触れられない距離

神崎

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ミックスナッツ

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 家にある防水の絆創膏が無くなりそうになったとき、やっと医師から明日から来なくても良いと言われた。長かった。沙夜はそう思いながら、左手の傷を見る。そこまで深い傷では無かったのだが、なんせ手のひらから手首にかけての傷なのだ。肌が這っているところで尚且ついつも動かしているようなところなのだから、治りが遅いのは当然かも知れない。
 今までの領収をまとめ、ついでに割れた眼鏡の領収書と、破棄したスーツの領収書をオフィスへ行く前に総務課に渡した。そしてちらっとそのオフィスを見渡すと、沙夜を刺した福島がいた席には別の女性が座っている。おそらく派遣か何かなのだろう。事あるごとに別の社員に資料を見せてアドバイスをもらっているようだ。こういう人間が将来使えるようになるのだ。
 ここは職場であって色恋をしに来るところでは無い。レコード会社だから、自分が好きなアーティストなんかがいつも通っていることもあるが、あくまで彼らは商品でありそれを売り出すのが自分たちの仕事で、それも事務となればその屋台骨なのだ。沙夜を逆恨みするのは筋違いだと思う。ここで働いている人はみんなそう思っていたらしい。情報を開示しなかった「二藍」にも責任があるように言っているのは一部だけで、ほとんどが沙夜の考えに同意していた。
 領収書を提出した事務員が、画面に沙夜の情報を映し出している。そしてそれを指さして沙夜に聞いた。
「支払先は振り込みで良いですか。給与と同じところです。」
「はい。結構です。」
「支払われたらまたそちらのオフィスに資料が行きます。それにサインをしてまたこちらに返してください。」
「はい。わかりました。」
「ではお疲れ様です。」
 この女性も「二藍」のファンだという。きっと沙夜に聞きたいことがあるのだろうに、それをぐっと押さえているのだ。それが本当のファンなのだろう。自分だけという特別感はこの場では捨てるのだから。
 沙夜はそう思いながら、エレベーターに乗ると自分のオフィスへと向かいオフィスへ入ると、自分のデスクのパソコンを立ち上げた。そしてコートを脱いで後ろにあるハンガーに掛ける。すると外に出ていた植村朔太郎が、沙夜を見て近づいてきた。
「泉さん。病院へ行ってきていたの?」
「えぇ。もう夜にはこの絆創膏も取って良いと言われましたね。」
「長かったねぇ。」
「えぇ。」
 すると向こうにいる女性社員が、沙夜に声をかけた。
「泉さん。快気祝いしませんか?」
「快気祝い?」
「手が治ったお祝い。」
 すると沙夜は少し首を横に振る。
「すいません。今日は予定があって。」
「あぁ。そうなんですか。同居人とどこかへ行くとか?食事をずっと作ってなかったんでしょう?」
 沙夜はその言葉にも首を横に振る。
「今日は、K町の方に行くので。」
「K町?」
 繁華街だ。夜でもギラギラと明るく、居酒屋、バー、キャバクラ、ホストクラブなどが建ち並び、ここの部署もしばらくするとある忘年会などでK町まで足を運ぶこともある。
「西藤部長が勧める歌手を見に行こうかと。」
「あぁ。「紅花」って言ってたかしら。ストリートでは結構有名で、SNSでライブの告知をすると、人が集まってくるとか。」
「えぇ。」
 ストリートで歌う人は危険と隣り合わせで、場合によっては道路交通法や迷惑防止条例なんかに引っかかることもあるのだ。だが「紅花」の場合、どうも様子が違うらしい。
 近くにあるライブハウスの宣伝目的で演奏をしているらしい。それもあまり長時間はしないのだ。続きが気になればライブハウスへ来いという事だろう。
「そっか。千草さんのソロアルバムのことかな。」
「えぇ。ボーカルを探しているという話をしたら、その人達が良いのでは無いかと。」
「動画や画像のアップは認められていないみたいだから、俺は聴いたことがないけどどうなんだろうね。」
「あ、あたし聴いたことがありますよ。」
「どうでしたか。」
 沙夜はそう聞くと、女性は少し首をかしげて言う。
「癒やし系って言うんですかね。透明感があるウィスパーボイスって感じです。」
「……そうでしたか。」
 元々ハードロックの無骨な音楽に慣れている沙夜には、少し物足りないかも知れない。だが決めるのは翔だろう。声によってまた曲を煮詰めるかも知れない。
 だが気になるところはある。K町は賑やかなところだ。そこでそんな声を出しても誰も気がつかないかも知れないのに、どうして注目されているのだろう。それはもしかしたら曲の精度かも知れない。
 沙夜はそう思いながら立ち上げたパソコンをクリックする。するとそこには雑誌の取材の依頼が届いていた。その日程を見て、五人のスケジュールをチェックする。いつもどおりの日常が始まった。

 紺色のジャンパーは何年も着ていて、もう大分色褪せている。それにジーパンもずっと着ているモノで、これも大分色褪せていた。見た目は相当うさんくさい。だがこれでも外に出るときのための格好なのだ。
 編集室の別室で、芹はその格好のまま契約書を書いている。そしてその向かいには、女性がいた。この国の人にしては全てが大きく、背も、体つきも、そして胸も尻も大きい。そして化粧が濃く、特に口紅は真っ赤だ。並の男なら一歩引いてしまうような女性であるその人が、芹が最もお世話になっていて今でも世話になっている石森愛という女性だった。沙夜の次くらいにこの女性を信用している。
「これでいい?」
 サインと印鑑を押すと、愛は少し笑ってその資料を目にする。そして細い指で資料を指さした。
「ここ。間違えてる。斜線をして印鑑を押してから、正しいのを書いて。」
「けちくさい。」
 芹はそう言ってまた資料にペンを走らせる。その様子に愛は少し笑って言った。
「それにしてもあんたの文章は相変わらずよね。」
「どういうことだよ。」
「言葉の通り。辛口で、あんたが取材したアーティストの中には、あんたを毛嫌いしている人達もいるのよ。」
「中途半端な音楽しか作れねぇのに、言うことはいっちょ前なんだから手に負えないって。」
「ふふっ。そうね。でもあんた、凄い人間的には丸くなっている。」
「丸く?」
「一時期、失踪したときとは大違いね。好きな人でも出来たの?」
 すると芹の頬が赤くなる。その反応に愛は初々しいと思いながら、それでも人を好きになるほど生長した芹に少し感動すら覚えた。
「同居している君?」
「そんなことまで言う必要ないだろ。」
「ふふっ。可愛いこと。うちの息子みたいね。」
「息子元気?」
「えぇ。元気に部活へ行っているわ。高校生になって彼女の一人もいないのよ。そうそう。この間ね。旦那の弟……つまり義理の弟から聞いたんだけど。」
「何を?」
「弟と息子が仲が良くてね。色んな相談をされることもあるみたいなんだけど、その時に同じ陸上部の女子から手紙をもらったって言っててね。」
「手紙?今時は携帯のメッセージとかじゃ無いのか?」
「手紙は残るじゃ無い。だからそっちの方が良いんですって。それで「どうしたら良いかな」って相談されたんですって。可愛いこと。」
 まさかその高校生の息子が、こんな他人に自分のことを話すとは思ってもみないだろう。可愛そうになってくる。
「まだ色恋がわかんねぇんだろ。人それぞれだし、別に良いんじゃねぇの?」
「草壁も同じように見えるけどね。」
「俺?まぁ、あまり男だの女だので見たことは無かったし……妹の方が早熟だな。その辺は。」
「妹さんとは連絡を取っているの?」
「妹だけだよ。両親には近況だけ伝えておいてくれって言っている。それから兄には絶対言うなって言っているよ。」
「伝わっていないの?」
「多分な。両親にも多分止められているよ。兄さんと俺は繋がりを持たせると、今度こそ兄さんが犯罪者になるって。」
 音楽関係の雑誌の編集者になってずいぶん経つ石森愛は、芹の兄である天草裕太の音は軽く聞こえていた。これではファンが離れていく。それは芹の言ったとおりになりそうだ。
「……そうね。」
 ここに天草裕太が来ることもある。だがそういうときは芹を呼ばない。絶対会わせてはいけないと、愛も思っていたのだ。
「ところで今日はもう帰るの?」
「あーいや。なんかK町に付き合ってくれって言われててさ。」
「そうなの?珍しいわね。あんな騒がしいところに用事があると思ってなかったけど。」
「「紅花」を聴きたいんだってさ。」
「あんたがけちょんけちょんに酷評した?デビューしても続かないって言っていたのに。」
「その事実を知らしめるのにいいチャンスだろ?」
 芹はそう言って口元だけで少し笑った。目が隠れているせいで、その表情はあまり読み取れない。だがその耳だけは確かなのだ。だから愛も長く芹を信用している。
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