触れられない距離

神崎

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ミックスナッツ

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 年明けから始まるツアーの手配などの仕事、「二藍」の五人の仕事のチェックなどを沙夜は終えると、定時を迎える。ここ最近では一番早い時間だろう。そう思いながらパソコンをシャットダウンし、沙夜はそのまま荷物をまとめてコートを着る。
「仕事終わり?」
 まだ雑務が終わっていない朔太郎が沙夜に声をかけた。
「えぇ。」
「そうだ。今度の忘年会の話は聞いている?」
「部署ごとにするとか。その日は空けておきます。」
 遥人が遅くの時間にラジオの番組に呼ばれているが、その辺は芸能事務所に任せておけば良いだろう。そう思いながら、沙夜はカレンダーを見た。
「忘年会が終わったらショーレースと歌番組が続けてあるからまた忙しくなるね。」
「そのための英気を養うためでしょう。場所は居酒屋でしたかね。」
「うん。居酒屋なんか行く?」
「あまり行きませんね。」
 居酒屋で一杯飲んだりなどはしないが、外は外で飲むのに楽しみがある。珍しい酒なんかは気になるのだ。
「では。お疲れ様でした。」
「お疲れさん。」
 沙夜が行ってしまうのを見て、朔太郎は少しため息を付く。遅く来ても定時で帰れるのだ。それくらい仕事の手際が良いのだろう。普段残業をしているのは、沙夜の仕事量が本当だったら二,三人くらいいないと手が回らない仕事だからだ。それを一人でしているのだから、会社にとっては都合の良い人材だろう。
「植村さん。また振られた。」
 隣の女性がそう言って朔太郎をからかう。すると朔太郎は頬を膨らませていった。
「そんなことは無いよ。まだ何も言ってないし。」
「ふふっ。植村さん。今夜、また行きましょうよ。」
「え?」
「この間のところ。」
 隣のこの女性と朔太郎は恋人では無い。だがこの間二人で酔っ払った勢いでホテルへ行ったのだ。
 女性を忘れかけていた朔太郎は何度もこの女性を求め、女性も朔太郎を求めた。なのに朔太郎はずっと沙夜をその女性に重ねていたのだ。沙夜もこんな反応をするのかも知れないと思いながら。
 もし忘年会で誘えるなら誘いたい。その真実を知りたいからだ。

 会社からの最寄り駅にあるカフェに沙夜が入ると、コーヒーを頼んで店内を見渡す。そして目に付いたのはニットキャップをかぶった芹の姿だった。芹は一生懸命タブレットで何か文字を打ち込んでいるように見える。そして傍らにはコーヒーがあった。
「遅くなってごめん。」
 沙夜がそう言って芹の前の席に座る。そしてコーヒーのカップを置いた。だが芹はずっとタブレットに何か打ち込んでいて、沙夜の方を見ない。こういうときは執筆をしているのだ。集中していて周りの声など聞こえないらしい。
 沙夜はその様子がわかり、邪魔をしないように静かに携帯電話を取りだした。そして「二藍」のSNSをチェックする。
 遥人が脅すように挙げた包帯で巻かれた沙夜の左手。それから「二藍」のページに挙げた文章。それは割と話題になり、テレビのコメンテーターすら「二藍」の味方をしているように思える。そしてどの事務所でも「ファンは節度を持つように」という流れになってきた。
 そうで無くてもSNSなどでアーティストとファンの垣根が無くなってきつつあるのだ。だが勘違いはしないで欲しいと思う。実際、「二藍」のコメントにも、遥人のSNSのコメントにも好意的なモノが多い。そうなってくると、辛いのは指した福島だろう。福島は表立って歩けるのだろうかと思っていた。
 SNSの中には、沙夜を刺した女として福島の画像が流れていることもある。そうなれば福島も沙夜も辛い立場になるのだ。沙夜自体、刺されたのは痛かったし仕事に支障も出た。だがそれをせめて被害者面をする気は無い。あまりにも情報を開示しなかったこちらにも非があると、沙夜もやはり思っていたのだから。
「ん?」
 コーヒーに手を伸ばした芹がやっと沙夜に気がついた。沙夜も携帯電話の画面を見てずっと集中していたのだから。
「いつからいたんだよ。」
「さっき。」
 沙夜はそう言うが、沙夜の側にあるコーヒーのカップのコーヒーは半分ほど減っている。十分やそこらそこにいたわけでは無いのはわかった。
「声をかければ良かったのに。」
「かけたわよ。でもずっと集中していたから。」
 芹はそう言われて手を挙げると伸びをした。紺色のジャンパーと紺色のニットキャップは表に出るときには、冬場に外に出るときにはいつも着ているモノだ。これ以外の服を持っていないようにも見える。
「たまには気分を変えると言葉がすらすら出てくるわ。」
「あぁ。フォークシンガーのモノかしら。」
「うん。この歌手ってちょっと幸薄そうだよな。確かに捨てられた女の情念みたいな歌が似合うよ。」
 そう言って芹はタブレットを沙夜に見せる。そこには沙夜でも想像していないほどの、ドロドロした歌詞が連なっていた。
「……なんか絶句するわね。この男って凄いくず。」
 隣の部屋から幸せそうな声がする。おそらくカップルのじゃれ合う声なのだ。だがすぐにそのカップルのうちの男は自分の恋人だと気がつく。それとは気づかずに、女はずっと男への愛情を募らせる。
 タイトルは「隣の部屋」というモノで、おそらく芹は実体験を書いているのだ。隣の部屋で紫乃が兄である裕太と逢瀬を繰り返していたのに、芹の元へもやってくる。そして芹には体の関係と引き換えに、仕事で得た金銭の要求をしていた。
「それしか書けないみたいに思えてくるよ。」
「そんなことは無いわ。最近、渡先生は前向きになったっていう話もあるのよ。」
「だとしたら、新しい出会いがそうさせているのかもな。」
 新しい出会いとは沙夜のことだ。沙夜に出会えて紫乃を忘れられた。だが二人はカップルというわけでは無く、ただの同居人、または担当者なのだから。
「何時から?ライブ。」
「二十時からっていう話ね。K町までは電車に乗って行きましょう。あなた、K町は行くことあるの?」
「無いことも無いな。」
 だがそれは沙夜に言いたくない目的で行くのだ。
 芹にとってK町は、一晩限りの相手を求めに行くところだから。髪を上げれば、割と見れるような顔立ちをしている。なのにうぶなふりをすれば、女から誘ってくるのだ。だが連絡先を交換することは無い。ただの排泄処理で、自慰とあまり変わらないと思う。
 今抱きたいのは沙夜だけだ。
「花岡さんが住んでいるのはK町なのよ。」
「え?あんな繁華街に住んでいるのか?」
「元々の実家もK町みたいだし、近いところに住んでいるのね。奥様もずっとK町に住んでいたみたいだし。」
「物好きだな。あんな騒がしいところで子育てとか出来るのかな。」
「出来るんじゃ無い?あの辺には小学校も中学校もあるのよ。それに保育園もあるし。」
「ふーん。」
「公園が近くにあるのよ。そこでストリートライブをするらしいわ。」
 その公園のことは芹もよく知っている。K町の中央にある公園は、場所によってはゲイが集まるハッテン場になっていたのだ。つまりゲイ達が一晩限りの相手を見つけに来るらしい。
 もちろんそればかりでは無く、キャバクラの客引き、ポン引き、夜中になれば外国人のバイヤーが薬を売ったりしている。あまり治安は良くない。
「飯ってどうするの?」
「帰りに適当に食べて帰りましょうか。ご飯をこの時間から作るのも面倒だし。翔も公園で合流するから。」
「翔って、そんなところに行って大丈夫なのか?」
「まぁ……本人には都合が良いでしょうし。」
「都合?」
「ゲイカップルの噂ってあるじゃ無い。ほら、栗山さんとの……。」
「あぁ。栗山さんも来るのか?」
「栗山さんは、今日はラジオの番組があるの。だから今日は夏目さんと一緒に来ることになっているわ。」
「真性のゲイなんだろ?あの人。」
「だからあの辺は慣れているのよ。慣れた人の方が良いと思って。」
「なるほどな。」
 芹はそう言ってコーヒーを口にする。
 あの日から沙夜をいつも駅まで迎えに行っていた。その道中はデートのようで気分が良い。そして今日はその距離が長いし二人で居れる時間が多いと思ったのに、翔や純も付いてくるとなると、ちょっと話が違ってくる。
 翔が居れば特に、ライブのあとにちょっと寄り道なんて事も出来ないだろう。だがそれは翔も同じだ。翔に沙夜を連れ去られたくなかった。
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