触れられない距離

神崎

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 物心が付いた頃には沙夜は双子の妹である沙菜とカメラの前にいた。双子の天使のような容姿を持つ女の子なのだ。モデルとしては引く手あまただったのかも知れない。だが沙夜は小学校へ入る頃モデルを辞めている。そして同時期に始めたのはピアノだった。
 ピアノの先生からは「才能があるのはわかるが、大学へ行くとなると難しいかも知れない」と言われたのは、沙夜に決定的な欠陥があったからだと思う。
 沙夜は譜面どおりに弾くのが苦手だったのだ。
「バイエルなんかは結構早く終わったんですけどね。決まった課題曲なんかを練習していても、その譜面では首をかしげることが多くて。」
 わざと小さく弾くと言うところで大きく弾いてみたり、音を足してみたり、静かな曲なの字ジャズ風に演奏してみたりしていたのだ。沙夜にとってそれが一番の楽しみだったのかも知れない。
 やがて自作の曲を作るようになった。コード進行や音楽理論など知ったことでは無い。ただ好きに作ったメロディに音を重ねていく。それが一番楽しいことだった。
 だが母親はそんなにピアノが好きなら大学へ行けという。母親の理想は容姿端麗なピアニストとしての沙夜が、ステージで綺麗な衣装を着てピアノを弾いているコンサートをすること。その親だと誇りを持って言えるから。
「いったんは我慢して大学のための勉強をしました。それからコンクールにも出ました。」
 うずうずしていたし、フラストレーションが溜まった。だがその中にも沙夜は希望を見いだす。今まで適当に作っていた曲だったが、基礎を知ればもっとそれは音楽と言えるようなモノになれる。そう思っていた。
 大学に入り、少し余裕が出てきた二十歳の頃。自作の曲を撮り溜めた。音をデータにして、自己満足をしていたのだ。その時沙菜からあるサイトを勧められる。
「素人が音楽を奏でられるサイトでしたね。そこでアカウントを取れば、誰でも音楽を公開することが出来ると。」
 名前は自分の名前から一文字を取り、「夜」とした。安易だと思う。
 そして試しに一曲投稿してみた。するとその反応は悪くなかったと思う。曲をお気に入りに登録されたり、沙夜自体のユーザーを登録されたり、感想を書き込まれるにも好意的なモノが多かったと思う。
「次が聴きたいという声に応えて何曲か載せてみました。」
 あっという間にお気に入りユーザーの登録は三桁になり、四桁になり、視聴回数も相当なモノだったと思う。その時沙夜は自分の音楽が世の中に受け入れられていると思って嬉しかったのだ。

 裕太の携帯電話の中から流れるその曲はその当時のピアノ曲の一曲だろう。それは沙夜が作ったモノで、一番評判が良かったモノだ。
「この曲は望月旭さんも気に入っていたな。」
 テレビ番組で流したのだ。そしてその反応は良くて、未だにSNSではこの曲を演奏した人、作った人の憶測が飛び交っている。有名な作曲家だとか、海外のモノだとかその予想は的外れだ。作ったのはここにいる沙夜なのだから。
 だが純はまだ信じられないように沙夜を見ていた。沙夜が楽器を弾いているところを見たことが無いのだから。確かに機材を運搬して試しに音が出るかどうかチェックをすることがあるが、それくらいだろう。がっつり曲を弾いているところを見たことは無い。
 そしてそれは一馬や治も一緒だった。だが遥人だけは真実味を帯びた話だと思っていた。いつかテレビ番組で沙夜が口添えをしただけで、音楽が変わった事もある。弾く、弾けないはともかくとしても音楽的なセンスが並外れているのは確かだ。そしてもしピアノを弾けるとすれば、おそらくこういう曲を作るだろうと思える。
「作った曲は公開していた曲だけなのかな。」
 裕太がそう聞くと、沙夜は首を横に振った。
「おそらく倍以上はありました。自分で納得したモノでは無いと、公開はしたくなかったので。」
「その曲は?」
「消してしまいました。手元にはありません。」
「消した?」
 その言葉に沙夜はぐっと唇を噛む。
「あのサイトにアカウントがあったのは一年くらいだったと思います。お気に入りユーザー登録をしてくれた人も多かったし、日々感想とかメッセージがやってきて中にはレコード会社からのオファーもあったと思います。」
 世の中に受け入れられる音を作れた。それだけで沙夜は満足していたと思う。
 だがあの日、沙夜は悪夢のようなことを告げられたのだ。
 音楽の大学と言っても一般教養や音楽史、音楽理論などの座学もある。その中にいた教授が口走ったのだ。
「素人が作る音楽なんかは、音楽では無い。理論にそっているわけでは無いのだ。大体、人気があると言ってもどこかで拾ってきた音楽の模倣なのだから。」
 自分はそんなことをしていない。あくまで自分が作ったオリジナルの曲なのだ。そう思って沙夜は他人事のように聞いていた。
 だがその授業が終わったとき、たまたま前の席に座っていた男の二人組が沙夜に話しかけてきた。
「君って、「夜」って言う名前で音楽を投稿していない?」
 どうしてわかったのだろう。沙夜は驚いて二人を見た。
「何で……。」
「君の本名も大学も晒されているよ。SNSでね。」
 SNS何かには疎かった。だがその言葉に沙夜は焦って、携帯電話のウェブを使い「夜」の名前を検索したのだ。すると、そこには思いも寄らない言葉が連なっているのを見た。

「これくらい誰でも作れるだろう」「何でこんなにちやほやされているんだ」「感想だけ見ていい気になっているんだろう」「実際はこの曲に似ている」「パクっている」「模倣だ」

 沙夜はその言葉を見て吐き気を覚えた。そして画面をスクロールすると、更に沙夜の写真、本名、大学名、そして最寄り駅まで記され、さらには沙菜のことまで載っていた。沙菜はその当時、AV女優としてデビューしたばかりだったと思う。
 このままでは沙菜にまで迷惑をかけてしまう。そう思って沙夜はとりあえず本名などの個人がわかるものはサイトの運営者にユーザーを凍結してもらった。だがそれが更に火に油を注ぐ事になった。
「この会社でも言われていることなんですが、妹があぁいうキャラを武器にして、AVに出ているというのがわかっているみたいなので、サイトのメッセージにも卑猥な言葉が連なりました。」
 やがて沙夜は自分が音楽を作っているから悪いのだと思うようになってきたのだ。それでも音楽を捨てきれない。それに好意的な意見と新曲が聴きたいという声に、沙夜は無視しきれなかったのだ。
 新曲を投稿する度に、沙夜の元にメッセージが届く。それは卑猥なモノばかりだった。
 ついに沙夜は台所で包丁を手首に当てた。
「でも……生きているよね。」
 すると沙夜は頷いて手首を見る。
「沙菜が助けてくれたんです。」
 明らかに沙夜の様子がおかしい。そう思った沙菜は沙夜を引きずるように病院へ連れて行った。そして原因であるSNSを見ることになる。
「犯罪だと言ってくれて……沙菜はデビューして得たお金の一部を弁護士費用に充ててくれたんです。それから病院へ通院するのも面倒を見てくれて。それからサイトのアカウントを消してくれました。そこからやっと自分になれた気がする。」
 沙夜の目からついに涙がこぼれた。その様子に治がハンカチを渡す。
「音楽はもう作らない。関わりたくない。そう思ってたんですけどね。」
 すると裕太がため息を付いて言う。
「だけど実際、泉さんはこうやってレコード会社にいる。それはどうして?」
 すると沙夜は頷いて言う。
「レコード会社であれば自分が演奏することはまず無いと思ったからですね。」
「なるほど。」
 確かにそうかも知れない。演奏者をバックアップする立場であるため、本人が演奏をすることは無いだろう。それでも音楽を聴けば辛くなるのでは無いかと思う。
「それでもどうして音楽に関わろうと?音楽に関わらない仕事というのは沢山あるだろうに。」
「それでも関わりたかったんです。馬鹿なんでしょうね。」
 人間を信じたのも音楽で、裏切ったのも音楽だった。だがその音楽を捨てることは出来ない。沙夜がまだ音楽を好きだから。
「なるほどな。」
 病院へ行っていたというのはおそらく精神の病だったのだろう。そして一馬の妻もそれに通っていた時期がある。だから同じような匂いがすると思ったのだ。
「そう言えばさ。翔は知っていたのか?」
 その言葉に翔は頷いた。すると治が頬を膨らませて言う。
「けちくさいな。お前。何で教えてくれなかったんだよ。」
 すると沙夜が声を上げる。
「千草さんは最初から知っていたんですけど……その、私が止めていてですね。」
「え?」
「あれだけ本名や写真が載っていたとなると、ここで私が「夜」だと言えば、更にまた調べ上げられるかと思って。その……プライベートのことも知られる可能性があるからと。」
「どこから漏れるかわからないって事か。でもここで話をしたのは正解だったかも知れないな。泉さん。」
 裕太はそういうと少し笑った。そして沙夜を見る。
「ただ、まだ俺は君が「夜」だと言うことは信じていないんだ。」
「え?」
 すると裕太は視線を沙夜の手に巻かれている包帯に目を落とした。
「その包帯はいつ取れる?」
「二,三日後には絆創膏レベルになると。」
「それでも完治というのには一,二週間かかるか。うん……わかった。泉さん。二週間後くらいに、スタジオへ行く用事があるだろう。」
「えぇ。」
 翔のソロアルバムの打ち合わせのためだ。それをそろそろ煮詰めたいと思っていて、その場所が練習スタジオだったのだ。
「その時、俺も行く。その時君の演奏が聴きたい。」
「え……。」
「生の「夜」の演奏が聴けるんなら役得だと思うけど。」
 裕太はそう言って少し笑った。だが沙夜にはプレッシャーになる。
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