触れられない距離

神崎

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ミックスナッツ

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 翔は大学生の時、バンド活動をしていた。ピアノ科である翔だが、あまりクラシックのピアノは熱心では無かったと思う。大学に入って、自分のレベルがわかったからだ。クラシックの音楽家としてピアノ一本で食べられるのは相当限られた人の中の更に一部だと思うから。
 しかし音楽を辞めることは出来なかった。だから音楽を続けられる良い機会として、バンドを選んだのだ。ここまでバンド歴は無く、苦労はしたが一年続けると何とか文化祭なんかで披露出来るレベルになったと思う。
 だがその時ボーカルをしていた女性が、あるコンテストに出て優勝したのだ。それをきっかけに、女性は大学を休学するとヨーロッパの方へ留学してしまった。
 ボーカル不在ではバンドとしてやっていけない。そこで募集をかけたところ、翔よりも一年後輩の声楽科にいた志甫がやってきたのだという。
 志甫は海辺の田舎から出てきたばかりだったらしく、ずいぶん日に焼けていたし髪も茶色だった。それもそのはずで、歌うこと以外の趣味はサーフィンだという。ずいぶん健康的だと思った。
 歌は骨太で、ロックの音にはまっていたように思える。何よりライブの時には跳んで跳ねて、客を煽るのがとても上手いと思った。
 そして何より志甫はとても前向きな女性だった。それに翔も惹かれたのだと思う。
 バンドを組んだ年のクリスマスに、初めてキスをした。そしてそのまま家に連れて帰って一線を越え、そこからは早かったと思う。
 春には半同棲のような形になっていた。
 お互いの休みの時にはお互いの家に行き来したり、少し長い休みの時には旅行へ行ったりした。翔はその時に、志甫のすすめでサーフィンをしてみたという。それも割と面白かった。
 そして時が過ぎて、翔の就職先が決まった。これで志甫を養っていけると、卒業と同時に翔は志甫と同棲を始める。もちろん、志甫も就職活動を始めていて、志甫の狙いはレコード会社だったのだ。

 同棲していた女性がいたのは沙夜も知っていた。だがその相手があの色素の無いような女性だと言うのは少し意外な気がする。それにあんな生気の無い感じに見えるのに、昔は健康的で肌が灼けていて尚且つ趣味がサーフィンというのは更に意外さを感じた。
「へぇ……海なんかって言ってたけどな。」
 英二もその言葉には意外だと思った。M区で路上ライブをしたときも、港が綺麗なところだというのに志甫は「潮臭い」と言って海を見ようともしなかったからだ。
「その女、結局レコード会社に就職出来たのか?」
 すると翔は首を横に振った。
「わからない。その前に出て行ったから。」
「あの女から出て行ったのか?」
 純からそう聞かれると、翔は少し手を握って言う。
「就職先で、ちょっと俺ゴタゴタに巻き込まれて……。鬱っぽくなったんだよな。」
「病院へ行ったのか?」
 精神病というのは完治したと言えないところがある。何がきっかけで翔がまた鬱になるのかと、純はそれを心配していたのだ。
「行ったよ。俺も会社を辞めて、田舎に引きこもってた。その間に病院へ行ったり、茶畑を手伝ったり、それから音楽を作ってネット上で公開したりして思いのままに過ごしてた。」
 気晴らしが良かったのだろう。それにその茶畑の主人が人格者で良かったのだ。翔が自殺をしようとしたときに、それを止めた友達の父親の茶畑は相当高値で取引されているらしい。
「鬱の面倒を見切れないって志甫が言ったのか?
 英二がそう聞くと、翔は首を横に振って言う。
「俺さ……志甫に相当当たったんだよ。」
 就職先の楽器メーカーでのパワハラや、根も葉もない噂と嘲笑に耐えていた。そして家に帰ると、志甫が就職活動でしている面接や学校のことなどを話してきて希望に満ちていた。だが翔にとってそれが大分苦痛だったと思う。実際はそんなに甘くない。真面目にしていても馬鹿を見るのはこっちなのだ。
 それなのに自分の辛いことを話そうとすると、志甫はいつものように明るくポジティブに言ったのだ。
「自分の思い通りになることなんか限られているよ。会社ってそういう所じゃ無いの?みんな相当我慢しているみたいだし。翔のわがままじゃ無いのかな。」
 その一言でぶち切れた。
 社会に出たことも無く、のんびりと音楽だのバンドだのサーフィンだのと勝手気ままに過ごしている志甫に我慢が出来なくなったのだ。
 気がついたら志甫の頬を叩いていた。唖然として志甫は座り込んでいたと思う。そして翔の方からあの家を出て行ったのだ。
 次の日に帰ってくると、もう志甫の姿は無かった。荷物も全て消えていたと思う。それを見て、翔は自分のしたことに後悔をしていた。

「一発だけ?」
 純がそう聞くと、翔は少し頷いた。
「殴るってさ、殴られた相手も痛いけど、自分の手も痛かった。その痛さで自分が何をしたって思い知らされたよ。」
「……。」
 おそらく人と喧嘩もしたことは無い。言い争いは苦手で、自分が引けばそれで丸く収まると翔はいつも思っていたと思う。もちろん例外もあったが、あまり感情をあらわにする方では無いのだ。いつも穏やかにニコニコと笑っているので、みんなが翔に甘えているように思えた。
 沙夜は案外突き放すところがあるし、そこまで面倒を見切れないと言うところもあるのだ。
 芹に至っては、殴られることの方が多かったかも知れない。口に蓋が出来ないので、敵が多いと思う。だが作詞家やライターとしては姿は見せていないので、殴られた事はほとんど無いが、おそらく表に出れば刺されることもあるかも知れない。それくらい芹は危ない橋を渡っていた。
「志甫はあまり自分のことを話さないけど、そんなことがあったんだな。んで、翔さん。」
「はい?」
「志甫と顔を合わせたくないのはわかるけど、このままだと志甫はメジャーデビューするよ。そうなったら嫌でも顔を合わせることになるんじゃ無いの?」
 その言葉に翔は少し俯いた。一馬にも確かに顔を合わせたくない人がいるだろう。だが一馬はその辺は大人だ。挨拶をしてそのままその場を離れる。関わりたくないと思っているのだろう。
 しかしそれに首を振ったのは沙夜の方だった。
「それは多分無いですね。」
「音楽番組なんかに呼ばれたりしたら……。」
「そうなったら、一度、二度は顔を合わせるかも知れません。しかし、このライターの言うこと、何より先ほどの演奏を聴けば、鳴り物入りでデビューをしても長続きはしませんね。」
 だから安心して欲しいとも聞こえる。すると英二が沙夜に聞いた。
「もしさ。「紅花」を売り出して欲しいと沙夜さんにレコード会社からの依頼が来たら、沙夜さんはどうやって売り出す?」
 その言葉に沙夜は首をかしげていった。
「そうですね……。話をしてみないとわかりませんが、このまま生き残るすべとすれば私では無く芸能事務所と契約をさせた方が良いですね。トーク番組とかでキャラが立てば、バラエティーなどで重宝されるでしょうし。」
「……歌では勝負が出来ないと?」
「出来ませんね。もし彼女らに聞く耳があって、自分たちの意見を押し込められるのであれば活路は見いだせます。」
「……。」
「あの調子ではおそらくそうしないと思います。加藤さんの声も聞かないのでしょうし。」
「鬱陶しいとしか言われなくてね。俺が音楽の大学を出ていないのをいつも口にしている。」
「大学を出ていてもアホは沢山いるし、確かな耳を持っている人なんか限られているんですけどね。」
 沙夜はそう言うと酒に口を付けた。その口調に沙夜もまた少し酔っているように感じる。普段は思っていてもあまりそういうことを口にしない。どこで誰が聴いているのかわからないからだ。
「……あ……。」
 それに気がついて沙夜は口を押さえる。そして英二に言う。
「すいません。今言ったことは忘れてください。」
「大丈夫だよ。こんな店でそう本気で捉えないから。でも聞かせてやりたいよ。あいつらに。」
 すると芹は翔に聞いた。
「あの志甫って女さ。」
「あぁ。」
「大学でそんなに成績が良かったのか?」
「良ければコンテストに出るよ。そしてそっちの歌手を目指すはずだ。オペラや声楽に興味が無ければ、卒業する前にメーカーがしている音楽のコンテストかなんかに出るだろうし。それをせずにレコード会社の面接へ言ってたって事は、どういうことかわかるだろう。」
 すると芹は頷いた。
「たいしたことは無いんだな。」
「その通りだ。そしてそのレベルは別れた頃とあまり変わっていない感じがする。いや、むしろ劣化しているように感じるよ。」
「……。」
「昔は合唱団とかに入っていたみたいだけどね。それで音楽の大学へ来たと言っていた。」
「そのまま合唱でも何でもしてれば良かったのに。」
 芹はそういうと沙夜は首を横に振る。
「合唱こそ、一人一人の力が試されるのよ。あんな歌い方では足を引っ張るだけね。」
「あーそう言えばさ……。」
 その時だった。店のドアが開いた。そして数人の男女が店内に入ってくる。
「続きが聴けるって聞いたんですよ。」
「「紅花」ですか?」
「オリジナルも聞いてみたいわ。」
 ライブが終わったらしい。その様子に四人は立ち上がる。
「じゃあ、帰るわ。」
 純はそう言うと、英二は頷いてウェイトレスに伝票を渡す。
「恵ちゃん。お会計。」
「はーい。みんな一緒の会計で良いですか?」
 明るいウェイトレスだ。さっきまでの空気を払拭させてくれるように感じる。
「はい。あと、領収書を。」
 沙夜はそう言ってお金を払う。これも経費で落ちると思うが、成果は無かった。勧めてくれた西藤には、正直に言ってみようと思う。
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