触れられない距離

神崎

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パウンドケーキ

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 時計を見ると本番まではもう少し時間があるようだ。沙夜は自動販売機を指さして愛に聞く。
「コーヒーでも飲みますか?」
「いいえ。大丈夫。あまり飲んだりするとトイレが近くなるから。本番中はトイレなんか行けないでしょう?」
「えぇ。」
 こういう気遣いが出来る女性は、女性として魅力的だと思う。姿では無いのだ。暑くないか、寒くないか、喉は渇いていないか、お腹は空いていないかなど自分のことよりも他人を優先するような女性だから、芹が気に入っているのだろう。
「芹君のことは聞いてる?」
「どこまでですか?」
「たとえなお兄さんのこととか。」
「えぇ。今日は「Harem」は呼ばれなくて良かったと心から思います。」
 クリスマスライブをしているから断ったというわけでは無く、おそらく呼ばれなかったのだ。それだけもう時代に乗り遅れていることも、裕太自身もわかっていないのだろうか。それとも時代がついていっていないと思っているのだろうか。どちらにしても頭が悪い男だと思う。
「その奥さんのことも?」
「えぇ。芹を追い詰めたとか。それがきっかけで芹は実家にも帰れなくなっていると聞きました。」
「……そこまで知っているの。」
 芹が信用していると言っても、ここまで芹が自分のことを話すとは思えなかった。やはり沙夜に気があるのだろう。だから歌詞に少し変化が出てきたのだ。
 前は捨てられた女のことしか書いていなかったのに、今は触れたいのに触れられないギリギリの気持ちを表している。それが胸を切なくさせるのだ。
 愛の息子はおそらく恋愛などまだしたことが無い。高校生なのにその辺は未成熟なのだ。なのにその歌詞を見て、何か変化があった。最近物思いにふけっていることもある。その成長に母として嬉しく思った。
「芹君はそこまであなたに話しているのね。」
「……えぇ。私も……。」
「あなたも?」
「嫌なこともされたし、意にそぐわないことをしたこともあります。それをずっと後悔していて、誰にも話すことは無いと思ってました。だけど……芹はそれを受け入れてくれて。」
 あの夜のことを思い出す。無理矢理されたセックスよりも、自分で求めたキスの方がとても気持ちを高揚させてくれる。
「嬉しかった。」
 ぽつりと言った沙夜の顔は、男に惚れているその顔だった。
 おそらく思い合っているのだ。だが一つ屋根の下で、妹と誰か同居人がもう一人居る中ではお互い手を出すのも難しいだろう。特にこんなクリスマスイブの日には一緒に居たいのだろうに、おそらく芹は自宅に引きこもって文章を書いている。そして沙夜は外を飛び回っている。お互いの仕事の為なのだ。
「私……正直、あなたに会うのが怖かったんです。」
「どうして?」
 愛はそう聞くと、沙夜はぽつりと言った。
「芹はあなたを母のようだと言っていました。」
 その言葉に愛は思わず吹き出した。
「それは付き合いが長いからってだけよ。芹君がまだ十代の頃からの付き合いだもの。でもこういうのって時間じゃ無いんでしょう?」
「時間では無い?」
「えぇ。どう過ごしてきたかって事。少なくとも、そこまで芹君が話をしてくれたのだから、あなたには特別な感覚があると思う。」
 すると沙夜は首を横に振る。
「私には……無理です。芹の気持ちに応えられない。」
「どうして?」
「……。」
「好きなんでしょう?」
 すると沙夜は口を引き締めて、涙を堪えているように見えた。本音を見られたからかもしれない。すると愛はバッグからハンカチを取り出す。
「すいません。」
 ハンカチを受け取り、眼鏡の下から涙を拭う。そのハンカチには香水の匂いがした。それもまた女性らしさを写している。沙夜には足りないモノだ。そしてそのハンカチを返すと、沙夜は少しため息を付いて言う。
「私はあなたのようになれないから。」
「あたし?」
 愛は驚いたように沙夜を見る。そんなことで悩んでいたのかと思ったのだ。
「「二藍」にも言ってました。さっきまでギスギスしてた空気を一変させるくらいの言葉も、姿も、批判に耐えられるだけの精神力も無い。結局「二藍」のみんなに頼ってしまっていて。芹にも偉そうなことは言えない。」
 沙夜はそう言うと、愛は呆れたように言う。
「あなたいくつなの?」
「二十五です。」
「そう。あたしね。あなたの一回り以上上なの。高校生の息子が居るくらいだしね。」
「はぁ……。」
「人生経験がどれだけ違うと思うの?それにあなた、「二藍」のメンツの誰よりも年下なんじゃ無いの?」
「そうですけど。」
「二十五の小娘が、「二藍」も芹君も守ろうって思っているの?それこそ思い上がりじゃ無いのかしら。」
 その言葉に沙夜は少し言葉を詰まらせる。
「どれだけ立派かとか、そんな問題じゃ無い。要は気持ちでしょう?」
「気持ち……。」
 すると沙夜はちらっと自分のバッグの中を見る。そこには白い包みがあった。もし今日帰って、芹が起きていたら渡そうと思っていたモノだ。
「好きなんでしょう?あなたも。」
 その言葉に沙夜はどう答えようかと思っていた。その時だった。
「あぁ。沙夜さん。」
 翔が向こうからやってきた。衣装のままでうろうろ出来る格好に変わって良かったと思う。そう思いながら、沙夜は翔の方を見た。
「どうしたの?」
「スタジオに入れないかなって思って。」
「何か忘れ物でもしたの?」
「ちょっと音のチェックをしたくて。」
「……どうかしらね。入れるかもしれないけど、音がチェック出来るような環境なのかと言われると微妙よね。少し待ってて。聞いてくるから。」
 すると沙夜は愛に頭を下げると、その場を離れる。そして愛も少し笑って沙夜の背中を見送った。仕事人間のようだ。それは昔の自分を彷彿させるように思える。だからこそ、男にはまったら抜け出せないのだ。自分がそうであったように。
「石森さん。」
 翔が愛に声をかけてくる。
「どうしたの?」
「沙夜さんと何の話を?」
「ちょっとね。女同士のこと。」
「女同士?」
「聞きたいの?あまりいい話じゃ無いわよ。血なまぐさいことだし。」
 血と言われて、翔の頬が赤くなる。翔は男だけの環境で育ったのだ。あまりその辺の事は慣れていない。
「翔君は、恋人はいないの?恋人がいればそういう事も慣れてくると思うんだけど。ほら、生理の時なんかに機嫌が悪い?なんて聞くモノじゃ無いってわかってる?」
「沙夜さんは生理なんですか?」
「そうじゃないけどね。」
 少し笑うと愛は翔を見上げる。背が高い愛でも翔は少し見上げるくらいの身長差があるのだ。
「沙夜さんは表立っていないけれど、俺らのことで相当責められてるんです。」
「責められている?」
「沙夜さんのせいじゃないことで沙夜さんが責められていたりするから。」
「それは男ばかりのバンドの担当が女だからってこと?」
「えぇ。だからできるだけ守ってあげたい。」
 その言葉は翔もまた沙夜を惚れているかのような言葉だった。それがまた愛の心をざわつかせる。
「翔君。あなたも……。」
「あなたも?」
 その言葉に愛は口を塞いだ。そして誤魔化すように楽屋の方を見る。
「児玉はいらないことを言っていないかしら。あの子も音楽マニアで、しかもギターマニアなのよ。純君の機嫌を損ねなければ良いけど。」
「機嫌は良いですよ。純は。一馬が相当引いてるくらい、マニアックな話題を言ってました。」
「相変わらずねぇ。」
 愛はそう言って楽屋の方へ向かっていった。その後ろを翔もついて行く。だが翔の心には先程の愛の言葉が残っている。あなたもと言うのは、自分の他に誰かが沙夜を想っている言い方だ。そしてその相手は芹なのだ。それは確実で、そしてきっと芹と沙夜の間には何かあったに違いない。そう思うと今夜沙夜を奪ってどこかへ行きたいと思った。
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