは無い。沙菜は温めると言うことも出来ないのだ。沙菜が台所に立つと、何かが起きるといつも芹が言っていた。そしてそのあとはおおよそ食べれるものは残らない。それを不服そうに沙菜は言っていたが、沙夜は真実だろうと思っていた。
 商店街に入ると、魚屋へ向かう。魚にも旬があるのだ。秋口はサンマ、春はサワラなど色んなモノがある。今の季節はぶりだろう。
「いらっしゃい。」
 無口な魚屋で愛想が無い。そしてその息子というのもまた愛想が無いタイプだ。だが体が大きくて、髪がツーブロックで一つに結んでいる。どこか一馬に似たタイプだと思った。おそらく沙菜が見れば「好みだ」と言うだろう。
 沙夜はそんなものにはあまり興味は無い。男よりも興味があるのは店頭にある魚なのだから。そしてやはり沙夜が思ったとおりぶりの切り身が店頭に並んでいる。それを刺身にすると美味しいだろう。
 だが沙夜の狙いはそのぶりの切り身では無く、あらなのだ。
「そのぶりのあらをください。」
「毎度。」
 量があるのは、骨が多いから。だがこの骨からいいだしが出るのだ。これと大根やゴボウと焚くととても美味しい。
 芹は魚だというと嫌がるかもしれないが、肉だけというのは沙夜が嫌なのだ。出来ればバランスよく食べたいと思うから。
 あらを包んでもらい、エコバッグに入れる。そして財布を取り出そうとしたときだった。さっき買った点眼薬が財布と一緒に出てきた。
「おっと……。」
 落としそうになったところを、金を受け取ろうとした息子がそれを掴んで沙夜に手渡す。
「ありがとうございます。」
 するとその息子は少し頷いた。ここまで徹底していると、口がきけないのかと思う。だがその息子はぽつりと言った。
「あまり目薬に頼らない方が良いんだが。」
 その言葉に沙夜は驚いたように息子を見上げた。だがすぐにその息子ははっと我に返ると、沙夜に言う。
「四百円です。」
「あ、はい。」
 財布から小銭を出し、お金を渡すとお釣りを沙夜に手渡した。
「毎度。」
「ありがとうございました。」
 主人もそう言うと、沙夜は魚屋を出る。そして次は八百屋へ向かった。思った通り八百屋では大根やゴボウ、にんじんなどの根菜が豊富に揃っている。
「大根を買おうかな。あとゴボウと……里芋も。」
「今夜は何をするんだい?」
 野菜を包んでもらいながら、八百屋の主人は沙夜に軽い話をしてくる。魚屋では無かったことだ。
「ぶりのあら煮を。」
「良いねぇ。ん?泉さん。目が悪いのかい?」
 八百屋の主人にも沙夜の点眼薬が見えたのだろう。沙夜は首を横に振る。
「いいえ。ちょっと最近パソコンの画面を見ると文字がぼやけてきてですね。疲れ目なら目薬で何とかなるかと。」
 すると主人は奥さんと顔を見合わせる。
「そりゃ、あれだ。疲れだよ。」
 奥さんがそういうと主人も頷いた。
「そうだよ。寝る前に目を温めたり、ゆっくり寝るのが一番だ。目薬に頼ると、どうしてもそれだけになるからね。」
 そうか。あの魚屋の息子もそれが言いたかったのだろう。沙夜は納得しながら、その野菜を受け取る。
 言葉が通じるのに伝えない。そんな人を沙夜は知っている。だから損をずっとしていた。だが心が通じ合える人に出会えたのだ。そこから変わっていっている。沙夜もそんな相手が居れば良いと思う。そしてその人は今、家で仕事をしているのだろう。締め切りに追われながら。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

ずっとずっと

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:207pt お気に入り:0

もうやめましょう。あなたが愛しているのはその人です

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:201,985pt お気に入り:3,940

無能のご令嬢、着きましてはリゾート島

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:469pt お気に入り:20

わたしの王子様

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,384pt お気に入り:4,049

愛の交差

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:5

ママ友は○友

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:42pt お気に入り:14

ニューハーフ極道ZERO

BL / 連載中 24h.ポイント:555pt お気に入り:31

推しの兄を助けたら、なぜかヤンデレ執着化しました

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:41,465pt お気に入り:1,335

母になります。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:26,782pt お気に入り:2,134

処理中です...