触れられない距離

神崎

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パウンドケーキ

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 やはりスタジオはゴタゴタしていて、とても音をチェック出来るような状態では無い。それにアーティストがそんな中に入って、怪我でもされてしまったら困ると言われ沙夜はそれに納得した。そしてその旨を翔に伝えると、翔は納得したように楽屋に戻っていく。
 愛達も楽屋へ行き、何か話をしているようだ。おそらくハードロックの全盛期だった頃、愛は青春時代を迎えていた。そして他のメンバーもその頃のことには詳しい。話が尽きることは無いのだろう。
「失礼します。」
 ヘアメイクの女性がやってきて、メイクや髪の手直しを始める。むせるようなヘアスプレーの匂いに、沙夜は思わず楽屋の外に出た。この匂いだけはどんな整髪料を使われても慣れることは無い。つまり苦手なのだ。沙菜が好んで使っている香水は、わりと好きな方だと思うがあの人工的な香りはあまり好きでは無かった。
 楽屋を出るとちらっとバッグの中を見た。そこには白い箱がある。数日前に会社から帰り道でデパートのショーウィンドウに飾られてあったモノだった。
「男女問わず使えるユニセックスの香水なんですよ。」
 芹が香水なんかを使っているところを見たことは無い。だが香りを嗅いだ時に素直に良い匂いだと思った。そしてすぐに芹の顔を思い浮かべたのだ。その時ふと自分で感じたのだ。
 側にいなくてもその人の匂いが感じられれば、側にいるような気がする。だからみんなこういうものを買うのだろうかと思っていた。思わずその香水を買うと、ラッピングしてもらった。贈り物として。
 ただ今日渡せるかはわからない。寝ていたらいつ渡せるかわからないが、タイミングが合えば良いと思う。
 その時だった。沙夜の携帯電話にメッセージが入る。その相手を見て沙夜は少し微笑んだ。なぜ思ったらいつも連絡をくれるのだろう。
「何をニヤニヤしているんですか?」
 思わず携帯電話を閉じると、声をかけられた方を見る。そこには慎吾の姿があった。相変わらずチャラそうな雰囲気がして、沙夜には受け入れられそうに無い。
「いいえ。何でも。あなたはこんな所にいても良いんですか。ドラマの撮影か何かだと聞きましたが。」
「終わりましたよ。」
 楽屋の前の張り紙に、慎吾はため息を付いた。
「「二藍様」ね。」
 おそらく慎吾はこんな風に楽屋を用意してもらったことは無いのだろう。楽屋があるにしても他のエキストラやスタッフと同じようなところで、あまり環境が良いとは言えないのは目に見えている。
「千草さんに用事ですか?もうすぐ本番ですけど、呼んできましょうか。」
 わざと嫌みなように言った。お互いが言い感情を持っていないと翔から聞いたばかりなのだ。おそらく慎吾だって翔に会いたくないと思っている。
「いいえ。結構です。」
 予想どおりの答えだ。沙夜は携帯電話をしまうと、楽屋の中に入ろうとドアノブに手をかける。すると慎吾が沙夜に声をかけた。
「あなたは兄のことをどれだけ知っているんですか。」
「千草さんのこと?」
 この間志甫という女性と同棲をしていたと聞いたことがあるが、それ以外のことはあまり知らない。というか知る必要も無いと思っていたのだ。大事なのは今であり、過去はどうでも良いと思っていたから。
「兄に恋人がいた話とか。」
「あぁ。大学の時の?」
 大学時代から付き合っていた恋人が志甫という女性だった。だが翔はストレスを抱え込んでしまい、志甫に辛く当たってしまい、それがきっかけで志甫が出て行ってしまったと聞いている。それがこの男に何の関係があるのだろう。
「……泉さんって言いましたかね。」
「はい。」
 名乗った記憶は無いが、おそらく事務所とかで聞いたのだろう。それにいちいち反応もしていられない。
「兄の話は半分くらい本気で聞いていた方が良いです。兄は嘘をつく時もありますから。」
「え?」
「それがきっかけで俺と絶縁状態になっているのだから。」
 その言葉を聞いて沙夜は思わず慎吾の方を見る。すると慎吾は少し笑って沙夜に近づいてきた。
「詳しい話が聞きたかったら、連絡先を……。」
「交換しなくても大丈夫です。」
 その時だった奥から、見覚えのあるスタッフが沙夜に近づいてくる。
「「二藍」さん。少し早いんですけど、スタジオに入って良いそうです。」
「あ、はい。」
「音をチェックしたいと言っていたし、良かったらそこで待機してもらっても良いそうなので。」
「わかりました。伝えておきます。」
 スタッフが行ってしまった後、慎吾はため息を付く。
「クリスマスイブにテレビなんか見ている人って居るんですかね。」
「……クリスマスイブだから特別なモノを演奏するんです。見てくれている人のために。」
 沙夜はそう言うと慎吾は少し笑う。そしてその場をあとにしてしまった。
 だが沙夜の心の中にはもやっとしたモノが残る。

 翔達が音のチェックをスタジオでしている間、沙夜はその側でメッセージを送る。会社へ送ったついでに、芹にも連絡をしていたのだ。芹は珍しく外にいるらしい。そして仕事のために帰るのは遅くなるかもしれない。
 シチューを用意していたが、食べるのはもしかしたら沙夜や翔と同じタイミングになるかもしれないのだ。その言葉に沙夜は無理をしないでとメッセージを送る。だが本音は家では無く、他のところで芹に和えたら良いと思う。そしてバッグに入っている香水を渡せれば良い。芹はどんな反応をするのか楽しみだからだ。
 その時スタジオに、司会者の男が入ってきた。しばらく休業をしていたが、これが復帰後初の仕事になるらしい。中年の男の目には、前にはかけられていなかった眼鏡がかけられている。
「眼鏡も良いですねぇ。」
 ディレクターはそう言うと、男は少し苦笑いをしていった。
「どうだろうな。だけどこれをかけないとライトの光とかがまぶしくて台本が真っ白に見えてね。」
「手術は成功したんでしょう?」
「そうなんだけど、まぁ、あとは時が快活するのと点眼薬をまめに注すことだと言っていた。治る病気では無いからね。」
「良いですよ。命に関わるような病気じゃ無かっただけましです。」
「その通りだ。」
 そんな会話を沙夜は聞きながら、ふと慎吾のことを思い出した。
 役者としては有能だ。だが台詞を覚えられない。料理などの細かい作業が出来ない。それは全て一つの事実に行き着く。
「もしかして……。」
 音のチェックを終えて、翔は片隅にいた沙夜のところへ近づいていく。
「沙夜さん。水をもらえないか。」
「あ、えぇ。」
 かごを持ってきた。その中に水の入ったペットボトルを入れている。それぞれに名前を書いていて、間違えないようにしているのだ。その中の翔のペットボトルを差し出すと、沙夜は翔を見上げて言う。
「こんな時になんだけどさ。」
「どうしたの?」
「さっき慎吾さんに会って。」
「また?懲りないねぇ。あいつも。」
「慎吾さんって目が悪いのかしら。」
 その言葉に翔はペットボトルの蓋を開ける手を止めた。そして沙夜を見る。
「あいつが何か言っていたの?」
「いいえ。今までのことを考えるとそうじゃないのかなって思っただけ。」
「……沙夜は勘が良いよね。」
 翔はそう言ってペットボトルの蓋を開けると、その水を口に含んだ。
「でもそのことを今は考えたくないんだ。演奏に集中したい。」
「そうだったわね。ごめんなさい。余計なことを考えさせて。」
 すると翔は少し笑ってそのペットボトルを沙夜に手渡す。そして沙夜の耳元で囁いた。
「もし真実が知りたいんだったら、今日、仕事が終わってから外で会いたい。」
 その言葉に沙夜は首を横に振る。
「言ったでしょう?私、夕べは遅かったの。早く帰って眠りたい。」
 すると翔は少し笑って、ステージの方を見た。すると向こうから純も沙夜に近づいてくる。
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