触れられない距離

神崎

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パウンドケーキ

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 ラジオ局の裏手に駐車場がある。そこにはパーソナリティの私物の車や、ラジオ局が持っているバンなどが停まっていた。たまには外に出て中継などをすることもあるのだろう。
 その中の外来者用というスペースにバンを停めていた。それに沙夜は近づくと、車のドアを開ける。そして運転席を空けるとシートの下に落ちていた手帳を手にする。これとICレコーダーが無いとこのあとの報告書が書けないのだ。先程、スケジュールをチェックするのに取り出してそのままだったのを思い出したのが良かったのだろう。それをバッグに入れると、車のドアを閉め、鍵をかけるとまた建物の中に入っていく。外は凍えるように寒く、みぞれはもう雪に変わりそうだと思った。
 こんな日は昔を思い出す。父の仕事の都合と金銭的な事もあって、家を建てるときはこの町では無く少し離れた郊外に家を建てたのだ。
 住宅街だったその家は四人で住むにはちょうど良いくらいの広さだったのかもしれない。だが沙夜達の仕事を考えると、郊外というのは母に負担がかかっていた。
 こんな雪の日でも雨の日でも仕事で呼ばれれば、いつも沙夜達を連れてくるまでスタジオへ連れて行っていたのだ。子供が働ける時間というのは限られてくるが、それでもこの時期にはいつも外は暗く、帰るときには雪が降っていたときもあった。それを母親は忌々しそうにいつも口にしていたように思える。
 それが聞きたくなくて、いつも沙菜と沙夜はいつも寝たふりをしていたのだ。それを見て更に母親は愚痴をこぼす。だがこれからのことを考えると、これも投資だと我慢出来たのかもしれない。しかしそれは見事に裏切られた。
 沙菜は可愛い可愛いと言われるよりも、変態に踏まれて欲しいとか言われるような女優になったし、沙夜は色気のかけらも無くただ仕事だけをしていた。実家に帰りたくないのは、そんな苦労をしたのに子供二人は見事に母を裏切ったと愚痴を聞かされるのを聞きたくなかったから。
 出来る限り実家には帰りたくない。必要最小限に抑えたいのだ。
 沙夜はラジオ局の中に入ると、バッグから携帯電話を取り出す。そしてメッセージを確認した。さっき送られてきた芹のメッセージが目にとまる。
「仕事で外に出ている。沙夜の仕事が終わるのを待つから、一緒に帰らないか。」
 そのメッセージに沙夜は返信をした。
「まだラジオ局にいる。そのあとに会社に行かないといけない。そのあととなると終電も無いし、無理はさせられない。芹は終電があるうちに帰った方が良い。」
 沙夜はそう送ると、「二藍」の控え室へ行くために階段を上ろうとした。その時またメッセージが届いたのがわかる。携帯電話を取り出すと、そこには芹からのメッセージが届いていた。
「待ってる。」
 その言葉に「二藍」のクリスマスソングを思い出した。時計台で待つ女性は、プレゼントと共にずっと待っていたのだ。だが相手は来ず、十二時の鐘が鳴りプレゼントをその場に置くと女性はその場をあとにした。その女性とは芹のことだとあの話を聞いたあとに沙夜は感じ、そしてその芹の「待ってる」は沙夜も同じ事をしているような感じがして、沙夜の足が止まる。
「どこで待っているの?」
 沙夜はそう打ち込もうとしたときだった。その階段の上から誰かが降りてくる。それを感じて、さっと沙夜は携帯電話をしまった。そして上を見るとそこには翔の姿があった。
「千草さん。」
「良かった。少し時間が無いから、合わせているのを早く聴いて欲しくて。」
「そうだったわね。」
 このアレンジは沙夜が手がけたのだ。ハードロック色が強い「二藍」だが、このラジオでする生演奏のアレンジは、どちらかというとのんびりとしたボサノバ調の曲だ。五人も少し不安があるのだろう。だから沙夜に聴いて欲しいと思っていたのだ。
「こういう曲調は俺、あまりしたことが無くてさ。」
「みんなそうでしょう?まぁ、橋倉さんと花岡さんだけは柔軟にやっているみたいだけど、夏目さんはハードロック畑だもんね。」
「純のアコギは、相当使ってないっていってたな。」
 その時ポケットに入っている沙夜の携帯電話が光ったのが見えた。それはメッセージなのだろう。五人が動いているときは、いつも沙夜が会社に逐一メッセージで報告をしている。だがそれに返信があるのは、いざというときだけだ。
 だが今はメッセージが届いていることを意味している。誰から?こんなクリスマスイブに、誰からメッセージをもらっているのだろう。
「怒られないかしらね。」
 沙夜がそう言うと、翔は我に返ったように沙夜に聞く。
「何が?」
「カバーする原曲をこんな風にアレンジして、相手のバンドから何か文句を言われなければいいけれど。」
「でも良いっていったんだろう?」
 こんな風にアレンジをすると、沙夜はあらかじめそのアレンジをした曲を作ってそのバンドの担当者に渡しておいたのだ。すると相手のバンドはとても気に入ったらしく、これをアレンジした人を聞いて欲しいとまで言われたが、それは沙夜もさすがに誤魔化した。自分がしたと言いたくも無いし、アレンジが出来る翔や純がしたと嘘も言いたくなかったからだ。
「あとは精度かしらね。」
「プレッシャーかけるね。」
「期待してるわ。」
 沙夜はそう言うと少し笑った。少し空気が柔らかくなったような気がする。今がチャンスだ。翔はそう思って、階段を上り終えた沙夜に声をかける。
「携帯が鳴っているよ。」
 音を消していたので気がつかなかったのか。沙夜はそう思いながら携帯電話を取りだして、そのメッセージを確認する。
「……沙菜ね。」
「沙菜?」
「たまに送られてくるのよ。こんな画像を。」
 そう言って沙夜はその携帯電話の画面を翔に見せた。するとそこには胸もあらわにした沙菜が、他の女優と一緒にポーズを取って写っている。よくSNS何かでは見かける画像のように見えた。
「楽しそうだ。」
「沙菜はこれで安心して欲しいと思っているのでしょうね。こういう仕事をしていたら、どうしても変な男につきまとわれたり危ない目に遭うこともあるかもしれない。だけど、こうして楽しく過ごしているから安心して欲しいと言っているみたいだわ。」
 沙菜はこういうところがある。そうやって沙夜に安心して欲しいと思っているのだろう。だが実際はもっと違う。こういう世界の足の引っ張り合いは、もっと露骨なのだから。
「表向きに見えるな。」
「だと思うわ。今日、慎吾さんが白状したから。」
「慎吾が?」
「頼まれて沙菜に近づいたって。それは沙菜の同業者だといっていたわ。」
「……。」
「その同業者は捕まってしまったのよ。薬で。」
「薬?」
「えぇ。だからもう指示をされて近づくことは無い。近づきたいのは、自分の意思だと言っていたわね。嘘っぽいけど。」
 携帯電話を閉じる。そして「二藍」の控え室のドアを開く。するとそこでは純と一馬がそれぞれの楽器のチューニングを終えて、コードを押さえる確認をしていた。
「沙夜さん。あのさ。歌い方だけど。」
 遥人は沙夜が帰ってきたのを見てすぐに沙夜に近づいて聞く。おそらくこの中で一番不安なのは遥人なのだろう。
「そのままで良いと思うわ。その栗山さんのコブシの効いた歌い方も、「二藍」の味になってるから。」
「ボサノバっぽい感じのアレンジなんだろう?コブシって合う?」
「ちょっと合わせてみて判断ね。このアレンジではあまり違和感が無いと思うんだけど。実際の演奏では……。」
 その様子を見て、翔はいつもどおりの沙夜だと思っていた。だが先程見せたその沙菜の映像。そのほかにもまだメッセージがあったはずだ。
 その相手が芹なのか、それとも翔の知らない人なのかはわからない。沙夜のことを全て知っているわけでは無いのだから。
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